第6話 睡眠負債と静寂の理由
「……危ない」
私は手元の面相筆を止め、ほっと息を吐いた。
目の前に横たわるご遺体の眉毛を、あやうく『八の字の困り眉』にしてしまうところだった。威厳ある将軍の最期の顔が、情けない表情で後世に残るところだ。
「柚葉、ちょっと休んだら? 目の下のクマ、死人みたいよ」
隣で防腐処理をしている小鈴が、呆れ顔で覗き込んでくる。
「職業柄、職場に馴染んでていいでしょ」
「よくないわよ! 生きた人間が死体に馴染んでどうするの!」
小鈴の甲高いツッコミが、、ぼんやりとした頭に響く。
私の猛烈な眠気と疲労の原因は明白だった。
昨晩も、そしてその前の晩も。私は「人間抱き枕」として皇帝の寝所に拘束されていたからだ。
紫苑本人は数年ぶりの安眠を満喫し、すこぶる快調らしい。
だが、抱き潰される私にとっては地獄だ。
重い。熱い。そして、拘束力が万力並みに痛い。
(あっちは極上の『眠り薬』を手に入れたつもりだろうけど、こっちへの配慮がゼロすぎる……)
心の中で毒づきながら、私は喉の渇きを潤そうと小瓶に手を伸ばした。
「あ、それお茶じゃない! 防腐液!」
「……あ」
口をつける寸前で、小鈴が凄い形相で小瓶をひったくった。
どうやら、私の脳は本気で限界を迎えているらしい。
〇
そして夜。定例となった「強制連行」により、私は紫苑の寝室へと運ばれた。
豪華な天蓋付きのベッドに腰掛けていた紫苑は、私を見るなり、待ちきれないといった様子で手を伸ばしてきた。大型犬が飼い主の帰宅を喜んでいるような、元気いっぱいのオーラが漂っている。
「……遅い」
文句を言いながらも、その声はどこか弾んでいる。彼は私の手首を掴み、そのまま寝台へ引きずり込もうとした。
「お待ちください、陛下」
私は寝台に倒れ込む前に、足を踏ん張って抵抗した。
いい加減、溜まっていた不満を口にしなければ、私が過労で死化粧をされる側になってしまう。
「私は化粧師であって、寝具ではありません」
紫苑はきょとんとして、動きを止めた。
「なぜ、私なのですか?」
私は溜まっていた不満をぶつける。
「抱きしめて眠るのなら、他にもっと柔らかくて、良い匂いのする側室様が山ほどいらっしゃるでしょう」
純粋な疑問だ。
そして、「頼むから一人で寝かせてくれ」という切実な願いだった。
私の問いかけに、紫苑は微かに息を呑んだ。
彼を見下ろす形になった私には、その表情の変化がよく見えた。
冷徹な「暴君」の仮面が剥がれ落ちる。
そこにあったのは、何かにひどく怯え、縋るような子供の顔だった。
グッ。
紫苑は私の手首を引くと、ゆっくりと自分の耳元へ押し当てた。
「……うるさいんだ」
ぽつり、と。絞り出すような声だった。
「お前以外は、全員。……音が、止まないんだ」
「音、ですか?」
「目を閉じても、呪詛の声が響く。肉が腐る音がする」
紫苑の紅い瞳が、すがるように私を見つめ上げてくる。
「誰が近づいても、悪臭とノイズで狂いそうになる。……だが」
ずっしりとした体温が、私に寄りかかってきた。
「お前がいる時だけは、世界が静かになる。嘘の臭いもしない」
「……」
「お前がいないと、俺は眠れないんだ」
他人が肉塊に見える呪いの地獄など、私には想像もつかない。
けれど、目の前の最強の皇帝が、ただの『怯える子供』に見えたことは理解できた。
(……ああ、だからあんなに必死に抱き着いてくるのか)
雷の音に怯えて震える大型犬。
そう考えると、彼がひどく無防備な存在に思えてくる。
「だから、行くな」
紫苑はボソッとそれだけ言うと、私を抱きすくめ、強引に布団の中へ引きずり込んだ。
そして、数秒もしないうちに、規則正しい寝息を立て始めた。相変わらずの寝付きの良さである。
私は彼の下敷きになりながら、至近距離でその寝顔を見つめた。
起きている時はあんなに傲慢なのに、眠っている時は本当に無害だ。
「……うるさい、ですか」
ふうっ。
私は小さく息を吐いて、身体の力を抜いた。
抵抗するのは諦めた。怯えている犬を蹴り飛ばすほど、私は冷酷ではないつもりだ。
(まあ、静かなのは良いことです。死体も、この方も)
私は窮屈な姿勢のまま、片腕だけを動かし、紫苑の広い背中に回した。
トントン。
怯える子供をあやすように、一度だけ優しく叩いてやる。
「……おやすみなさいませ。重いけど」
相変わらず、重くて熱い拘束だ。
けれど不思議と今日は、それほど不快ではなかった。
紫苑の規則正しい寝息と、夜の静寂。
それに包まれて、私自身も泥のような眠りに落ちていった。


