楠木ヒバリの営む小さなクリニックは、帝都の外れにあった。
古い長屋を改装しただけの質素な建物だが、近隣の住民にとってはなくてはならない場所である。
入口の横には、控えめな木製の看板が掛かっていた。
────楠木診療所
八年だ。ヒバリは血の滲むような努力を続けてきた。
昼は働き、夜は本を読み、試験を受け、落ちて、また受けて────
ようやく手に入れた医師免許は、診察室の壁に控えめに掛けられている。
窓を少しだけ開けると、春の風が消毒液の匂いをゆっくりと薄めていった。
午後の予約は、ひとりだけ。
ヒバリは壁の時計を見上げた。約束の時刻まで、あと十分。
────今日は、どこを怪我してくるのだろう。
思わず口元が緩みそうになり、ヒバリは小さく首を振った。
医者として、患者の怪我を予測して楽しみにするなど言語道断だ。
それなのに、あの白手袋の青年が扉をくぐる瞬間を、心のどこかで待ちわびている自分がいる。
診察台のシーツの皺を伸ばしながら、ヒバリは静かに息を吐いた。
穏やかな午後だった。
あまりにも穏やかで、この時間が永遠に続くのではないかと錯覚してしまいそうになるほどに。
遠くで、路面電車の鈴が鳴った。
そして────コン、と心音のように控えめなノックの音。
「どうぞ」
扉が開き、見慣れた金色の癖っ毛が顔を覗かせた。
「……急患なのじゃ」
恋王子ククルだ。
皇国異能特務隊・御楯部一番隊隊長。鉄の災血。自他共に認める最強の軍神。
だが今、彼の右手の人差し指には、申し訳程度の包帯が巻かれていた。
ヒバリは腕を組み、その指をじっと見つめる。
「また。ですか」
「また、とは何じゃ」
「前回も前々回もその前も、いつも同じところを怪我して来ますよね」
ククルは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに咳払いをした。
「……戦闘とは生き物ゆえ。予測不能じゃ」
「予測できないのに、毎回同じ指を切るんですか?」
「……う……うむ」
「へぇー、そう」
ため息をつきながら、ヒバリは椅子を引いた。
「座ってください」
素直に腰を下ろす姿は、帝都の民衆が歓声を上げるあの恋王子ククルとはまるで別人のようだった。
白手袋を外した彼の指先は、異形の怪物を屠る軍神とは思えないほど整っている。
その小さな裂傷を、ヒバリは消毒液を染み込ませたガーゼで丁寧に拭った。
「痛みますか」
「うむ……しみるのじゃ」
ヒバリは思わず笑みをこぼし、すぐに口元を引き締めた。
八年前。まだ少年だったこの「最強くん」から“治療”を任された時、ヒバリはまだ包帯をうまく結べなかった。それもそのはず、その時のヒバリは医療従事者でもなんでもなく、小料理屋で安く使われるだけの下女も同然だった。それが、ククルとの出会いをきっかけに医師への道を(無理矢理ながら)歩むことになったのだから、わからないものだ。
────それからずっと、この人はここに来る。
雨の日も、風の日も……夫を亡くした日でさえも。
包帯を結び終え、ヒバリは手を離した。
「はい、終わりです。今日は指を動かさないように。1ミリもね」
「え、いやなのじゃ」
ククルは包帯の巻かれた指を見つめ、それから、まるで何かを言いかけるように口を開き……閉じた。
沈黙が、診療所の中に落ちてゆく。
外では、春の風が軒先の風鈴をかすかに揺らしていて、ヒバリはその音に耳を澄ませながら、ふと気づく。
────この人は、何かを言いに来たのだ。
それはきっと、とても甘い。
「……ククル?」
名前を呼ぶと、彼の肩がわずかに揺れた。
白手袋をはめ直す仕草は、いつもより少しだけぎこちない。
やがて彼は小さく息を吸って、意を結してから言葉を紡いだ。
「ヒバリ……デートとやらを……せぬか?」



