血の匂いが、春の空気に混じっている中にふたりはいた。
桜の花びらが、ゆっくりと舞い落ちてくる。淡い色のそれは、地面に広がる赤の上に重なり、すぐに濡れて貼りついた。
ヒバリの膝の上に、ククルの頭がある。
軽い……驚くほど軽かった。
あれほど重たいものを背負って生きてきた人なのに、いまはただ、静かにそこに横たわっている。
「……ククル」
呼びかけても、返事はない。
頬に触れる。冷たい。
胸に手を当てる。動かない。
ヒバリの喉の奥で、何かが音もなく崩れた。
その瞬間、視界の奥で────別の光景が蘇る。それは、ほんの少し前に目にした光景だった。
*
鉄の繭が崩れ落ち、粉のように散っていく。
その向こうで、血に濡れたククルが倒れようとしていた。
ヒバリは叫びながら駆け寄った。
だが、その前に立ちはだかった影がひとつ。
錆の衣を纏った男────かつて“夫”だった者。
「……どいて」
声が震えていた。
男は、ほんのわずかに首を傾げる。
「お前の夫は、もう死んでるぞ」
淡々とした声だった。
嘲笑うでもない、当然のことを告げるだけの口調で。
「それをお前が受け入れないから────この坊やは死んだのさ」
その言葉が、刃のように胸へ沈んだ。
反論も、否定も、できなかった。全てが紛れもない事実だったからだ。
ヒバリの世界は、プツリと途切れてそこで音を失った。
*
「……私の、せいだ」
言葉にすると、それはあまりにも簡単に済んでしまうのだった。
あの人を追いかけなければ。
あの人の腕の中で泣かなければ。
あの人の言葉を信じようとしなければ。
この人は……ククルは刺されなかった。
ヒバリの視界が滲む。涙が頬を伝い、ククルの髪に落ちる。
濡れた金が、春の光を鈍く返した。
「……ごめんなさい」
謝っても、もう遅い。
過去も、現在も、未来も。すべてがこの赤の中に溶けていく。
ヒバリの視線が、ククルの腰元に止まる。
────ひと振りの脇差。
彼女は震える指で柄を握った。
こんなにも冷たいのか、刀というものは。
だが、抜けば終わる。自らの首元に突き立てれば、それで……。
これ以上、誰かを失うこともない。これ以上、誰かを傷つけることもない。
気づけば、刃が鞘から抜けて、光が淡く刃先に宿っている。
「……私も、行きます」
そう呟いた瞬間。
手首に、力がかかった。
「やめよ」
低い声だった。
ヒバリの呼吸が止まる。ゆっくりと視線を落とすと────ククルの手が、脇差を握る自分の手を掴んでいた。
「……無事なのじゃ」
かすれた声だ。
けれど、確かに生きている。
「……え?」
ヒバリの視界が揺れる。
理解が追いつかない。
ククルは薄く目を開け、焦点の合わない視線で空を見た。
「膝枕……うまくいった」
間の抜けた言葉だった。
ひとつ、ふたつと息継ぎを経てから。ヒバリの頬を、涙が伝ってゆく。
「……なに、言ってるんですか」
「わざと怪我をした……いつものことなのじゃ」
わずかに口元が緩む。
血に濡れたその顔が、子どものように無防備に見えた。
「……ばか」
ぽか。
ヒバリの拳が、ククルの額を軽く叩いた。
「ばか……ばか……」
ぽか。ぽか。
力など入っていない。子どもを叱る母親のような、頼りない拳だった。
「どうして……わざと怪我なんて……」
ぽか。
「どうして……私なんかのために……」
ぽか。
その音を聞いた瞬間、ククルの脳裏に、遠い日の春がよみがえった。
石畳。
落とした饅頭。
差し出された半分。
そして────
コツン。
あの日、はじめて叩かれた頭。
はじめて感じた痛みと愛情……あの小さな衝撃。
ククルの手がゆっくりと持ち上がり、震えるヒバリの手首を、そっと掴んだ。
「……もう、よい」
そのまま引き寄せる。
抵抗はなかった。
ヒバリの額が、ククルの肩に触れる。
────ククルはヒバリを抱きしめていた。
強くもなく、弱くもなく。
それは壊れ物を扱うような、ぎこちない抱擁だった。
「泣くな」
かすれた声。
「……そなたが泣くと、私が困る。最強の私がだ」
ヒバリの指が、ククルの軍服を掴む。
堰を切ったように嗚咽がこぼれた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
ククルは、何も言わなかった。
ただ、背に回した手で、ぎこちなくヒバリの背を撫でる。
それは、あの日。
はじめて頭を撫でられた少年が、十年かけて覚えた……たったひとつの“お返し”だった。
やがて、ククルは静かに言った。まるで、おやすみを囁くかのように。
「私はこれから、そなたの夫を殺す」
黒い感情はない。歌を詠むかのような、雅に流れる言の葉だった。
「よいな?」
ヒバリの喉が震える。
夫。
過去。
あの人と過ごした時間。
それらすべてが、胸の奥で揺れる。
けれど────
膝の上の重みが、現実だった。
自分の名を呼び、守ろうとした人。
八年間、何も言わずに隣に立ち続けた人。
ヒバリは目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。そしてしっかりとククルの青い瞳を見据えて言った。
「……はい」
桜の花びらが、ふたりの間に落ちる。
過去が、いま静かに終わった。



