祓わない。
逃がさない。
ただ、拾ってくる。
それが仕事だ。
依頼はだいたい曖昧だ。
「音がする」とか、「子どもが何かと話している」とか、「誰もいないはずの部屋の照明が落ちない」とか。
具体的な言葉になる頃には、もう手遅れなことが多い。
俺は遅すぎもしないし、早すぎもしない時間に行く。
懐中電灯と、古い帳面と、黒いペン。
それだけ持って。
帳面は祖父のものだ。
表紙は擦り切れて、角が丸い。
ページはすこし波打っている。湿気を吸ったみたいに、いつも柔らかい。
中には、名前が並んでいる。
人の名に見えるものもあれば、そうでないものもある。
ひらがなだけのもの。
記号みたいなもの。
判読できない線の塊。
どれも、俺が拾ったものだ。
最初は、廃アパートの一室だった。
壁紙が剥がれ、畳が腐っている。
部屋の中央に、丸く黒い染みがあった。
そこだけ、冷えている。
耳鳴りみたいな音がする。
高くも低くもない、焦点の合わない音。
俺は帳面を開く。
採集地点。
時刻。
温度。
臭い。
感じたことを、そのまま書く。
見えたものは、書かない。
見えた気がしたことを書く。
染みの上に立つと、足裏が沈む感覚がある。
実際には沈まない。畳は固い。
でも、体重が下へ引かれる。
喉の奥が湿る。
ペン先が、紙に引っかかる。
最後に、名前を書く。
「ミズノ」
理由はない。
口に出したとき、部屋の音が一段下がった。
それで終わりだ。
帰る頃には、黒い染みはただの古い水跡に見える。
祓ったわけじゃない。
そこに固定しただけだ。
帳面に写したものは、暴れなくなる。
代わりに、ページの中でじっとしている。
頁を閉じるたび、重みが増す。
物理的な重さじゃない。
持ち上げたとき、わずかに遅れてくる感触。
中で何かが、動きを止める。
三年続けている。
そのあいだ、死んだ人間はいない。
少なくとも、俺の採集後に同じ現象で死んだ人間はいない。
だから続けている。
違和感が生まれたのは、先月だ。
依頼はなかった。
なのに、帳面が開いていた。
机の上で、自然に。
ぱら、と風もないのにめくれて、途中で止まっている。
知らない頁だった。
紙の色が、少し新しい。
罫線も、他と違う。
そこに、文字があった。
採集地点:未定
時刻:未定
条件:蒐集者が気づいたとき
俺はしばらく、その「蒐集者」という言葉を見ていた。
そんな言葉、今まで書いたことがない。
背中が、かすかに重い。
気のせいだと思った。
帳面を閉じる。
輪ゴムで留める。
引き出しに入れる。
その夜、夢を見た。
自分の背中を、誰かがなぞっている夢。
右肩の落ち方。
左脇腹の古傷。
歩くときの、わずかな右足の癖。
夢の中で、紙をめくる音がする。
ぱら、ぱら、と。
それからだ。
現場で、視線を感じるようになった。
拾う側のはずなのに、拾われている感じがする。
書いているときだけ、背中が静かになる。
逆に、書かないでいると、呼吸が近づく。
足を止める。
半歩遅れて、止まる。
振り向かない。
振り向いたら、条件を満たす気がする。
ある夜、自宅で帳面を開いた。
何もないはずの日。
知らない頁が、また増えている。
採集地点:自宅
時刻:午前二時十四分
特徴:右肩がわずかに落ちている
古傷:左脇腹、五針
正確だった。
鏡でしか確認していないはずの位置。
喉が乾く。
ページの下部に、空白がある。
――名称
その下に、かすかな鉛筆の跡。
書きかけで消したみたいな線。
俺はペンを持たないように、両手を握る。
まだだ。
気づかなければ、成立しない。
気づいていないふりをすれば、まだ俺は集める側だ。
そう思い込もうとする。
そのとき、背中の重みが、前に回った。
椅子の背もたれと背中の間に、何かが挟まる。
息が、首筋に触れる。
耳元で、紙がめくれる音。
ぱら。
最後の頁が開く。
視界の端で、自分の手が動く。
握っていないはずのペンが、紙に触れている。
最初の一画。
止めようとするが、力が入らない。
名前は、俺のものじゃない。
見覚えのない字で、ゆっくりと書かれていく。
それが完成した瞬間。
背中の重みが消える。
部屋の空気が軽くなる。
帳面が、閉じる。
静かだ。
何もいない。
助かった、と思いかける。
机の上の帳面を見る。
表紙が二冊ある。
下に、同じ形のものが重なっている。
新品に近い、乾いた帳面。
恐る恐る開く。
最初の頁。
採集地点:自室
時刻:午前二時十四分
対象:蒐集者
状態:固定済
次の頁から、白紙が続く。
拾ってくる。
祓わない。
逃がさない。
仕事は、続く。
ただし今度は、どちら側から始まったのか、もう思い出せない。
「……誰か」
声に出していない。
でも、確かに聞こえる。
振り返らず、立ち上がる。
影が、部屋の角に溶けていた。
濡れた黒い布のように、壁から壁へ、形を変えて這っている。
帳面を持つ手が震える。
開くと、白紙の頁が勝手に揺れ、文字が浮かび上がる。
採集地点:自宅
時刻:未明
特徴:背後に影が増殖
古傷:右肩、左脇腹
注意事項:見てはいけない
文字が自動で書かれる。
それを見た瞬間、喉が締め付けられるように苦しい。
影は消えない。部屋の空気が、指の隙間から染み込むように重い。
何かが帳面の中に閉じ込められたのではない。
俺自身が観察され、採集されている。
思い切って部屋を飛び出す。
階段を降り、外へ出る。
夜の街は静かだ。
しかし、足音が後ろからついてくる。
一歩一歩、こちらと同じ間隔で。
振り返ると、誰もいない。
けれど、呼吸が、髪の先が、体温が重なる。
見えない誰かが、俺の動きを模している。
逃げても、距離を置いても、音は揃う。
気づかないふりをしても、足音は止まらない。
選択肢が、ない。
帳面を持つ手は震えたまま。
ページをめくると、白紙の頁が次々と現れる。
そこには小さな黒い点。
増えていく。
影の足跡のように、頁を這っている。
低く囁く声。
意味はわからない。
でも、理屈ではない恐怖が、心の奥底に落ちてくる。
拾ってくる仕事のはずだった。
今、俺は拾われる側になった。
背後に気配を感じながら、ようやく理解する。
この世界には、俺がまだ知らない規則がある。
帳面に書いたものだけが安全で、
書かれなかったものは、逃げられず、影に取り込まれる。
そして、影は自分で増える。
俺が気づいた瞬間、誰かが次の頁に書かれる。
――その誰かは、もしかすると、自分かもしれない。
帳面を開く。
ページの白さが、異様に眩しい。
光に目を細めて、文字を読む。
採集地点:自宅
時刻:午前二時十四分
対象:蒐集者
状態:増殖中
次の瞬間、部屋の電灯が消えた。
闇が重く垂れ下がり、呼吸が止まる。
耳元で、低い声が囁く。
「……あなたも書く?」
部屋は完全に暗い。
息を止めて、耳を澄ます。
低く、湿った呼吸が重なる。
俺の背中の骨に、確かに重みを感じる。
帳面を手に取る。
ページをめくると、白紙の頁が静かに待っていた。
そして、ページの中央に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
――あなたの名前
息が止まる。
ペンは握っていない。
でも、指が勝手に動く。
文字を書き進めるたび、背中の重みが前に回る。
音がする。
踏み出す足音。
でも、床には誰もいない。
窓の外の街灯にも、影はない。
ただ、俺の動きに合わせて、影が増える。
振り返れば、やはり何もない。
だが、感覚は明らかに、そこに誰かがいる。
文字は完成に近づく。
最後の画を引く。
手が止まらない。
帳面の頁が光る。
白い光ではない。
湿った、暗い光。
眩しくはないのに、目を背けたくなる。
その瞬間、背中の重みが、肩を押し、腰を引く。
俺は椅子から落ちそうになる。
声にならない声が、耳元で囁く。
「完了……」
帳面が机に落ちる。
静寂が戻る。
呼吸も戻る。
何もいない。
でも、机の上には、二冊の帳面がある。
一冊は、これまでと同じ、古い祖父の帳面。
もう一冊は新品。白紙。
開くと、最初の頁に、俺の名前が書かれている。
自分で書いたのか、誰かに書かれたのか、わからない。
影は消えたのか。
それとも、帳面の中に閉じ込められただけなのか。
確かめる術はない。
俺は椅子に座ったまま、何度も机の帳面を開く。
白紙の頁が、こちらを見返している。
次に何が現れるのか、誰も知らない。
そして、確かなことは一つ。
仕事は、終わらない。
拾う。
祓わない。
逃がさない。
誰が次の頁に書かれるのか。
――もしかすると、俺かもしれない。
背後に、微かに呼吸を感じる。
振り返らない。
振り返った瞬間、俺は蒐集される。
帳面を開く。
白紙が笑う。
終わりは、まだ来ない。ふふ、、、。
逃がさない。
ただ、拾ってくる。
それが仕事だ。
依頼はだいたい曖昧だ。
「音がする」とか、「子どもが何かと話している」とか、「誰もいないはずの部屋の照明が落ちない」とか。
具体的な言葉になる頃には、もう手遅れなことが多い。
俺は遅すぎもしないし、早すぎもしない時間に行く。
懐中電灯と、古い帳面と、黒いペン。
それだけ持って。
帳面は祖父のものだ。
表紙は擦り切れて、角が丸い。
ページはすこし波打っている。湿気を吸ったみたいに、いつも柔らかい。
中には、名前が並んでいる。
人の名に見えるものもあれば、そうでないものもある。
ひらがなだけのもの。
記号みたいなもの。
判読できない線の塊。
どれも、俺が拾ったものだ。
最初は、廃アパートの一室だった。
壁紙が剥がれ、畳が腐っている。
部屋の中央に、丸く黒い染みがあった。
そこだけ、冷えている。
耳鳴りみたいな音がする。
高くも低くもない、焦点の合わない音。
俺は帳面を開く。
採集地点。
時刻。
温度。
臭い。
感じたことを、そのまま書く。
見えたものは、書かない。
見えた気がしたことを書く。
染みの上に立つと、足裏が沈む感覚がある。
実際には沈まない。畳は固い。
でも、体重が下へ引かれる。
喉の奥が湿る。
ペン先が、紙に引っかかる。
最後に、名前を書く。
「ミズノ」
理由はない。
口に出したとき、部屋の音が一段下がった。
それで終わりだ。
帰る頃には、黒い染みはただの古い水跡に見える。
祓ったわけじゃない。
そこに固定しただけだ。
帳面に写したものは、暴れなくなる。
代わりに、ページの中でじっとしている。
頁を閉じるたび、重みが増す。
物理的な重さじゃない。
持ち上げたとき、わずかに遅れてくる感触。
中で何かが、動きを止める。
三年続けている。
そのあいだ、死んだ人間はいない。
少なくとも、俺の採集後に同じ現象で死んだ人間はいない。
だから続けている。
違和感が生まれたのは、先月だ。
依頼はなかった。
なのに、帳面が開いていた。
机の上で、自然に。
ぱら、と風もないのにめくれて、途中で止まっている。
知らない頁だった。
紙の色が、少し新しい。
罫線も、他と違う。
そこに、文字があった。
採集地点:未定
時刻:未定
条件:蒐集者が気づいたとき
俺はしばらく、その「蒐集者」という言葉を見ていた。
そんな言葉、今まで書いたことがない。
背中が、かすかに重い。
気のせいだと思った。
帳面を閉じる。
輪ゴムで留める。
引き出しに入れる。
その夜、夢を見た。
自分の背中を、誰かがなぞっている夢。
右肩の落ち方。
左脇腹の古傷。
歩くときの、わずかな右足の癖。
夢の中で、紙をめくる音がする。
ぱら、ぱら、と。
それからだ。
現場で、視線を感じるようになった。
拾う側のはずなのに、拾われている感じがする。
書いているときだけ、背中が静かになる。
逆に、書かないでいると、呼吸が近づく。
足を止める。
半歩遅れて、止まる。
振り向かない。
振り向いたら、条件を満たす気がする。
ある夜、自宅で帳面を開いた。
何もないはずの日。
知らない頁が、また増えている。
採集地点:自宅
時刻:午前二時十四分
特徴:右肩がわずかに落ちている
古傷:左脇腹、五針
正確だった。
鏡でしか確認していないはずの位置。
喉が乾く。
ページの下部に、空白がある。
――名称
その下に、かすかな鉛筆の跡。
書きかけで消したみたいな線。
俺はペンを持たないように、両手を握る。
まだだ。
気づかなければ、成立しない。
気づいていないふりをすれば、まだ俺は集める側だ。
そう思い込もうとする。
そのとき、背中の重みが、前に回った。
椅子の背もたれと背中の間に、何かが挟まる。
息が、首筋に触れる。
耳元で、紙がめくれる音。
ぱら。
最後の頁が開く。
視界の端で、自分の手が動く。
握っていないはずのペンが、紙に触れている。
最初の一画。
止めようとするが、力が入らない。
名前は、俺のものじゃない。
見覚えのない字で、ゆっくりと書かれていく。
それが完成した瞬間。
背中の重みが消える。
部屋の空気が軽くなる。
帳面が、閉じる。
静かだ。
何もいない。
助かった、と思いかける。
机の上の帳面を見る。
表紙が二冊ある。
下に、同じ形のものが重なっている。
新品に近い、乾いた帳面。
恐る恐る開く。
最初の頁。
採集地点:自室
時刻:午前二時十四分
対象:蒐集者
状態:固定済
次の頁から、白紙が続く。
拾ってくる。
祓わない。
逃がさない。
仕事は、続く。
ただし今度は、どちら側から始まったのか、もう思い出せない。
「……誰か」
声に出していない。
でも、確かに聞こえる。
振り返らず、立ち上がる。
影が、部屋の角に溶けていた。
濡れた黒い布のように、壁から壁へ、形を変えて這っている。
帳面を持つ手が震える。
開くと、白紙の頁が勝手に揺れ、文字が浮かび上がる。
採集地点:自宅
時刻:未明
特徴:背後に影が増殖
古傷:右肩、左脇腹
注意事項:見てはいけない
文字が自動で書かれる。
それを見た瞬間、喉が締め付けられるように苦しい。
影は消えない。部屋の空気が、指の隙間から染み込むように重い。
何かが帳面の中に閉じ込められたのではない。
俺自身が観察され、採集されている。
思い切って部屋を飛び出す。
階段を降り、外へ出る。
夜の街は静かだ。
しかし、足音が後ろからついてくる。
一歩一歩、こちらと同じ間隔で。
振り返ると、誰もいない。
けれど、呼吸が、髪の先が、体温が重なる。
見えない誰かが、俺の動きを模している。
逃げても、距離を置いても、音は揃う。
気づかないふりをしても、足音は止まらない。
選択肢が、ない。
帳面を持つ手は震えたまま。
ページをめくると、白紙の頁が次々と現れる。
そこには小さな黒い点。
増えていく。
影の足跡のように、頁を這っている。
低く囁く声。
意味はわからない。
でも、理屈ではない恐怖が、心の奥底に落ちてくる。
拾ってくる仕事のはずだった。
今、俺は拾われる側になった。
背後に気配を感じながら、ようやく理解する。
この世界には、俺がまだ知らない規則がある。
帳面に書いたものだけが安全で、
書かれなかったものは、逃げられず、影に取り込まれる。
そして、影は自分で増える。
俺が気づいた瞬間、誰かが次の頁に書かれる。
――その誰かは、もしかすると、自分かもしれない。
帳面を開く。
ページの白さが、異様に眩しい。
光に目を細めて、文字を読む。
採集地点:自宅
時刻:午前二時十四分
対象:蒐集者
状態:増殖中
次の瞬間、部屋の電灯が消えた。
闇が重く垂れ下がり、呼吸が止まる。
耳元で、低い声が囁く。
「……あなたも書く?」
部屋は完全に暗い。
息を止めて、耳を澄ます。
低く、湿った呼吸が重なる。
俺の背中の骨に、確かに重みを感じる。
帳面を手に取る。
ページをめくると、白紙の頁が静かに待っていた。
そして、ページの中央に、ゆっくりと文字が浮かび上がる。
――あなたの名前
息が止まる。
ペンは握っていない。
でも、指が勝手に動く。
文字を書き進めるたび、背中の重みが前に回る。
音がする。
踏み出す足音。
でも、床には誰もいない。
窓の外の街灯にも、影はない。
ただ、俺の動きに合わせて、影が増える。
振り返れば、やはり何もない。
だが、感覚は明らかに、そこに誰かがいる。
文字は完成に近づく。
最後の画を引く。
手が止まらない。
帳面の頁が光る。
白い光ではない。
湿った、暗い光。
眩しくはないのに、目を背けたくなる。
その瞬間、背中の重みが、肩を押し、腰を引く。
俺は椅子から落ちそうになる。
声にならない声が、耳元で囁く。
「完了……」
帳面が机に落ちる。
静寂が戻る。
呼吸も戻る。
何もいない。
でも、机の上には、二冊の帳面がある。
一冊は、これまでと同じ、古い祖父の帳面。
もう一冊は新品。白紙。
開くと、最初の頁に、俺の名前が書かれている。
自分で書いたのか、誰かに書かれたのか、わからない。
影は消えたのか。
それとも、帳面の中に閉じ込められただけなのか。
確かめる術はない。
俺は椅子に座ったまま、何度も机の帳面を開く。
白紙の頁が、こちらを見返している。
次に何が現れるのか、誰も知らない。
そして、確かなことは一つ。
仕事は、終わらない。
拾う。
祓わない。
逃がさない。
誰が次の頁に書かれるのか。
――もしかすると、俺かもしれない。
背後に、微かに呼吸を感じる。
振り返らない。
振り返った瞬間、俺は蒐集される。
帳面を開く。
白紙が笑う。
終わりは、まだ来ない。ふふ、、、。



