「この揺らぎは……火の災血か。ふん、まぁかまわん」
宮様は足を止めずに呟いた。
帝都の各所で、鉄と炎が衝突する振動が空気の奥を震わせている。遠くで錆鬼が崩れ落ちる音が、微かな余韻となって届いた。焼けた鉄の匂いが風に乗り、遅れてここまで流れてくる。
火の災血。あの程度の干渉では、この歩みは止まらない。
皇居の外門は、すでに破られていた。
朱塗りの扉は蝶番ごと引きちぎられ、石畳の上に転がっている。近衛兵たちの亡骸が、その周囲に無造作に散らばっていた。鎧は歪み、槍は折れ、血はまだ乾ききっていない。
宮様は足を止めない。
“錆の衣”が擦れ合い、乾いた音を立てる。靴底が血溜まりを踏み、薄く赤い跡を残した。その足跡はすぐに錆に侵され、黒く変色していく。
抵抗は、あった。だが、意味はなかった。
刃は通らず、銃弾は歪み、叫びはすぐに途切れた。人間の力では、この体には触れられない。触れたとしても、それはただ錆びるだけだ。
庭園に出る。不思議なほどに静かだった。
外では帝都が崩れているというのに、ここには鳥の声すらない。池の水面は鏡のように凪ぎ、松の枝は風を忘れたかのように動かない。砂利を踏む音だけが、やけに大きく耳に残っていた。
橋が見える────池にかかる、低い石橋だ。
帝の御所へ至る、最後の道である。
宮様はゆっくりと歩みを進める。
「さて、刎ねた首は何処に飾ってやろうか……」
独り言のように呟く……ふと、橋の手前で、宮様は足を止めた。
気配だ。
水面が、わずかに震えている。
風はない。それでも、池の表面に小さな波紋が広がっていた。
霧が薄くたなびき、橋の中央に、人影があるのが見えた。
濃紺の影が、水面の上に静かに立っている。
それまるで、夜そのものが剣のようにまっすぐ立ち上がったかのようだった。
微動だにしない。
風もないのに、その上で────金の光だけが、微かに揺れている。
宮様の足がついに止まった。
ほんの半歩……躊躇ではない。認識の遅れでもない。
ただ、世界の整合が一瞬だけ崩れたのだ。
確かに“ヤツ”を殺した。
刃は心臓を貫き、血の温度も、肉の感触も、この手に残っている。
それでも……そこに“立っている”ではないか。
「……お前」
声が低く落ちる。
「慈悲をくれてやったはずだが?」
橋の上の影は答えない。ただ、静かにこちらを見据えている。
その青は、夜より深く。
その静けさは、水面より揺るがない。
血の匂いも、死の気配も、彼の周囲だけが拒んでいるかのようだった。
宮様の胸の奥で、かすかな熱が灯る。
驚愕ではない。
恐怖でもない。
────興味だ。
桜の花びらが一枚、どこからともなく橋の上に舞い落ちた。白い石の上で止まり、風もないのに、かすかに震える。
宮様は確信していた。この戦いは、まだ終わっていないのだと。
むしろ────いま、はじまる。
「せっかくだ。坊や、聞かせてくれないか。いったいどんな目覚ましを使ったのかを……なぁ?」
怨敵に問われたククルが一歩、足を踏み出す。
そして霧を纏いながら、静かにその口を開くのだった。



