高校生活最後の夏休みが終わったあと、初めてあなたに出逢った。
聞くところによると、どこぞの国からの帰国子女だと云う。
ああ、だから九月に転入してきたのか……。
私は何の興味もなく、そう思っただけだった。
「うわ……、すごく綺麗な黒髪……」
振り返ると、背の高い幼い顔立ちをした男性が私の髪を躊躇いがちに触れようとしていた。
九月の乾いた風に舞い上がる私の髪を梳くように、その美しく長い指は何かの音を奏でるように揺れた。その長い指は、レンズを通した被写体をカメラに収める指だとあとで知った。
九月の青い風の中。初めての出逢いは偶然だった。
それ以来、何ら言葉を交わすことはなく、校内で会えば互いに会釈だけを交わし季節が通り過ぎて行った。
気が付くと高校を卒業し、私は幼いころから描いていた夢を叶えるべく美大生となっていた。二年生のときに国内でそこそこ名のある絵画展で大賞を受賞し、その年の九月に仏蘭西の海外留学を果たした。
別に絵なんて何処で描くのも一緒だと思ってはいたけれど、初めて見る異国の、仏蘭西の風景は私の琴線に触れていた。
最初に訪れたのは、ありきたりだけどモンマルトルの丘だった。細い路地や階段が入り組む、ノスタルジックな情緒あふれる街を見たかったからだ。
似顔絵や風景画を描いている画家たちの間をすり抜け、小さな雑貨店などを覗きながら、クレパスで色付けたような古き良きパリの眺望を満喫し、サクレ・クール寺院の階段を登ろうとしたときだった。
「綺麗な黒髪ですね。とても素敵だ」
日本語でそう声を掛けられた。ふいに声がしたほうを向くと、私を見て驚いたような表情を浮かべたあなたに又、出逢った。
それは初めて見る彼の顔だった。驚いた表情のあとに見せた照れと戸惑いの混じったような表情。でも、私は彼よりも不思議そうな顔をしていただろう。
彼は何も言わず曖昧な笑みを浮かべ、あの美しく細く長い指をそっと私へと伸ばした。風になびく私の髪からその指は零れ落ちた。あの時と同じように。
二度目の出逢いも九月の青い風の中。
そう、この出逢いは必然だった。そんな不思議な感覚と思いが残った。
この日を境に私たちの距離は一気に縮まり、お互いのアパートメントを行き来するようになった。異国での独り暮らし。言葉も風習も違う環境の中、顔見知り程度だったとはいえ母国語で会話が出来、尚且つ年齢も同じだったことは有難かった。性は違うけれど、お互いの内面を曝け出すことに時間はそう掛からなかった。
きっと、異国で生活をするうえでの寂しさや不安を、私は彼の存在で紛らわしたかったのかも知れない。でも、そんなふうに思うことより、私の中で彼の存在は日に日に大きくなっていったのだ。
しばらくの間、私たちの話は尽きなかった。
高校を卒業してから、何をしていたのか。お互い、どうして仏蘭西に来たのか。今は何をしているのか。どんな生活を送っているのか。将来、どうなりたいのか。夢はあるのか。私の生い立ち、彼の生い立ち。
さまざまなことを語り合った。時間が経つのを忘れるくらいに……。
そう、魂の半分が惹かれあうように何時いつしか私たちの心は繋がっていた。
私たちがサクレ・クール寺院の階段で出逢ったこと。それは必ずそうなることが当たり前だったように、それよりほかになりようのないことは明らかだった。
モンマルトルの丘が幾度かの模様替えを繰り返したころ、私は留学期間を終えて日本へ帰ることになった。 時を同じくして彼もまた、異国の地へと旅立つことになった。
その日のCDG空港、ロワシーの地は旅立つ私たちを見送るように青い風が吹き渡っていた。
空港の第一ターミナルで私たちは別れを惜しんだ。
二人で笑い、語り合った日々が走馬灯のように甦る。まるで魂の半分が何処かへと消えていくような思いがあった。
私が東京、羽田へ向かうANAのチェックインカウンターへ歩きはじめたとき、彼が私を背後から抱きしめた。まるで恋人同士のように。
初めて抱きしめられ、感極まった私は彼の腕の中を泳ぐように振り向き、その唇に自分の唇を重ねた。
初めてのキス。初めて触れた彼の体の一部。
ときめき、恥じらい、切なさと辛さが混ざり合い、私は彼との別離に涙を流していた。
あれから十年という歳月が流れた。
お互いに連絡をしないまま、何時しか私は三十路を過ぎていた。この年月の間、私は有難いことに幾つかの賞をいただき、そこそこの名誉と地位、収入を得ていた。
しかし、どれだけ褒め称えられようと、どれだけ作画にのめり込もうとも、どれだけ異性から言い寄られようと、心の底から嬉しい、楽しいと思えるようなことはなかった。
でも、あのモンマルトルの丘を描いた自分の作品を見るたびに、彼が私にくれた作品のひとつでもあるモンマルトルの丘からパリの眺望をフィルムに収めたパネル写真を見るたびに、懐かしさと一度だけのキスの感触を思い出すことが出来た。
魂が繋がっている私と彼の作品。
油絵と写真の違いはあれど、ふたつでひとつの対の作品。この対の作品を見るたびに、ときめき、恥じらい、切なさと辛さといったあの時の、あのころの風景が幾つのもの色に塗られて甦る。信頼と絆で結ばれていた、かけがえのない私たち二人の時間。そんな想いを抱きながら、幾つもの夜を超える日々を過ごした。
ある日、懇意にしている画廊のオーナーから、なかなかいい作品を展示しているから見に行ってごらんよと、とあるギャラリーの招待チケットをプレゼントされた。
「風景寫眞」と銘打たれたその作品展に何故か心惹かれた。もしかして……との考えが脳裏を過よぎったのだが、チケットに彼の名は印刷されていなかった。
今、何処でどんな作品を撮っているのだろう。
彼は取り分け風景写真を好んで撮っていた。降り注ぐ光や風、空に雲、まばゆい陽光に季節ごとに模様替えを繰り返す木々などを何時間も見つめ、自分の思い描いた色になったとき、それをフィルムに収めていた。
私は時折り、彼の一眼レフカメラのファインダーを覗いて思っていた。
どうしてこの街が、この色彩がファインダー越しに覗くだけでこんなに光溢れる、色鮮やかな風景になるのだろうと。
彼は彼で、どうして絵具でこんな色を出せるの。ほんとうに油絵って不思議な色を表現出来るんだね、と首を傾げていた。
そんなことを思い出しながら、私はそのギャラリーへと足を運んだのだった。
聞くところによると、どこぞの国からの帰国子女だと云う。
ああ、だから九月に転入してきたのか……。
私は何の興味もなく、そう思っただけだった。
「うわ……、すごく綺麗な黒髪……」
振り返ると、背の高い幼い顔立ちをした男性が私の髪を躊躇いがちに触れようとしていた。
九月の乾いた風に舞い上がる私の髪を梳くように、その美しく長い指は何かの音を奏でるように揺れた。その長い指は、レンズを通した被写体をカメラに収める指だとあとで知った。
九月の青い風の中。初めての出逢いは偶然だった。
それ以来、何ら言葉を交わすことはなく、校内で会えば互いに会釈だけを交わし季節が通り過ぎて行った。
気が付くと高校を卒業し、私は幼いころから描いていた夢を叶えるべく美大生となっていた。二年生のときに国内でそこそこ名のある絵画展で大賞を受賞し、その年の九月に仏蘭西の海外留学を果たした。
別に絵なんて何処で描くのも一緒だと思ってはいたけれど、初めて見る異国の、仏蘭西の風景は私の琴線に触れていた。
最初に訪れたのは、ありきたりだけどモンマルトルの丘だった。細い路地や階段が入り組む、ノスタルジックな情緒あふれる街を見たかったからだ。
似顔絵や風景画を描いている画家たちの間をすり抜け、小さな雑貨店などを覗きながら、クレパスで色付けたような古き良きパリの眺望を満喫し、サクレ・クール寺院の階段を登ろうとしたときだった。
「綺麗な黒髪ですね。とても素敵だ」
日本語でそう声を掛けられた。ふいに声がしたほうを向くと、私を見て驚いたような表情を浮かべたあなたに又、出逢った。
それは初めて見る彼の顔だった。驚いた表情のあとに見せた照れと戸惑いの混じったような表情。でも、私は彼よりも不思議そうな顔をしていただろう。
彼は何も言わず曖昧な笑みを浮かべ、あの美しく細く長い指をそっと私へと伸ばした。風になびく私の髪からその指は零れ落ちた。あの時と同じように。
二度目の出逢いも九月の青い風の中。
そう、この出逢いは必然だった。そんな不思議な感覚と思いが残った。
この日を境に私たちの距離は一気に縮まり、お互いのアパートメントを行き来するようになった。異国での独り暮らし。言葉も風習も違う環境の中、顔見知り程度だったとはいえ母国語で会話が出来、尚且つ年齢も同じだったことは有難かった。性は違うけれど、お互いの内面を曝け出すことに時間はそう掛からなかった。
きっと、異国で生活をするうえでの寂しさや不安を、私は彼の存在で紛らわしたかったのかも知れない。でも、そんなふうに思うことより、私の中で彼の存在は日に日に大きくなっていったのだ。
しばらくの間、私たちの話は尽きなかった。
高校を卒業してから、何をしていたのか。お互い、どうして仏蘭西に来たのか。今は何をしているのか。どんな生活を送っているのか。将来、どうなりたいのか。夢はあるのか。私の生い立ち、彼の生い立ち。
さまざまなことを語り合った。時間が経つのを忘れるくらいに……。
そう、魂の半分が惹かれあうように何時いつしか私たちの心は繋がっていた。
私たちがサクレ・クール寺院の階段で出逢ったこと。それは必ずそうなることが当たり前だったように、それよりほかになりようのないことは明らかだった。
モンマルトルの丘が幾度かの模様替えを繰り返したころ、私は留学期間を終えて日本へ帰ることになった。 時を同じくして彼もまた、異国の地へと旅立つことになった。
その日のCDG空港、ロワシーの地は旅立つ私たちを見送るように青い風が吹き渡っていた。
空港の第一ターミナルで私たちは別れを惜しんだ。
二人で笑い、語り合った日々が走馬灯のように甦る。まるで魂の半分が何処かへと消えていくような思いがあった。
私が東京、羽田へ向かうANAのチェックインカウンターへ歩きはじめたとき、彼が私を背後から抱きしめた。まるで恋人同士のように。
初めて抱きしめられ、感極まった私は彼の腕の中を泳ぐように振り向き、その唇に自分の唇を重ねた。
初めてのキス。初めて触れた彼の体の一部。
ときめき、恥じらい、切なさと辛さが混ざり合い、私は彼との別離に涙を流していた。
あれから十年という歳月が流れた。
お互いに連絡をしないまま、何時しか私は三十路を過ぎていた。この年月の間、私は有難いことに幾つかの賞をいただき、そこそこの名誉と地位、収入を得ていた。
しかし、どれだけ褒め称えられようと、どれだけ作画にのめり込もうとも、どれだけ異性から言い寄られようと、心の底から嬉しい、楽しいと思えるようなことはなかった。
でも、あのモンマルトルの丘を描いた自分の作品を見るたびに、彼が私にくれた作品のひとつでもあるモンマルトルの丘からパリの眺望をフィルムに収めたパネル写真を見るたびに、懐かしさと一度だけのキスの感触を思い出すことが出来た。
魂が繋がっている私と彼の作品。
油絵と写真の違いはあれど、ふたつでひとつの対の作品。この対の作品を見るたびに、ときめき、恥じらい、切なさと辛さといったあの時の、あのころの風景が幾つのもの色に塗られて甦る。信頼と絆で結ばれていた、かけがえのない私たち二人の時間。そんな想いを抱きながら、幾つもの夜を超える日々を過ごした。
ある日、懇意にしている画廊のオーナーから、なかなかいい作品を展示しているから見に行ってごらんよと、とあるギャラリーの招待チケットをプレゼントされた。
「風景寫眞」と銘打たれたその作品展に何故か心惹かれた。もしかして……との考えが脳裏を過よぎったのだが、チケットに彼の名は印刷されていなかった。
今、何処でどんな作品を撮っているのだろう。
彼は取り分け風景写真を好んで撮っていた。降り注ぐ光や風、空に雲、まばゆい陽光に季節ごとに模様替えを繰り返す木々などを何時間も見つめ、自分の思い描いた色になったとき、それをフィルムに収めていた。
私は時折り、彼の一眼レフカメラのファインダーを覗いて思っていた。
どうしてこの街が、この色彩がファインダー越しに覗くだけでこんなに光溢れる、色鮮やかな風景になるのだろうと。
彼は彼で、どうして絵具でこんな色を出せるの。ほんとうに油絵って不思議な色を表現出来るんだね、と首を傾げていた。
そんなことを思い出しながら、私はそのギャラリーへと足を運んだのだった。
