あの夏の日、先輩は

郷土資料館は、まだ俺が来たことのない村の外れにあった。まだ日も高いというのに他に家屋もなくだだっ広い土地をただ1つで専有するその屋敷は、旧家というにふさわしい佇まいをしていた。

無人タイプの受付には『ご自由にお入りください』という看板のみだ。

「ここから先、何があってもこのお面を外しては駄目だよ?」

旅館並みに広い玄関で靴を脱ぎながら先輩が渡してきたのは、祭りの屋台で売っているような狐のお面だ。

俺がお面をつけたのを確認すると、俺の手を握る先輩。
先輩は俺の手を引きながら、迷路のように細く何度も曲がる長い通路を迷い無く奥へ奥へ進んでいく。

小さい頃、先輩の手を引くのはもっぱら俺の方だった。
振り返るといつも先輩は優しい笑みを浮かべてくれていて。

今はどんな表情で俺の手を引いているのだろうか?




そのうち客間のような和室に辿り着くと、先輩はすーっ…と、襖を開けた。

それはちょうど昨日の女幽霊がそうしたように。

開けた先には、見覚えのある行灯、屏風。

そして昨日の俺のように、押入れの前には人影があった。

急に差した光源に驚いたのだろう、その人物が振り向く。

これと言って特徴のない顔立ちをした男だった。

傷んだ金髪は頭頂部がすでに黒くなり始めており、着ているTシャツもデニムもどこかくたびれている。

目はずっとキョロキョロとせわしなく動いており、不安そうにシャツの裾あたりで握り込んでいる手の中には。

「赤い封筒…」

俺が赤い封筒の存在に言及したことに驚いたのか、男はさらに挙動不審になった。

「なっ、何だお前らっ…」

「そこにあなたの求める報酬はありませんよ」

先輩の初めて聞く酷く平坦な声に俺は驚く。

そしてなんとなくだがー
昨日の女幽霊の大事な娘が押し入れの中にいたのだろうことを考えると、報酬があるとしたら押し入れの中だと考えていたため、先輩の発言にも驚いてしまった。

それは男も同じだったのだろう。

「こ、この押し入れに今回の報酬があるってー」

男のこの発言前からなんとなく察してはいたがー

女幽霊に冥婚の儀式を教え、
御石様の目をかいくぐって村まで侵入してくる“対心霊バイヤー”が、こんなに挙動不審な男だとは思えなかったのだがー

「何も事情を知らずに“報酬をやるからこの赤い封筒を持ってここに行け”と、誰かから指示を受けて来たんですね?」

図星なのだろう。
使われているだけの何の事情も知らないだろう男からは、聞き出せるだけの情報の気配がない。

「こんな郷土資料館として開放された施設の押し入れの中にそんなものはないだろうし、

ここにあるならとっくに他の誰かが見つけている」

先輩の言うとおりだ…

では“女幽霊から成仏前に約束していた報酬を受け取ってくる”という可能性がなくなった今。
そうなると、この男がここへ寄越された理由は?

「それなりの前金をもらったから来たのでしょう。

しかしそれ以上のお金はここにいても手に入りませんよ。

うまい話には裏があります。
あなたが手にしているそれは、危険なものです。

前金で満足していただいて、ここはお引き取りー」

その瞬間、男の手元ー赤い封筒から視線を感じた(・・・・・・)

その舐め回すようなじっとりとした視線は、

先輩を見ている。



「ーッッ、先輩ッッ!」



思わず先輩の前に飛び出し赤い封筒の視線を遮る。


と、



男の手の中の赤い封筒がムクムクと、



それはまるで気球を膨らませるシーンを早送りにしたかのようにー

あっという間に膨らんだ赤い封筒は、男が唖然と見上げるまでの大きさになると。



バクンッ



大きく、空気が破裂したかのような音。


同時に、男の上半身も消失する。


しかしその身が崩れるよりも速く、膨らんだ赤い封筒ー
だったものが、男の残り(・・)も覆い尽くすように更に膨らみ、

パチンッ


最後は本当にささやかな、ゴムを弾き飛ばしたくらいの小さな音と共に男は完全に消失した。


血の痕すらなく、1人の人間がいたという証拠が、何1つ残らず消滅した瞬間だった。


「ー先輩、」


長い沈黙を破ったのは、俺からだった。


「あの赤い封筒ー」

正確には赤い封筒を模した、もっと禍々しい別の何かだったのだろうそれは。

「先輩を見ていました」


あれが村に来た目的は。


「あれは先輩を狙ってきたんです」