しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています

私の元に、再び豪奢な招待状が届いた。
差出人は「翠蓮」。あの紅玉様と並び称される、高位の側室からだ。

「……またか」

私は溜め息をつき、その手紙を机の隅へ追いやった。

「とりあえず、このご遺体の防腐処理が終わってから――」
「ダメよ柚葉!正気!?」

血相を変えた小鈴が、私の腕をガシッと掴んでくる。

「前回の紅玉様の時はなんとかなったけど、翠蓮様を待たせるなんて自殺行為よ!」
「そんなに怖いの?」
「逆よ!あの方は『後宮の良心』とか『歩く聖母』って呼ばれてるの。だからこそ、あの方に恥をかかせたら、周囲の信者が黙ってないわよ!」

なるほど。一番敵に回してはいけないタイプか。

「……分かった。行く」

私はしぶしぶ筆を置き、身支度を始めた。

(生きている人間は、なぜこうも約束事にうるさいのか)

彼らは「プライド」のために時間を守れと騒ぐ。
私のお客様(死体)は待たせても文句こそ言わないが、腐敗という現実が待ってくれないというのに。
優先順位がおかしいと毒づきながら、私は愛する職場を後にした。



案内されたのは、「翠蓮宮」と呼ばれる離宮だった。
紅玉様の派手な宮殿とは対照的に、水路が引かれ、蓮の花が咲く静謐で趣味の良い場所だ。

クン、と鼻を鳴らす。
ほんのりと、上品なお香の匂いが漂っていた。

(……悪くない)

部屋に通されると、そこには一人の美女が待っていた。
年齢は紅玉様と同じくらいだろうか。けれど、纏っている空気がまるで違う。

「ようこそ、柚葉さん。急にお呼び立てしてごめんなさいね」

翠蓮様は微笑みを絶やさず、私に席を勧めた。
出されたのは、私の月給数ヶ月分はしそうな最高級の茶だ。

「紅玉淑妃がご迷惑をおかけしたそうで、申し訳ないわ。あの方は少し、情熱的すぎるきらいがあるから」

(なぜこの人が謝る?保護者か?)

まるで「手のかかる妹を持つ姉」のような口ぶりだ。
紅玉様が一方的にライバル視しているのか、それともこの人が紅玉様を下に見ているのか。人間関係の機微に疎い私には判断がつかない。
だが、とりあえず敵意はなさそうだ。

「困ってはいません。……まあ、元気な方だなとは」
「ふふ、そうなのよ。悪気はないのだけど」

翠蓮様は鈴を転がすように笑った。
毒気がない。今のところは。



一通り世間話をした後。
翠蓮様は少し声を潜め、扇子で口元を隠した。その頬が、ほんのりと朱に染まる。

「それで……その、陛下との『夜』はどうなの?」
「はい?」
「やはり、その……激しいのかしら?」

上目遣いで問われ、私は昨晩の出来事を脳内で再生した。
拘束力(ハグ)の強さ。重量感。そして逃げ場のない密着度。

「ええ、それはもう」

私は即答した。

「毎晩、私の体力が尽きるまで離してくれません」
「……!」

翠蓮様が息を呑む音が聞こえた。
だが、事実は事実だ。私は淡々と続ける。

「一度捕まったら、朝まで身動きひとつ取れないほどで。……本当に、重労働です」
「ま、毎晩朝まで!?体力が尽きるほど……!」

翠蓮様は目を丸くし、扇子を持つ手が小刻みに震えている。
なぜそんなに驚くのだろう。相手はあの屈強な皇帝だ。それくらい当然ではないか。

「陛下は……その、お元気なのね」
「はい。あんなにお元気なのに、まだ足りないとおっしゃるんです」

毎晩毎晩、飽きもせずに抱き着いてくる。おかげでこちらの身体はバキバキだ。

「私の身体がいつまでもつか……正直、不安です」

(あんなに健康なら一人で寝てほしい)

私の切実な愚痴に、翠蓮様は顔を真っ赤にして俯いてしまった。

「そ、そう……。寵愛が深いのね……」

なんだか話が噛み合っていない気もするが、まあいい。
嘘は言っていない。



「これからお茶会があるの。引き止めてごめんなさいね」

しばらくして、翠蓮様はあくまで優雅に私を解放してくれた。
紅玉様のように怒鳴ることも、物を投げることもない。やはり「歩く聖母」の噂は本当らしい。

「では、失礼いたします」

私は深く一礼し、足早に部屋を出た。

(意外と早く終わった。これなら仕事に戻れる)

待っていてくれる「お客様(遺体)」の元へ。
私は足取り軽く、廊下を去っていった。



静寂が戻った部屋で。
残された翠蓮は、扇子をパチンと閉じた。

「……」

先ほどまでの柔らかな笑みが、ふっと消える。

「……紅玉が焦るわけだわ」

彼女は、柚葉が去っていった扉を冷ややかに見つめた。

「毎晩、朝まで?あの『氷の皇帝』を相手に、体力が尽きるまで?」
「……あんな『化け物』が相手だなんて」

翠蓮の誤解は、訂正されることなく深まっていく。