災血一番隊長・恋王子ククル──最強な彼は、未亡人に甘えたくて今日もわざと怪我をする


 扉が開くと、外の空気が部屋の奥まで流れ込んできた。
 ククルは中を一瞥し、ヒバリに視線を向ける。

「ヒバリ。外へ」

 それだけ言って、先に廊下へ出た。
 止める者は誰ひとりいなかった。
 ヒバリは振り返らないまま、夫の衣をそっと離し、ククルの後を追う。

 *

 アパートの裏手は、表通りの喧騒から切り離された小さな空間だった。洗濯物の影が揺れ、古びた物置のトタンがカタカタ風に鳴っている。見れば、誰も気に留めないような場所に、一本だけ桜の木が立っていた。

 満開にはまだ早い。
 それでも、いくつかの花びらが風に押されて、ゆっくりと落ちてくる。

 ククルは桜の下で足を止めた。
 背を向けたまま、しばらく何も言わずに。

 ヒバリは数歩離れたところで立ち尽くす。距離に意味があるのかどうかは分からない。ただ、近づくと何かが壊れそうで、遠ざかると何もかも手遅れになりそうだった。

 ふいに沈黙が落ちる。
 普段は心地よいはずのふたりだけの間に流れる沈黙も、この時ばかりは息が詰まるようにヒバリには感じられた。
 これ以上は限界だ。ヒバリは唇をきゅっと噛んでから切り出した。

「……あの人は」

 自分の声が、思ったよりも薄い。

「私の夫です」

 ククルの肩が、わずかに揺れた。

「死んだと聞いた」
「そうです」
「遺体も確認したのじゃろう」
「……はい」

 風が吹き、花びらが一枚、二人の間に落ちる。

 ククルはゆっくりと振り返った。
 青い瞳が、まっすぐにヒバリを捉える。

「それでも、あれを夫だと言うのか」

 ヒバリの胸が強く脈打った。

「だって……」

 言葉が続かない。
 言葉にした瞬間、違和感が形を持ってしまう。

 体温がなかった。息遣いも聞こえなかった。鉄の匂いがした。
 違和感は、いくつもあった。
 それでも────

「……あの人の声でした」

 ヒバリは、かすれる声で言う。

「抱きしめ方も、同じで……」

 視界が滲む。
 涙というのは、たいてい見たくないものをぼかすためにある。

「私、もう一度だけでもいいって……思ってしまったんです」

 ククルの指が、白手袋の上から強く握られる。
 革のきしむ音が、小さく鳴った。

 桜の花びらが、彼の肩に落ちる。払われることなく、そこに留まった。

「そなたは騙されているのじゃ」

 静かな声だった。
 ぞっとするほどに、美しいゆらぎを湛えたままの。

錆鬼(サッキ)じゃ」

 ヒバリの呼吸が止まる。

「人型の錆鬼……人のカタチをしたバケモノじゃ。人の記憶をなぞり、姿を写す」

 風が止む。
 桜の枝が、わずかに軋む。

「夫は……死んでおる」

「やめてください」

 無意識に、ヒバリは首を振っていた。

「そんなこと、言わないで」
「現実を見よ」
「見てます!」

 声が裏返る。
 裏返った声は、たいてい本人が一番驚く。ヒバリ自身がまさにそうだった。

「見てます……でも……」

 言葉が崩れる。
 見えている。違和感も、冷たさも、すべて。
 それでも────

「それでも、あの人なんです」

 ヒバリは俯いたまま言う。

「私の、夫なんです」

 沈黙────ククルは何も言えない。
 帝都を守る最強の災血。数多の錆鬼を屠ってきた男。
 だが今、目の前にいるのは敵ではなく、過去に縋る一人の女性だった。戦場の理屈は、こういう場面ではまるで役に立たない。

 気づけば、白手袋の指がわずかに震えていた。

「……ヒバリ」

 名前を呼ぶ声が、かすかに揺れる。
 それだけで十分なはずだった。
 本当は、もっと前から呼んでいた。心の中では、八年のあいだ、何度も。

「そなたは────」

 続けようとして、言葉が途切れる。
 
 何を言えばいいのか、分からない。
 任務の言葉ならいくらでもある。錆鬼の危険性、都市の安全、確率論、過去の被害。どれも正しい。どれも間違っていない。
 だが、それらは一つも、目の前の女性を動かさないとわかっていた。

「……私は」

 ククルの声が、わずかに掠れる。

 言うべきではない。言えば、何かが終わる。
 だが、言わなければ────何も始まらない。

「私は、そなたを────」

 そこで止まる。
 桜の花びらが、足元にはらりと落ちる。
 ヒバリの肩が、わずかに震えた。

「やめてください」

 小さな声だ。
 拒絶というより、懇願に近いものだった。

「……それ以上、言わないで」

 ヒバリは顔を上げないまま言う。

「お願いだから……いま、言われたら……」

 声が途切れる。
 その先にある言葉を、本人がいちばん知っていた。

 ククルの喉が、かすかに鳴る。

「……ヒバリ」

 ヒバリの指が、震えている。
 袖口を握る力が強くなり、布が小さく軋む。

 そして、ぽつりと────

「ずるいです」

 その言葉は、落ちた花びらよりも静かだった。
 ククルの呼吸がはっとして止まる。

「八年も……なにも言わなかったくせに」

 ヒバリの肩が震える。

「いまになって……そんな顔で……」

 顔は上がらない。
 だが声は、もう止まらなかった。

「私は、ずっと待ってたんです」

 その言葉は、責める形をしていながら、どこか懺悔にも似ていた。

「隊長どのは、いつも来てくれて……怪我して、診療所に来て……」

 息が乱れる。

「でも、なにも言わないから……私は……」

 言葉が崩れる。こぼれ落ちた涙のせいだ。

「私は、あの人を……手放せなかったんです」

 桜の花びらが、二人の間に落ちる。
 ククルの胸の奥で、何かが裂ける音がした。

「それは……」

 声が低くなる。

「それは、そなたが過去を捨てようとしなかったからだ……!」

 言ってしまったあとで、取り返しのつかない音がした。
 ヒバリが、ゆっくりと顔を上げる。

 涙で濡れた頬。
 だが瞳は、はっきりと怒っていた。

「捨てられるわけないじゃないですか!」

 声が、桜の枝を震わせたような気がした。

「捨てるだなんて……指輪だって……外せない私に!」

 ヒバリは、自分の左手を握りしめる。
 白金の指輪が、陽の光を鈍く反射した。

「これを外したら……本当に、あの人がいなくなる気がして……!」

 呼吸が乱れる。

「弱いんです……私は……知ってるでしょう?」

 ククルの指先が、わずかに震える。
 白手袋の内側で鉄が軋むような音がした。

「……弱くなんかない」

 掠れた声だった。

「弱くないから、八年も一人で生きてきたのじゃろうが……!」

 ヒバリの瞳が揺れる。
 怒りと、悲しみと、どうしようもない安堵が混ざった色だった。

「ずるいよ……そんなこと言って……」

 かすれた声。

「私が頑張ってこれたのは……あなたがいてくれたから……」

 言葉が途切れる。

 互いに一歩も動けない。
 近づけば壊れる。離れれば、永遠に届かない。

 桜の花びらが、また一枚落ちる。まるでふたりを繋ぎ止めるように。

 だが────
 それはまったく真逆の言伝を置きにきた。

 背後の空気が、鋭く裂けた。どこから飛んできたのか、鉄の匂いが、一瞬でむせかえるほどに濃くなる。

 ────遅い。

 そう気づいたときには、すでに「刃」は振り下ろされていた。