帝都の空が灰色に濁っている────
煙と塵が幾層にも重なり、焦げた木材の匂いと、焼けた鉄の臭気が湿った空気に混じり、喉の奥にまとわりついた。呼吸のたび、肺の内側に煤が沈殿していくような不快感がある。
「左翼、下がるな! 隊列を崩すな!」
副官・チサキの声は、喧騒にかき消されそうになりながらも必死に響いた。肺の奥が焼けるように痛む。それでも声を張り上げるのをやめれば、恐怖が一気に隊列を崩壊させると分かっていた。
一番隊の兵たちは、崩れかけた商家の前で盾を構えている。だが、その前方では、錆鬼が地面を抉りながら迫っていた。
かつては虎だったもの。
いまでは錆びた鉄板が重なり合い、骨格を歪に覆っている。巨大な顎が開き、鉄片のような牙が鈍く光る。その隙間から覗く空洞は、喉でも胃袋でもなく、ただ破壊のためだけに存在する空間だった。
「隊長はどこにいるんだ!」
誰かが叫ぶ。
それは責める声ではなく、縋るような声だった。信じていたものを呼び求める声だ。
副官の胸が、ぎゅっと締め付けられる。
隊長は、必ず来る。
そう信じて戦ってきた。信じることが、彼らを立たせていた。
だが、いまは────
「前方、来るぞ!」
地面が揺れた。
瓦礫を踏み砕きながら現れたのは、家屋ほどもある巨体。全身が錆びた鉄に覆われ、四肢の一振りごとに空気が裂ける。足が地面に触れるたび、振動が靴底を通じて骨の奥まで伝わってきた。
エリザベス級だ。それも規格外の────
兵たちの足が、わずかに後ずさる。
誰も命令していない。体が勝手に距離を取ろうとしていた。
怯んだ人間を嘲笑うかのように、錆鬼が跳んだ。
巨大な影が、兵たちの上に覆いかぶさり、空が塞がれ、昼が一瞬で夕闇に変わった。
チサキは咄嗟に前へ出た。剣を構える。だが、その刃が届くより早く、鉄の爪が振り下ろされる。
────無理だ。敵うわけない。
そう思った刹那、視界が白く染まった。
轟音が耳を貫いてゆく────空気が爆ぜ、熱が、肌を刺す。
次の瞬間、錆鬼の巨体が炎に包まれていた。
紅蓮の柱が天へと立ち上り、錆びた鉄を内側から焼き尽くしていく。金属が悲鳴を上げるように軋み、溶解した鉄が赤黒い涙のように滴り落ちる。やがて巨体は耐えきれず、崩れ落ちた。
兵たちが、呆然と立ち尽くす。
炎の向こうから、ひとりの人物が歩いてくるのが見えた。
燃え盛る残骸の間を、まるで散歩でもするかのように。炎はその人物を拒まない。むしろ、主を迎える従者のように道を開けている。
赤い外套。揺らめく熱気。自信満々の足取り。
「待たせたなっ」
低く、どこか満足げな声。
副官が顔を上げる。熱気に揺れる空気の向こう、その姿がゆらりと歪んで見えた。
「……火の隊長」
三番隊隊長、火の災血・メラヴは、にやりと笑った。炎の反射がその瞳の奥で揺れ、まるで焔そのものが意思を持っているかのようだった。
「無事か、チサキちゃん。わかってるよ、惚れたんだろ? いいぜ、好きになっても」
副官は思わず眉をひそめる。喉にこびりついていた緊張が、わずかに剥がれる。
「……嫌いです」
拒まれたばかりだというのに、火の隊長は副官のすぐ隣に立った。距離が近い。やけに近い。炎の熱が外套越しに伝わり、肌の表面をじりじりと撫でる。
「ほら、煤がついてる」
白い手袋に触れそうな距離で、メラヴは美少女フェイスなチサキの頬を指先で軽く払った。
チサキは嫌そうに一歩下がった。
「……自分で取れますから。というか、紐育に戻ったのではなかったのですか?」
「まーな。でもすっ飛んできたのさ、好きな子のピンチってのはわかるから。こういうチャンスを拾ってこそ、恋はモノにできるってもんだからよ」
恋。と聞いてチサキは一歩後ずさった。
そして自らの両肩を抱き、プイっと顔を背けてメラヴを突き放すように言う。
「僕のココロもカラダも、ぜーんぶ恋王子隊長のものですから。あなたにはあげませんよ?」
キョトンするメラヴは、ひと息置いてから顎に手を当てて「ふむ」と唸るとこう言った。
「んじゃぁ、帰ろっかかなぁ〜。助けてやろうかと思ったけど……やっぱやーめた」
ざわっと一番隊の隊員たちが色めき立つ。
メラヴこそがこの状況では救世主たりえるのだと誰もが理解していた……チサキ以外は。
「副官どの! ダメですよ、引き留めてください!」
「お願いします……お願いしますッ!」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……!」
隊員たちに縋りつかれ、酸っぱそうな顔をするチサキを見て、メラヴは含み笑いを浮かべながら言う。
「帝都の休日……ふたりきりのデート……どうですかな、副官どの?」
ぅえぇ〜っと露骨に嫌そうな表情をつくるチサキの背後で、隊員たちが「お願いだから受けてくれ」と、必死の形相で拝み倒している。
チサキはガクっと肩を落とし、恨めしそうにメラヴを睨みつけて呟いた。
「……わかりましたよ。デートします」
この言葉に、メラヴと隊員たちは同じ温度で熱いガッツポーズをキメるのだった。



