午後の診療は、休みにした。
扉の外に掛けた休診札が、春の風に小さく揺れている。
そんなことをするのは、本当に久しぶりだった。
帝都の大通りは、昼下がりの光に満ちていた。
石畳の隙間から顔を出した若草が、行き交う人々の足元で揺れている。屋台からは湯気が立ち上り、甘い香りと香ばしい匂いが入り混じって、どこか浮き足立った空気をつくっていた。
ヒバリは、そんな通りを歩いている。
隣には、恋王子ククル。だから目立ってしょうがない。彼はヒーローなのだから。
けれど今は、どこにでもいる一人の青年のように、少しだけ緊張した面持ちで歩いている。
「視線が痛いのじゃ」
「隊長どのは、英雄ですからね」
「うむ。最強なのじゃ」
もう、そればっかり。と、ヒバリは思わず口元を緩め、すぐに前を向いた。
通りの向こうから、幼い兄妹が駆けてくる。
兄が妹の手を引き、転ばないように何度も振り返っている。
すれ違いざま、ククルがそっと体をずらして道を空けた。白手袋の手が、無意識のようにヒバリの肩の前へと差し出される。
庇われているのだと気づき、ヒバリは小さく息を呑んだ。
屋台の前を通り過ぎると、蒸した饅頭の湯気がふわりと漂ってきた。
「食べるか?」
ククルが、少し得意げな顔で言った。それに対して、ヒバリは冗談っぽく答える。
「……落とさないでくださいね」
その言葉に、二人の間に小さな沈黙が落ちた。
八年前の春の日。石畳の上に転がった饅頭。砂の味。それでも――おいしかった記憶。
店主から受け取った饅頭を、ククルは慎重に両手で持つ。
まるで壊れ物を扱うような手つきだ。
「半分にするのじゃ」
「えっ?」
「そなたと半分こがよい」
不器用に割られた饅頭の片割れが、ヒバリの手のひらに乗せられる。
温かい。
あの日とは違い、砂もついていない。
けれど、胸の奥がじんわりと熱くなる感覚は、あのときと同じだった。
一口、かじる。
甘い餡の味が、ゆっくりと広がってゆく。
「……おいしい」
思わず零れた言葉に、ククルの肩がわずかに揺れた。
「そうであろう」
どこか誇らしげだ。まるで自分が作ったかのように。
通りの向こうでは家族連れが笑い合っていて、父親の肩車の上で幼子が両手を広げて歓声を上げていた。
ヒバリは、無意識のうちに指輪に触れていた。夫を亡くしてもなお、呪いのように指にはめ続けているリングを。
その仕草に気づいたのか、ククルの視線がわずかに揺れた。
だが彼は何も言わず、代わりに空を見上げる。
「今日は、良い天気なのじゃ」
「……ええ」
ありふれた言葉。
それでも、その一言が胸に静かに染みていく。
もしも……もしも、違う人生があったのなら。
そんな考えがふと心をよぎり、ヒバリは首を振った。
隣を歩く青年の歩幅が、わずかに乱れる。
何かを言おうとして、言葉を探しているのが伝わってくる。
白手袋の指先が、落ち着きなく擦り合わされる。
「ヒバリ」
呼ばれて、足が止まる。
振り返ると、ククルの青い瞳がまっすぐにこちらを見ていた。



