鮮やかな紫光が、西の空へと滲んでゆく。
雲間の夕日が傾き、町の屋根瓦を赤く染めた。
支給された下駄は、足に合わなかった。
歩くたびに鼻緒が擦れて、指の間がひりりと痛む。
それでも、朱音は立ち止まらなかった。
──今夜は「アカネ」の水揚げだ。
遊郭に売られてから、まだ幾日も経っていない。
けれど衣が替えられ、名前さえも奪われた。
鼻緒の痛みが、朱音に現実を突きつける。
自分はもう、伯爵家の娘ではないのだと。
◇◇◇
それは、結婚式の打ち合わせの日だった。
約束の刻限を過ぎても、婚約者は現れなかった。
庭を渡る風が妙に冷たく、朱音は邸内を探し歩いていた。
蔵の扉が、わずかに開いている。
胸騒ぎがして近づくと、中から人声が漏れてくる。
押し殺すような荒い息遣い。扉の隙間から見えたのは、絡み合う男女の影だった。
男はこちらに背を向けていて、顔は分からない。
しかし羽織は、よく見慣れたものだった。
「……君を愛している! 愛しているんだ!」
その声に、胸の奥が凍りつく。
「わたしをお選びになって。お義姉さまではなく、わたしをっ……」
甘く縋る声は、義妹の美代子のものだ。
呼吸の仕方も忘れ、朱音は立ち尽くした。
指先の感覚がなくなってゆく。
彼とは十年来の縁だった。
恋愛感情ではなくとも、家族のような情はあったはず。
少なくとも自分はそうだった。
彼と二人なら、穏やかな家庭を築けると……信じて疑わなかったのに。
けれど、彼ははっきりと告げた。
「ああ、朱音とは婚約を破棄する。君を妻に迎える……!」
その言葉で、すべてが終わった。
婚約は破棄され、ほどなくして自分の遊郭行きが決められた。
前借金は、新たな婚礼衣装を作るのに充てるのだという。今ある衣装を、美代子が気に入らなかったらしい。
邸を出る朝、美代子が耳元で囁いた。
「どうかお健やかに、お義姉さま」
添えられていた指先が離れる、その刹那。
首筋から喉までを撫ぜられた。
慈しむような、穏やかな微笑みだった。
けれど瞳の奥は、氷のように冷たかった。
◇◇◇
今日は、二人の祝言だ。
赤い提灯が灯る頃、彼らは夫婦となる。
そして夜が深くなると、朱音は見知らぬ男に抱かれる予定だ。
昨夜は眠れなかった。
食欲はさして湧かず、残りの握り飯を胸に抱く。
行き先は、遊郭の外れにある稲荷神社。
朽ちかけの鳥居が、夕闇の中に立っていた。
(本当にここで良いのかしら……?)
半信半疑のまま、石段を昇ってゆく。
境内に辿り着いた瞬間、朱音は目を大きく見開いた。
厳然とした社殿だった。
古色を帯びた鳥居からは、想像もつかない豪奢な造り。
汗を拭えば、清浄な空気に頬を撫でられる。
歩を進めるたび、遊郭の喧騒が遠くなっていった。
朱音は小風呂敷を開げた。
あいにく一文無しの身だ。せめてもの気持ちで、握り飯を賽銭箱の後ろに供える。
そして手を合わせた。
(神さま……どうか声が出せるようにしてください)
願いはそれだけだった。
しかし何よりも切実で、喉から手が出るほど欲しいもの。
──婚約が破棄された日、朱音は声を失った。
これでは、貴族令嬢として身につけた教養の意味がない。会話を繋いで少しでも床入りの時間を削りたいのに──。
途方に暮れた、そのとき。賽銭箱の裏から物音が聞こえた。
覗き込んだ朱音は息を詰める。
──狐だ。
夕焼けを弾く豊かな金毛と琥珀色の双眸。
その美貌に息を呑むと、狐と目が合った。
澄明な眼差しは、獣のそれとは思えない。
狐は瞳を細め、悠然と尾を振った。
だが次の瞬間、握り飯をひょいと咥える。
そして優雅に翻り、朱音に背を向けて駆け出した。
(だ、だめ! それはお供物なの……!)
叫びたかった。
しかし喉は顫動するばかり。ようやく出せた声は、自分すら聞き取れない細声だった。
朱音は足の痛みも忘れ、ただひたすら狐を追いかけた。
狐はわざとらしいほど朱音を待ち、追いつけばすぐ駆ける。
(ああもう……追いかけっこしている暇はないのに!)
狐は端座して、遅れてくる朱音を待つ。
気品すら漂う、美しいその姿。
狐は誘うような流し目を遣うと、ゆっくり裏道を曲がった。
足を絡れさせながら、朱音もそこを曲がる。
瞬間、息を呑んだ。
狐は──跡形もなく消えていた。
(……え……どこ、どこに行ったの?)
肩で息をしながら、来た道を回視する。
四方は高い塀に囲まれていた。逃げも隠れも出来ない、完璧な行き止まりである。
だが、消えたのだ。
忽然と、まるで煙のように──。
「いまの役者みてえな男、見たか?」
「見た見た。ありゃ花魁顔負けだぜ」
男衆の声が耳に届き、朱音ははっとした。
ふと視線をやると、店先の提灯がまばらに灯されている。
夜見世の時間が近づいてくる。
(……やれるだけのことはしたわよね)
朱音は素早く翻り、遊女屋を目指した。
◇◇◇
入念な入浴が終わると、支度が始まった。
親の仇かと思うほど白粉を叩かれ、雛人形のように幾重にも着物を纏う。
焚かれた香が鼻腔を支配し、その強烈な臭いに悪酔いしそうだった。
「若旦那はね、愛くるしい娘が好きなんだ。あちきみたいにね」
紅をさしながら、花魁がそう言った。
今夜朱音を水揚げする旦那は、彼女の大尽馴染みである。
朱音が話せないことを知ると、花魁の峻烈な指導が始まった。
「あの人に恥をかかせてごらん。絶対に許さないよ」
花魁は咥えていた煙管を使い、素早く朱音を指す。
朱音は息を詰め、折れんばかりに首肯する。
刻一刻と夜が深くなってゆく。
冷や汗をかき、白粉が落ちていないか、何度も確認した。
大門が閉まる重い鐘音が鳴り響く。
朱音は水揚げ旦那と大尽馴染み花魁の前で、畳に額をつき、平伏した。
宴会が始まった。
三味線の弦が弾ける音や、嫋やかな舞い。
──すべてが、遠い。
隣の男は、全身を舐めるように見てきた。
そして喉の奥から、いやらしい笑いを溢す。
「朱音の水揚げか。人生何があるか分からないな」
男──朱音の元婚約者はそう言った。
赤い唇に微笑みを作り、朱音は逡巡した。
どうして色町に?
美代子との初夜は?
朱音の喉奥が戦慄いた。
長い袖の内側で、節が白く浮くほど強く拳を握り、込み上げて来るものを押し殺す。
手のひらには、くっきりと爪の跡が刻まれていた。
(これだけは判る。このひとは最低最悪の下衆男だわ……!)
座敷の襖を閉めると、店中の喧騒が断ち切れた。
朱音は、部屋の中を四望した。
祝いとばかりに紅白の幕が設えられ、眼を刺すような金屏風が立てられている。
極め付けは、縁起物の刺繍が施された布団だった。
入り口の襖に貼り付いたまま、朱音は視線を鋭くした。
二度と口を利きたくない。
そう思っていた男と再開した。
体を売る遊女と、それを買う客として。
「本当に喋らないんだな。怒ってるのか?」
元婚約者は、くすっと鼻先で嗤った。
朱音が声を失ったことを、信じていない様子だ。
「美代子はいいぞ? ここに来るのも快く見送ってくれたからな」
彼は煙管を口にすると、煙を燻らせた。
眉根を寄せた朱音は、考えを巡らせる。
(美代子が許したですって? あり得ないわ。あの子は執念深いもの)
そう、義理の姉から婚約者を奪い取る程度には。
遊女と夫を共有するなど、到底受け入れられないはずである。
大方、嘘をついて外出したのだろう。
遊女を抱くために、ここへ。
(わたしが傷ついた意味なんて、あったのかしら……?)
朱音は下唇を噛んだ。
無力感で力が抜け、体がずっしり重くなる。
そうして動かなくなると、目の前に彼が腰を下ろした。
頬に手を触れてくる。
彼の白粉が指に移ったが、気に留める様子はない。
慣れているのだろう。
花魁の大尽馴染みということは、それだけここに通い詰めているという証拠だから。
「なあ、そう固くなるなよ。初夜だと思えばいいじゃないか。元はそうなる予定だったんだしさ」
(そうなる予定だった!? あなたのせいで、わたしの未来は太刀消えたのに!)
焼け焦がすような熱が、全身を支配する。
朱音は上目遣いに彼を睨め付けた。
忌々しそうに顔を歪めた彼が、舌を鳴らす。
次の瞬間、朱音の腕を掴むと乱暴に組み敷いた。
まるで獲物を前にした獣のような、舌舐めずりの表情を浮かべている。
「安心しろ。これでも、色町じゃ粋な男で通っているんだ」
幾重もの帯に、指がかけられた。
朱音は彼の胸を押し戻し、腹の底まで息を吸い込んだ。
声は出ない。
ただ喉が焼けるほど痛み、代わりに咳だけが溢れ出た。
──イヤ、この人だけはっ……!
粘着質な眼差しを向けられ、朱音は顔を背けた。眦から一粒、涙が落ちる。
そのとき、襖の向こうで喧騒が近づいてきた。
「おいコラ、待ちやがれ!!」
用心棒の怒声が廊下に響き渡る。
あまりの騒々しさに、元婚約者は堪らず起き上がった。
「チッ! うるさ──」
瞬間、襖が滑るように開け払われた。
廊下から差し込む眩い光に当てられ、朱音は目を薄めた。
──男だ。
逆光の中に一人、男がいる。
宵を縫い合わせたような藍色の着物が、白皙を際立たせていた。
たおやかな金の長髪は、揺れると光の階調が作る。
月明かりが面を照らした。
琥珀色の双眸が朱音をとらえる。
すると途端に弧を描き、
「──やっと見つけた。花嫁どの」
凛然とした声音で、そう言った。
そのまま男は流れるような動作で元婚約者の襟首を摘み上げ、部屋の外へと投げ捨てた。
(な、なに……っ!? これは何事!?)
朱音は素早く身を起こし、周りを窺った。
廊下の壁に激突した元婚約者が、脂汗を浮かべている。やり手婆と用心棒は、そこで仲良く腰を抜かしていた。
傍らの男はそっと褥の上で膝をついた。
朱音と視線の高さを合わせると、一瞬、唇を震わせた。
ずっと待ち望んでいたような、噛み締めるような、切実な表情だ。
しかしそれを取り繕うように、彼は華やかな笑顔を浮かべた。
「遅くなってすまないね。怪我はない?」
恐ろしく均整の取れた目鼻立ち。そんな見知らぬ美丈夫が、親し気に微笑みかけてくる。
出し抜けの出来事に、朱音は狼狽を隠せなかった。
(どなたかしら……このご様子だと、お会いしたことはある……のよね?)
しかし思い当たる節がない。
男は何か思いついた様子で「そうか」と膝を打った。
そして両頬を包み額を合わせてきた──その瞬間。
『とても美味だったよ、あの握り飯』
男が優しく語りかけてきた。
口を閉ざしたまま──頭の中で。
朱音は弾けるように額を外した。
まるで妖術そのものだ。
得体の知れない技に息を呑むと、
「わたしは香月。君の熱烈な求愛、しかと受け取った。共にかくり世へ行こう」
男──香月はそう言って、花開くように微笑んだ。
朱音は、香月からするりと手を抜き取った。
見知らぬ男に、覚えのない求愛。
……けれど、色だけは。艶やかな髪と吸い込まれるような瞳の色だけは、朱音の記憶に深く刻まれていた。
「随分と不思議そうな顔をしているね? 贈り物も追いかけっこも、狐の求愛行動だ。まさか、知らないわけじゃないだろう?」
香月は、ちらりと廊下の様子を流し見た。
その涼やかな目元を見た瞬間、夕暮れを駆けた狐が、朱音の脳裏をよぎった。
(まさか……)
香月は追い打ちをかけるように、懐からある物を取り出した。
折り畳んだ、一枚の小風呂敷。
お供えの握り飯を包んでいたものに、よく似ている。
朱音は小風呂敷を受け取り、確かめた。
隅にあるひどく不恰好な【AKANE】の文字は、間違いなく自分が刺繍したものだった。
朱音が言葉を失うと、香月は愉快そうに肩を揺らす。そして白魚の手を伸ばし、喉元に触れてきた。
「声を失ったままここで朽ちていくか、僕と行くか。朱音……君はどちらを選ぶ?」
香月の陽だまりの笑みに、妖艶な影が差す。
瞳の奥には、獣の本能が獲物を逃すまいと、静かな熱を燃やしていた。
◇◇◇
それは、風が運んできた噂である。
帝都のさる伯爵家が没落したらしい。
結婚の翌朝、伯爵家の入婿が、莫大な花代を落として遊女を身請けした。
その金は、伯爵家の全財産だった。
入婿は失声を患ったせいで、貿易業が立ち行かなくなったらしい。
妻の伯爵令嬢は身売りされた。
だがその容姿は老婆のようで、遊郭の醜女として見世物になっているそうだ。
身請けされたはずの遊女を見た者は、誰もいない。
帝都の人々は言った。
狐に化かされたのであろう、と。
◇◇◇
「……ここは……?」
白い霧のなか、朱音は独りごちた。
場所は判然としないが、川のせせらぎだけがはっきりと聞こえてくる。
音の方向へ向かうと、そこには白い花々が爛漫と咲き誇っていた。
──知らないはずの、懐かしい景色。
矛盾が、頭の中に霞みをたゆらせる。
そのとき、靄の中で誰かが囁いた。
「逃げ──狐の信仰は一生──……」
朱音はその場に立ち尽くす。
断片的な記憶が、頭の奥から滲み出る。
そのとき、視界の端に金色の光が揺れた。
──狐だ。
彼は矢のように走って来た。ひときわ大きな木の実を差し出され、朱音は破顔した。
柔らかな毛並みに顔を埋めると、それまでの靄が一瞬で掻き消される。
狐は琥珀色の双眸を細め、ざらつく舌で頬を舐めてきた。
◇
ふと目を覚ますと、頭上に眩いばかりの美貌があった。
陽光を編み上げたような金髪が、朱音の顔にさらりと落ちる。
「おはよう、朱音」
香月は穏やかに微笑んだ。
膝の上に朱音の頭を乗せたまま、その額に散らばった前髪を、指先で整えてくれる。
朱音は屋敷の縁側にいた。
あたたかな空気に包まれ、いつの間にかうたた寝したらしい。
「いい夢でも見た?」
香月は首を傾げ、やさしく訊く。
この夢を見たとき、彼はちょうどよく確認してくるのだ。
不思議な夫である。
「いつもの変な夢よ。狐が贈り物をしてくれるの」
朱音がそう答えると、香月はくすりと笑った。
「そっか。それは良かったね」
(了)



