九月の都内は蒸し暑い。時折り吹き渡る風は湿気を帯びていて、涼しいと感じることはない。額と首筋に玉のような汗を浮かばせながら私はギャラリーに到着した。
ギャラリーの扉をそっと開き、受付でチケットを渡す。冷房が効いた小ぶりの館内は照明をやや落としており、その空間は明け方の空のようだった。
物音ひとつ立ててはいけない雰囲気の中、順路に従いながらひとつひとつの作品を見ていく。画廊のオーナーが言う通り、心惹かれる写真が幾つか目に留まった。
街中や自然の中に潜む色彩と、詩情に満ち溢れるような小さく、それでいて主張を続けるような幾つもの断片を写し取ったような作品。
きっと、写真が捉えているのは終わりのない、この広い世界の中にある小さな断片と幾つもの想い出なのだと感じた。彼の作品も私の作品も、小さな想い出の断片のひとつなのだろう。
作品にどのような意図が、想いが込められているかを想像しつつ、ひとつひとつの作品の前で立ち止まり、ゆっくりとギャラリーを見て回った。
そして最後の作品が出口前の広いスペースに展示してあった。その作品からやや離れたところにあるアンケートコーナーには、ギャラリーのオーナーらしき初老の男性が来場者に感想を求めるように談笑と挨拶を交わしている光景が見えた。私は出口付近に誰もいなくなったところを見計らい、おもむろに作品の前に立った。
その作品を瞳に映した瞬間、息を呑みこんでいた。
身体が震える。そして涙がとめどなく溢れてきていた。
微動だにせず、肩を震わせている私の後姿を目に留めたのだろう。初老の男性が「如何なさいました?」と、声を掛けてくれた。
しかし返事すらしない、出来ない私を訝し気に思った男性はついと私の隣に並び、横顔を覗き込んできた。
えっ……と、男性も呻くような小さな声を上げたあと、作品と私の顔を何度も見返していた。しばらくの間、私と初老の男性には躊躇うような静寂だけが支配していた。
そして、男性が静かに口を開いた。
「失礼ですが、この作品に映っているのは貴女ですね……」
その言葉に頷くしかなかった。
壁に掛かっているモンマルトルの丘と私を映したその作品から青い、九月の風が吹いてきたことを私は感じ取っていた。
B0サイズのパネルには十年前の私が眼下にあるパリの眺望を見下ろしている。
こんなもの……、何時いつ撮っていたのよ。
鼻を啜りながら溢れる涙を手で拭っていると、男性がそっとハンカチを差し出してくれた。
「ありがとう……ございます」
差し出されたハンカチで涙を拭ってはみたが、私の目は少時、そのパネルに釘付けのままだった。
それはこの写真の意図を、彼が何故、これを風景寫眞と銘打ったギャラリーに出品したのかを理解したかったからだ。
「少しだけ……お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
丁寧で落ち着いた声が耳に届いた。我に返った私は、男性のほうへと向き直った。
「はい……。申し訳ございません、ちょっと感傷的になってしまって、不躾でした」
「……いえ、私もこうしてギャラリーを経営している者として、貴方とこの作品、カメラマンに興味を持ってしまったのです。五分の立ち話で結構ですから、お時間をいただけますか?」
白髪の混じったオールバックに髭を蓄えた、そのオーナーの人懐こそうな笑みに気持ちが和んだ。
「はい、何なりと……。私もオーナー様にお伺いしてみたいことがありますから」
目尻を下げて穏やかに頷いた老紳士は、人目につきにくい柱の陰に私を招いてくれた。辺りにスタッフや来場者がいないことを確認したオーナーはゆっくりと口を開いた。
「貴女とカメラマンとの関係などを伺うつもりはありません。貴女の涙を目の当たりにして、そんなことを聞くのは野暮だと思っていますので……。ただ、貴方にひとつだけ質問したいのです。あの作品が何故、この風景寫眞と銘打った題材の最期を飾る作品だとお思いですか?」
純粋に私と彼、そしてオーナー自身の考えを纏めたいのだと悟った。この方はほんとうに写真が好きで、別の意味でのプロなのだ。と、同時に気配り、心配りが出来る優しい心根の人なのだと感じていた。
「はい……、私なりの考えですけれど」
そう、私もオーナーと同じことを考えていた。
一旦、言葉を区切り、もう一度あの作品を柱の陰から見つめた。
ああ、やっぱり間違いない。あなたはほんとうに私をよく見ていてくれたのね。ステキな風景寫眞、あなたの作品だわ……。私は又、溢れそうになった涙をぐっと堪こらえた。
「あの作品には……」
私の次の言葉を促すようにオーナーは僅かに顎を引いた。
「あの作品は……一見、私を撮ったような人物写真と誰もが思うでしょう。モンマルトルの丘もパリの眺望もピントが甘く、人物にピントを当てているのは明らかですから。なのに何故、これが風景寫眞なのかは……」
オーナーはまるで、優秀な大学の生徒の答えを待っている教授のように優しく微笑んだ。
「人物の……私の瞳に映っているパリの眺望が、とても鮮やかに映し出されています。彼は、私の瞳に映し出されている眺望が風景寫眞と云いたいのだと感じました。この風景こそが、彼の表現したかった風景寫眞だったと思います」
きっと、あなたと私だけが共有出来る、あのころの風景。そんな想いが込められているのだと感じていた。
「レンズ越しではなく人の目に宿る風景寫眞……。きっと、カメラマンの瞳にも、貴女の瞳にも永遠に焼き付けられたものなのでしょう」
伏し目がちにオーナーがぽつりと呟いた。
その言葉にまた、涙が溢れそうになる。私がそれを我慢して小さく頷くと、オーナーは深くお辞儀をして言った。
「貴女に出逢えて良かった。心から今、そう思っています。私もあの作品の意図を同じように感じ取っていたからです。カメラマンの本音も聞いてみたいところですが、きっと解釈的には同じことでしょう。私がこの作品展の最後に展示したのもそれが理由です。……ほんとうに素晴らしい作品だと私は思っています」
オーナーはついと彼の作品に目を遣った。
「貴女はあの作品のタイトルをご存じですか?」
「……いえ。今、それに気が付きました。あの作品にタイトルとカメラマンの名前がないことに」
「そうですか……。貴女もご存じないとは」
少し困ったような物言いに私は気付いた。
「もしかして、タイトル不明……なのですか?」
「ええ。この作品を紹介、推薦してくれた私の知人も分からないと」
その一言で彼が今、何処にいるのか。何をしているのかという手掛かりが消えたと思った。そう、私はオーナーが彼の所在や今の活動状況を把握していると考えていたからだ。
傍目にも私が肩を落としたことが分かったのだろう。オーナーが私を気遣うように、小さな声で呟いた。
「もし、このカメラマンの詳細などが分かりましたら貴女にお知らせしたいと私は思っているのですが……、それは差し出がましいことでしょうか?」
「いえ、私はオーナーのお心遣いを嬉しく思います」
オーナーはこくりと頷き、想い憚るような目で私を見た。
きっとこの作品のことで私に聞いてみたいことは色々とあるのだろう。でも、そういった好奇心よりもオーナーの思慮のほうが先立っていた。
「では、アンケート用紙に貴女のご住所、お名前などをご記入していただけますか。こちらは私だけが保管して、他のスタッフなどには一切口外しません。するつもりもありません。貴女と私だけの秘密にしておきますので……」
改めて信頼できる人だと感じる。
一言、一言がこの老紳士が歩んできた人生の重さなのだろう。
そんなことを思いながら、私は渡された用紙に連絡先を書き込んだ。
お互いに深く礼を交わしたあと、もう一度、作品の前に立ってその写真を目に焼き付けた私はギャラリーを後にした。
ギャラリーの扉をそっと開き、受付でチケットを渡す。冷房が効いた小ぶりの館内は照明をやや落としており、その空間は明け方の空のようだった。
物音ひとつ立ててはいけない雰囲気の中、順路に従いながらひとつひとつの作品を見ていく。画廊のオーナーが言う通り、心惹かれる写真が幾つか目に留まった。
街中や自然の中に潜む色彩と、詩情に満ち溢れるような小さく、それでいて主張を続けるような幾つもの断片を写し取ったような作品。
きっと、写真が捉えているのは終わりのない、この広い世界の中にある小さな断片と幾つもの想い出なのだと感じた。彼の作品も私の作品も、小さな想い出の断片のひとつなのだろう。
作品にどのような意図が、想いが込められているかを想像しつつ、ひとつひとつの作品の前で立ち止まり、ゆっくりとギャラリーを見て回った。
そして最後の作品が出口前の広いスペースに展示してあった。その作品からやや離れたところにあるアンケートコーナーには、ギャラリーのオーナーらしき初老の男性が来場者に感想を求めるように談笑と挨拶を交わしている光景が見えた。私は出口付近に誰もいなくなったところを見計らい、おもむろに作品の前に立った。
その作品を瞳に映した瞬間、息を呑みこんでいた。
身体が震える。そして涙がとめどなく溢れてきていた。
微動だにせず、肩を震わせている私の後姿を目に留めたのだろう。初老の男性が「如何なさいました?」と、声を掛けてくれた。
しかし返事すらしない、出来ない私を訝し気に思った男性はついと私の隣に並び、横顔を覗き込んできた。
えっ……と、男性も呻くような小さな声を上げたあと、作品と私の顔を何度も見返していた。しばらくの間、私と初老の男性には躊躇うような静寂だけが支配していた。
そして、男性が静かに口を開いた。
「失礼ですが、この作品に映っているのは貴女ですね……」
その言葉に頷くしかなかった。
壁に掛かっているモンマルトルの丘と私を映したその作品から青い、九月の風が吹いてきたことを私は感じ取っていた。
B0サイズのパネルには十年前の私が眼下にあるパリの眺望を見下ろしている。
こんなもの……、何時いつ撮っていたのよ。
鼻を啜りながら溢れる涙を手で拭っていると、男性がそっとハンカチを差し出してくれた。
「ありがとう……ございます」
差し出されたハンカチで涙を拭ってはみたが、私の目は少時、そのパネルに釘付けのままだった。
それはこの写真の意図を、彼が何故、これを風景寫眞と銘打ったギャラリーに出品したのかを理解したかったからだ。
「少しだけ……お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
丁寧で落ち着いた声が耳に届いた。我に返った私は、男性のほうへと向き直った。
「はい……。申し訳ございません、ちょっと感傷的になってしまって、不躾でした」
「……いえ、私もこうしてギャラリーを経営している者として、貴方とこの作品、カメラマンに興味を持ってしまったのです。五分の立ち話で結構ですから、お時間をいただけますか?」
白髪の混じったオールバックに髭を蓄えた、そのオーナーの人懐こそうな笑みに気持ちが和んだ。
「はい、何なりと……。私もオーナー様にお伺いしてみたいことがありますから」
目尻を下げて穏やかに頷いた老紳士は、人目につきにくい柱の陰に私を招いてくれた。辺りにスタッフや来場者がいないことを確認したオーナーはゆっくりと口を開いた。
「貴女とカメラマンとの関係などを伺うつもりはありません。貴女の涙を目の当たりにして、そんなことを聞くのは野暮だと思っていますので……。ただ、貴方にひとつだけ質問したいのです。あの作品が何故、この風景寫眞と銘打った題材の最期を飾る作品だとお思いですか?」
純粋に私と彼、そしてオーナー自身の考えを纏めたいのだと悟った。この方はほんとうに写真が好きで、別の意味でのプロなのだ。と、同時に気配り、心配りが出来る優しい心根の人なのだと感じていた。
「はい……、私なりの考えですけれど」
そう、私もオーナーと同じことを考えていた。
一旦、言葉を区切り、もう一度あの作品を柱の陰から見つめた。
ああ、やっぱり間違いない。あなたはほんとうに私をよく見ていてくれたのね。ステキな風景寫眞、あなたの作品だわ……。私は又、溢れそうになった涙をぐっと堪こらえた。
「あの作品には……」
私の次の言葉を促すようにオーナーは僅かに顎を引いた。
「あの作品は……一見、私を撮ったような人物写真と誰もが思うでしょう。モンマルトルの丘もパリの眺望もピントが甘く、人物にピントを当てているのは明らかですから。なのに何故、これが風景寫眞なのかは……」
オーナーはまるで、優秀な大学の生徒の答えを待っている教授のように優しく微笑んだ。
「人物の……私の瞳に映っているパリの眺望が、とても鮮やかに映し出されています。彼は、私の瞳に映し出されている眺望が風景寫眞と云いたいのだと感じました。この風景こそが、彼の表現したかった風景寫眞だったと思います」
きっと、あなたと私だけが共有出来る、あのころの風景。そんな想いが込められているのだと感じていた。
「レンズ越しではなく人の目に宿る風景寫眞……。きっと、カメラマンの瞳にも、貴女の瞳にも永遠に焼き付けられたものなのでしょう」
伏し目がちにオーナーがぽつりと呟いた。
その言葉にまた、涙が溢れそうになる。私がそれを我慢して小さく頷くと、オーナーは深くお辞儀をして言った。
「貴女に出逢えて良かった。心から今、そう思っています。私もあの作品の意図を同じように感じ取っていたからです。カメラマンの本音も聞いてみたいところですが、きっと解釈的には同じことでしょう。私がこの作品展の最後に展示したのもそれが理由です。……ほんとうに素晴らしい作品だと私は思っています」
オーナーはついと彼の作品に目を遣った。
「貴女はあの作品のタイトルをご存じですか?」
「……いえ。今、それに気が付きました。あの作品にタイトルとカメラマンの名前がないことに」
「そうですか……。貴女もご存じないとは」
少し困ったような物言いに私は気付いた。
「もしかして、タイトル不明……なのですか?」
「ええ。この作品を紹介、推薦してくれた私の知人も分からないと」
その一言で彼が今、何処にいるのか。何をしているのかという手掛かりが消えたと思った。そう、私はオーナーが彼の所在や今の活動状況を把握していると考えていたからだ。
傍目にも私が肩を落としたことが分かったのだろう。オーナーが私を気遣うように、小さな声で呟いた。
「もし、このカメラマンの詳細などが分かりましたら貴女にお知らせしたいと私は思っているのですが……、それは差し出がましいことでしょうか?」
「いえ、私はオーナーのお心遣いを嬉しく思います」
オーナーはこくりと頷き、想い憚るような目で私を見た。
きっとこの作品のことで私に聞いてみたいことは色々とあるのだろう。でも、そういった好奇心よりもオーナーの思慮のほうが先立っていた。
「では、アンケート用紙に貴女のご住所、お名前などをご記入していただけますか。こちらは私だけが保管して、他のスタッフなどには一切口外しません。するつもりもありません。貴女と私だけの秘密にしておきますので……」
改めて信頼できる人だと感じる。
一言、一言がこの老紳士が歩んできた人生の重さなのだろう。
そんなことを思いながら、私は渡された用紙に連絡先を書き込んだ。
お互いに深く礼を交わしたあと、もう一度、作品の前に立ってその写真を目に焼き付けた私はギャラリーを後にした。
