未完成のトンネル、送り火、あの夏の校舎。先輩は、

7歳くらいまで、夏休みは母の地元である北陸へ帰省するのが常であった。

母が住んでいた山麓の村は東京から父の車で6時間ほど。

流れていく景色が無機質なビル群から畦道と田園ばかりになった頃、母に『虫が入るよ』と笑われながら俺は少し窓を開けるのが好きだった。

濁った排気ガスの臭いや人々の喧騒は消え、ツンと鼻を通り抜ける若葉の香りとヒグラシの鳴き声。
俺が“郷愁”と言われて思い浮かべるのは、いつもこの場面だ。

村に初めて訪れた時は東京よりも近い夕日で真っ赤に染まる田畑と地面からむわりと立ち上がる熱気に、燃えているかのような錯覚をよく覚えたものだ。

父と母の真ん中で手を繋がれながら何かに追い立てられるように伸びる影がやがて薄暗闇に溶け、西のまだら雲が橙から薄紫に変わっていく。

真昼の気配は鳴りを潜めヒグラシの声がカエルに代わる頃、ようやく祖母の家に辿り着く。

梁の見える高い天井、窓の開け放たれた縁側。
祖母の住んでいた古民家は、知らない匂いなのにどこか懐かしいような気持ちにさせた。

ふと、カエルの規則的な鳴き声に交じるように、引き攣った声が混じる。

グ、ゲゲ、グゴッ…

気泡が混じったような歪な音になっていくそれは、



大人の

ー男性の声だ。

しかし父は背後で持ってきた手土産を渡しながら、祖母と談笑している。
すっかり日の落ちた暗闇の中、田んぼの中から何か黒い影がむくむくと起き上がって形をなしていくー

それを全て目にする前に縁側の窓を閉め、リビングの簾を下ろした。




「そういう時はね、“なーんにもいないいない”って心の中で唱えるんだ」

村で仲良くなったお兄さんは、凛々しい目元を優しげに緩めてそう言った。

俺が1人森で遊んでいるときに、『子ども1人じゃ危ないから』と手を引き森の外まで連れ出してくれた。
それでも俺が連日森へ遊びに来るから、観念したお兄さんは秘密のお友達になってくれたのだ。

お兄さんは森に行けばいつもいて、いつ会いに行っても神社の神主さんが着るみたいな真っ白な着物姿をしている。
俺と会ってるのも秘密とかで、名前もなんにも教えてくれない。
けどいい人だってことは分かる。

東京のお兄さんと同じ年くらいの高校生はもっと怖いし偉そうな感じがするけど、お兄さんはそれが全然ないからだ。

俺に目線を合わせてしゃがみながら、汗で張り付く俺の前髪をそっと掻き分ける指先。
前髪だけじゃなく俺は全身汗だくだが、大してお兄さんは真ん中で分けられた前髪から覗く形のいい額に汗すら滲んでいない。
お兄さんの短く清潔感のある黒髪の、横に撫でつけてある一房がこめかみにハラリと落ちる。
その髪を耳にかける何気ない仕草が綺麗で、ドキリとした。

「りょう君が“見えてる”って分かる反応をすると、向こうは“かまってもらえる”って勘違いしちゃうからね。

ーそうして線引きを曖昧にしちゃうと、生きてる世界と死んでる世界も曖昧になってしまう」

だからああやって正しい世界に帰ってもらわないといけない。
お兄さんは眼下に見えるダム湖に流される灯籠を指差して、何かを思い出すような遠い目をした。

「ぼくも、しんじゃったら、ああなっちゃうの?」

「大丈夫。ほとんどの人はちゃんと死んだら行くべき場所へ行けるようにできてるんだ」

だからりょう君は大丈夫ー

その後俺は高熱を出し寝込むことになる。
体が弱くて寝込みがちではあったのだが、その時は3日ほど魘され続けー

俺の体調が戻るのと入れ替わるように、祖母が亡くなった。
盆の暮を告げるように、虫の声が変わり始めた頃だった。

俺が夏休みに祖母の家に帰省した、最後の年だった。