明け方の歌

「おかあさん、ご飯」
 その一言で、白石水樹(しらいしみずき)の朝は始まる。
 洗顔、歯磨き、髪を梳く。それら、自身の身だしなみよりも最初に、水樹は寝起きすぐ台所に向かうのが日課だ。キャットフードを取り出すと、きっちり二十グラムを計り、白いエサ皿にそれを取り分ける。
 おかあさん、と呼べば、真っ白な毛並みに薄いキャメル色と灰色の毛色の入り混じった細身の猫が、ゆったりとした仕草でやってくる。おはよう、と言いたげに細い牙を見せながら、大きな欠伸をすると、おかあさんと呼ばれた猫は、エサ皿の前で身を屈め、かりかりと誰よりも早い朝食を始めた。
 誰よりも、というが、この家に人間は水樹一人しか住んでいないので、飼い主より早い朝食、というところだろう。
 水樹はおかあさんの前にしゃがみ込むと、暫くそのかりかりという音と、台所の小窓から流れてくる通学中らしい子どもの声を聞きてから立ち上がった。洗面台に向かえば、大きな鏡の前に、まだ眠気を引きずっている、二十代半ばの顔が現れる。
 一度も染めた事のない黒髪は、寝相の形を表したように、所々跳ねており、乱暴に手櫛で直したところで言うことを聞きそうにない。水樹は手を冷水で濡らしてから、跳ねている個所を抑え込んだ。ある程度落ち着くのを見届けてから、顔を洗い、歯を磨き、口をゆすいだところで、足首をするすると心地の良いものが触れてくる。
「おかあさん、もう食っただろ」
 水樹の窘めに、既に食事を終え、おかわりを要求してくるおかあさんは、にゃう、と声を上げた。水樹はそれに浅く息を吐くと、洗面台前から台所に戻り、空になったエサ皿を片付けた。
 今度は自分の分の食パンをトースターに突っ込んで、焼き時間は適当にダイヤルを回し、着替えをしようと自室へと引っ込む。
 水樹の足音に合わせて、おかあさんの首についている小さな鈴が、ちゃりちゃりと鳴っていた。水樹はクローゼットから淡いブルーのシャツとデニムを取り出すと、手早く着替えて、足もとで円を描くように水樹の傍を離れないおかあさんを抱き上げた。
「マジで踏むぞ」
 脅しをかけたところで、猫に通じるはずもない。水樹は諦めて床に下ろすと、焼き上がりを知らせるトースターの音が聞こえた。台所に戻ると、板張りに小窓から差し込む柔らかな陽光が、漣のように揺れていた。光に照らされた小さな埃が、まるで踊るように、きらきらと空中を舞っている。
 水樹は冷蔵庫からバターだけを取り出すと、こんがりきつね色に変わったカリカリのトーストに、たっぷりとそれを塗りつけた。じゅわりと溶けて沁み込んでいく様は、水樹の起伏の浅い感情をほんのわずかに揺らす。
 ケトルに水を入れて沸かし、簡単なインスタントコーヒーを添えれば、彼にとって最高の朝食が出来上がった。こんなもんで良いのだ、朝なんてのは。
「いただきます」
 ダイニングテーブルに腰を下ろして手を合わせると、水樹は最初のひと口を齧り、次に小さくバターのついてない部分を千切って床に落とした。
「ひと口だけだぞ、ひとくち」
 念を押してもどうせ届いてないと分かりつつ、言わずにはいられない。足元で落ちたパンくずをさっと食べてしまうおかあさんを見下ろしてから、水樹はテレビをつけた。
 本日の天気予報は晴れ。ただ風は冷たく、気温もさほど上がらないとの事。それから、一昨日九州地方で起こった大雨による土砂災害から行方不明者が無事に発見され、政治家の汚職がまた発覚した。
 情報に満ちている画面を何となく眺めながら、水樹は今日の昼飯のことを考えていた。
 いつもの弁当屋の日替わり弁当。今日は水曜日だから、チキンカツレツのはずだ。水樹はチキンカツレツが好きだった。薄く引き伸ばしたような鶏肉は、貧乏くさい貧相な見た目をしているが、高カロリーなのにとんかつより食べ易いから、エネルギーを摂取するのにちょうどいい。
 水樹は白いマグカップに注いだコーヒーの湯気をふっと吹いた。霧散しては、また立ち昇白い湯気に鼻先を浸しながら、色濃い液体をすする。
 おかあさんが、足もとで欠伸をした。
 水樹はそっと視線をテレビの背面の壁に掛けられている時計へとそらした。九時十五分前。
 そろそろ行かなくては。台所で手早く洗い済ませると、水樹は自室へと戻った。
 いつものジャケットを羽織り、いつもの黒いリュックを背負う。
「おかあさん、入って」
 ペット用ケースにおかあさんを誘導すると、水樹はそれを持ち上げて、玄関へと向かった。おかあさんは痩せていると言え、もう既に大人になり切った猫である。水樹の右手には、ぐっとそれなりの重みがぶら下がった。
 玄関を出ると、目の前の大きなマンションで、辺りは先ほどよりも彩度が落ち、空気も幾分寒々しい。
 スニーカーに足をつっかけ、爪先で地面をトントンと叩きながら履くと、水樹はドアの鍵を閉めて、錆びついた鉄筋とコンクリートの階段を降り、築三十八年のアパートを後にした。
「あら、水樹くん。おはよう」
 階段を下りれば、一階に住む大家である老婆が、深く皺の刻まれた顔をにっこりとさせて、水樹を見上げた。手に箒を持ち、集められた道路の落ち葉や煙草の吸殻が塵取りの上にこんもりと盛られていた。
「いつもありがとうございます」
 おはようございます、の代わりに、水樹はそう頭を下げた。
「いってらっしゃい」
 老婆の挨拶に小さく頭を下げて、水樹はアパートを後にした。