あの夏の日、先輩は

白い蓮が小さな子どもの手だと認識したときには、
手首を引っ張られる感覚、浮遊感、視界が逆さまになりー


ドボンっ

引きずり込まれた水の中は冷たく淀み、先程まで夏の名残に晒されていた体の熱をあっという間に奪っていく。

水面を覆う蓮の葉で遮られ差し込む光も少なく薄暗いが、泥の底から幾つも伸びてくる白い子供の手はハッキリと見えた。

厳密には泥に埋もれるように大岩があるー
大岩の裂け目から幾つも白い小さな手が伸びているのだ。

大岩には引っ掻いたような傷が幾重にもついていた。
あの傷は…?

手首に絡みついていた白い手が首を絞めてきたことにより、現実に引き戻される。
さらに沼の底から伸びてきた白い複数の手が、腕や足に絡みつく。

何とか藻掻き白い手に噛み付いたり、つねったりと抵抗を試みる。

反撃された白い手はスパパパァンッッ!と、水圧など存在しない速さの往復ビンタを俺にかましてきた。

いっっった…

あまりの衝撃にゴボっ、と残りの息を吐きだしてしまう。

ここで終わってしまうのか俺…

先輩は今1人なのに、となんとか地上へ戻るため小さな白い手を振りほどこうと足掻いていると、

ドボンっ

水中が揺れる。

隣を見ると先輩が飛び込んできていた。

そのまま俺に近づくと、口を合わせて息を吹き込んできた。





今、俺は、先輩と、


口と、口が、合わさっている。

つまり…??



先輩からのキス(酸素供給)により足りなかった呼吸が戻ってくると、ぼやけていた視界がクリアになる。

微笑む先輩は弓に矢を番えていた。



矢尻は沼の底、大岩に向いている。


ヒュゥッ…

矢が水中の淀みを切り裂いていく。

瞬間、息ができるようになった。

先輩が放った矢の起動は、寸分違わず大岩の、白い手が蠢いている亀裂へと吸い込まれていく。

矢が吸い込まれると同時、辺りが光に包まれる。





ーまた水害だよ。大雨で隣の田んぼも流されて駄目になったと。


ーやはり“水神様”にお供えをしなきゃあならん



知らない複数人の声がしたと思うと、急に開けた視界の先に、母親と思しき女性に手を引かれる1〜2歳の子供の姿。
母親も子供も着物に下駄姿。郷土資料館などで見るような古い時代を感じる見た目をしている。
2人が歩いているのは俺達がさっきまでいた、蓮と彼岸花のあの場所だ。


ー必ず迎えにくるからね


蓮と彼岸花の丘も抜けたさらに先、洞窟の中に子供を1人残し、大岩で出口を塞ぐ母親。



ー7つまでは神様の子。神様のもとに返すだけじゃ。


泣きながら洞窟をあとにする母親を慰める男。




…ガリガリガリ、ガリガリガリ


おっかぁーあけてー

おっかぁー


子どもは唯一知っている言葉を必死に紡ぐ。


やがて子どもが息絶えた頃、子どもがもがき苦しんだ引っかき傷まみれの大岩が開かれる。


布で丁寧に巻かれた子どもの遺体は、蓮の沼地へ沈められた。
水害を失くすための人身御供と…口減らしとして。


やがて水害で立ち行かなくなった人々はその地を離れる前に、忌まわしい記憶が刻みつけられた大岩を、
『人身御供に捧げられた子どもたちの供養のため』
として蓮の沼地へ放り込んだ。






「さっきの感じだと、供養じゃなくここに捨て置かれただけだったんだね。

望まぬ形で神様にされた子どもたちは、あの大岩に閉じ込められて、長い年月をかけてああして歪な何かになっていった…」



あれは大岩に閉じ込められていた子どもたちの記憶だったんだろう。

気がつけば俺は先輩とずぶ濡れで、元の学校へ向かう小道へ戻っていた。


「子どもたちが必死に大岩から出ようとして、亀裂が生じてた。

出ようにも出られず、助けを求めて」


「…じゃあ、もうあの子達は自由になれたんですか?」


「…うん、そうだよ。

ちゃんと供養されてないとわかっていたら、最初に呼ばれたあの頃に助けてあげられたんだけど…」


先輩が俺の頬に手を添える。

「昔もりょう君は、今の話を聞いてあの子達のために泣いてくれたんだ」


今みたいに、と呟く先輩に俺は不思議な気持ちになる。

俺の目から涙は流れていないし、頬を濡らしていない。
表情も幼い頃のように悲しみで歪むことはない。

普通の人に視えないものが視える自分が、感情のままに表現し続けていたら枯渇してしまう。
一種の自己防衛だ。


ただ昔、俺と先輩にあの蓮と彼岸花の景色を見せてくれた子どもたちが、誰にも気づかれずにどれほどの間ああしていたのだろうかー


そう思うと、先程の冷たい水の中にいるような気持ちになるだけだ。


りょう君は、優しいね。


俺の両手を取って、手の甲にー
まるで懺悔するように額を合わせる先輩。


ふ、と小さく漏れた泣き声は、俺と先輩どちらの声だったのだろう。