災血一番隊長・恋王子ククル──最強な彼は、未亡人に甘えたくて今日もわざと怪我をする


「ふふ……なるほどな。甘ったるくて血糖値が危険域だぞ?」

 やれやれと顔を覆って、宮様は嘲笑うかのように言い捨てた。
 さて、お喋りは終わりだぞ……とつぶやき、彼はさらに続けてククルに言葉を投げてよこす。
 
「どうした、坊や。かかってこないのか? この鉄の宮が遊んでやろうというのに」

 橋の中央。
 夕刻の光が水面に反射し、揺らめく銀色の帯となって橋桁の裏を照らしている。庭園の池は、先ほどまでの戦いの余波を忘れたかのように静まり返り、砕けた石灯籠の影をゆがめて映していた。
 
 その中央で、ククルと宮様は真正面から向き合っている。
 距離は十歩ほど。
 互いの呼吸が届くには遠く、殺意を交わすには十分すぎるほどに近い。

 ぬるい風が、ふたりのあいだを吹き抜ける。
 桜の花びらが一枚、宮様の肩に落ちた。錆色の表面に淡い薄紅が乗り、場違いなほどやわらかな彩りを添える。

 宮様は、にやりと笑った。

「怖気づいたか? さきほどは威勢がよかったではないか」

 ククルは静かに立っている。
 濃紺の軍服は光を反射せず、夕闇を先取りしたかのように周囲の色を吸い込んでいた。金の癖毛だけが、残照をかすかに弾かれて、青い瞳は、まるで水面の底に沈んだ硝子玉のように、微動だにしない。

「膝枕の余韻で足がすくんだか?」

 しびれを切らした宮様が一歩、踏み出した。
 橋板が、わずかに軋む。

 刹那────肩から、錆がぱらりと剥がれ落ちた。

 乾いた音すらない。
 ただ、粉が空気にほどけ、風にさらわれていく。

 だが、宮様は気づかない。

「安心しろ。すぐに終わる。お前があの世で昼寝でもしている間に、首のない帝のカラダを送って────」

 言葉が、わずかに途切れる。
 肘のあたりが、砂のように崩れたからだ。
 錆びた表層が裂け、内部の黒い構造体がのぞく。それもまた、崩壊の波に呑まれ、粒子となってこぼれ落ちていく。

「……?」

 宮様は、自分の腕を見る。
 触れる。
 触れた指先から、さらに崩れる。

 ぽろり、と。

 橋板の上に落ちた錆は、すぐに風に吹き散らされ、もとの形を留めない。

「……なるほど」

 遅れて理解が追いつく。
 ククルは、動いていない。

 いや────すでに動き終わっていた。

 その事実が、遅れて世界に現れているだけだったのだ。

「いつだ」

 宮様の声が低くなる。

「いつ、俺に触れた」

 ククルは、静かに答える。

「そなたが、ヒバリを侮辱した時」

 その言葉を境に、崩壊は加速した。
 錆が、胸部から大きく裂けてゆく。
 まるで見えない刃が通過したかのように、滑らかな断面が露出する。内部の黒い核が、かすかに脈動しているのが見えた。

「……ほう」

 宮様は笑った────崩れながら。
 その表情には、恐怖などなく高揚する胸の内で踊っているかのようだ。

「やるじゃないか、坊や」

「当然であろう……最強だからじゃ」

 その言葉と同時に、宮様の膝が砕ける。
 金属音は微塵もない。あるのは、さらさらと砂鉄が落ちる音だけ。
 錆の衣が、もはや形を保てずにいる。肩から胸へ、胸から腰へと、崩壊は波のように広がっていく。

「はは……ははは……!」

 それでも宮様は笑う。
 崩れ落ちながらも、なお誇らしげに。

「美しいな……この鉄は……!」

 顔の半分が崩れ落ちる。
 片側の目が砂鉄となって散り、残った半面だけで世界を見つめている。その瞳には、狂気ではなく、純粋な感嘆が宿っていた。

「だが────!」

 核が砕ける。
 中心を失った構造体が、一斉に形を保てなくなる。

「これは第一ラウンドだぞ、坊や」

 一陣の風が吹いた。
 宮様の身体が、完全に崩れ落ち……消えた。

 橋の上に残ったのは、赤錆の砂だけ。
 それはまるで、長い年月を経て風化した遺跡の残滓のように、静かに積もっている。

 ククルはしばらくその場に立っていた。

 帝都の方角から、まだ煙が上がっている。遠くで瓦が崩れる音が遅れて届き、春の空気に不釣り合いな焦げた匂いが混じる。

 青い瞳が、わずかに細まる。

「……望むところよ」

 呟きは、風に溶けた。
 桜の花びらが一枚、濃紺の肩に落ちる。
 
 挑戦状か、よかろうなのじゃ────ククルはそれを払い除けずに受け入れた。