あの夏の日、先輩は

先輩を急いで資料館から連れ出し、建物が見えなくなるまでのところに来てようやく俺は歩みを止めた。

さっきの赤い封筒からの嫌な視線が頭から離れない。

あんな、人の命も使い捨てるような奴に、先輩が狙われている?

先輩の手首を掴んだまま、あの視線を振り払うように頭を振る。

「りょう君?」

急に立ち止まった俺を気遣うように、背後から先輩の遠慮がちな声がかかった。

気がつけば夏の暑さだけが原因ではない、じっとりとした不快な汗がポタリポタリと筋になって地面に落ちる。

先輩に手汗ヤバ男だと思われてしまう…

だが今この手を離すと、あの嫌な視線に先輩が攫われてしまうのではという思考でますます先輩の手首を握る指に力が入ってしまう。

痛いだろうに先輩は空いた手で俺の肩を優しく掴むと、りょう君、しゃがんで?と耳元に囁いた。

すると不思議なことに、脱力したように俺は地面にしゃがみこむ。

先輩は指で地面の砂に鳥居のマークを描いた。



気がつくとそこは、どこか神社の鳥居の前だった。


「山頂にある俺の実家の神社だよ」

べ、便利〜〜〜


一瞬でタイムワープしたことに呆気にとられていると、今度は先輩が俺の手を引いていく。

「中に入ろう。

ー顔色が優れないようだから」




 通されたのは境内にある社務所の2階。キッチンなどを見るにどうやらここは先輩の住居スペースのようだ。

そして俺は今先輩に膝枕をされている。

距離感が…

もうこれは…

恋人の距離感では…?

「小さい時もこうしたね」

「もう小さいときにはできなかったことも色々できてしまうんですから先輩ちょっとそういう軽率な発言はいかがかと」

早口長文でまくし立てると「小さい時もそんなことを言ってたね」と先輩がクスリと笑う。

6歳でこんなこと言ってたの?
俺ヤバすぎない???

「ここで寝泊まりしてる割には…あんまり生活感がないんですね」

「ここにはほとんど帰ってないからね」

いつしか溝口くんが言っていた、『先輩は御石様の辺りでいつも消えてしまう』という言葉を思い出す。

その辺りで寝泊まりしているということだろうか?

「そうだね、あの辺りに打ち捨てられたプレハブ小屋があって、そこから学校に通っているよ」

「お願いですからここで寝泊まりしてください」

後生です…と俺は目を閉じる。
なんなら目の端から1筋涙も流れてきた。

先輩を狙っている“対心霊バイヤー”の件も不安だし、そんなほったて小屋みたいなところにいては先輩の安全面が大変心配である。
熊とか。

「ここに帰ってきたくない理由でもあるんですか?」

まさか家族関係があまりよろしくない…?
そうだ、そもそも先輩以外の家族の気配も全くない。

「家族はもうずいぶん前に亡くなっているんだ」

「…すいません…」

思わず謝罪を口にした俺に先輩が首を振る。

「代々この村の神事は久勢神社が担っている。

送り盆もそうだね。

もう長年、何十年。

その御役目はずっと俺が担っている」


その意味するところは。


「りょう君はー


与えられていたものが嘘だったのと、


最初から与えられてもいないのと、


与えてから奪われるのと、



どれが1番残酷だと思う?」



ここは俺のいていい居場所じゃない。だから帰らないんだと。



「ここにいて辛いなら、俺が毎日会いに来ます」

「……」

「この状況で、どうか俺に“村を出ていけ”なんて言わないでください。

“対心霊バイヤー”の件は、俺が必ず突き止めてみせます。

だからその件が片付くまで、先輩にはここにいてほしいんです」

静かに見つめる先輩から瞳は逸らさない。

「先輩に何かあってまた離れることになったらー


今度こそ、

俺はもう生きていけません」


一瞬、先輩が息を止めた。


それから小さく息を吐くと、ゆっくり俺の前髪を指で梳く。


それが、君の望みなら。



カナカナカナカナカナ…


ヒグラシが遠くで鳴き始める。


先輩の呟きは俺と、ヒグラシだけが聞いていた。