第5話高慢と偏見、そして灰色の赤薔薇
朝陽が差し込む皇帝の寝所。
私はいつものように、紫苑の腕の中で目を覚ました。
彼は満足げに(昨晩もしっかり安眠できたらしい)身支度を整え、意気揚々と朝議へ向かっていった。
取り残された私は、昨晩の「すっぽかし」を思い出し、ずしりと重い気分で自室へ戻る廊下を歩いていた。
(怒ってるだろうなぁ……。謝って許してくれるタイプには見えなかったし)
相手は後宮の筆頭側室だ。扇子で叩かれるくらいは覚悟しておかねばならない。
憂鬱な溜息をつきながら角を曲がった、その時だった。
ザッ、ザッ、ザッ。
前方から、軍隊の行進のような、あるいは処刑執行に向かうような、威圧的な足音が響いてきた。
廊下を行き交っていた女官たちが、蜘蛛の子を散らすように壁際へへばりつき、海でも割れたかのように道が開く。
その向こうから、燃えるような真紅のドレスを纏った美女が、怒涛の勢いで歩いてきた。
縦ロールの赤髪を揺らし、吊り上がった黄金の瞳。
間違いなく、筆頭側室・紅玉(コウギョク)様である。
「――お待ちなさい!」
紅玉様は私を見つけるなり、バチッ! と音を立てて扇子を開き、行く手を阻んだ。
「どこの泥棒猫かと思えば……なんて貧相な! よくもまあ、そんな枯れ木のような身体で陛下の視界に入ろうと思えましたわね!」
(うわ、来た。逃げ場なし)
私は心の中で白旗を上げつつ、とりあえず職務上の礼(最敬礼)をした。
「おはようございます、紅玉様。昨夜は約束を守れず、申し訳ありませんでした」
「ふん! 挨拶だけはできるようね」
紅玉様は鼻を鳴らし、私を頭の先からつま先まで値踏みするように睨みつけた。
てっきり、「私を待たせるとは何事か」と嫉妬混じりの罵倒が飛んでくると思っていた。
だが、彼女の口から出た言葉は意外なものだった。
「約束を破るとはどういう了見!? 貴女、自分がどこの誰と床を共にしたか、分かっていて!?」
「え?」
「皇帝陛下の寵愛を受けるということは、貴女の振る舞い一つがすべて『陛下の品位』に関わるのよ! だらしない真似をして、あの方の顔に泥を塗るつもり!?」
紅玉様は激昂していたが、その言葉には一本、太い筋が通っていた。
彼女は私個人への嫉妬よりも、「皇帝のそばにいる人間が、礼儀知らずであってはならない」という義務感とプライドで怒っているのだ。
(……あれ? 思ったより、まともなことを言っている)
高飛車で嫌味な人だと思っていたが、根底にあるのは貴族としての矜持。
私は認識を少し改めた。この人は、ただのヒステリックなお嬢様ではない。
紅玉様はなおも捲し立てようとしたが、ふと言葉に詰まり、眉間を押さえた。
「……っ、ともかく、貴女のような……」
額には脂汗が滲み、呼吸が荒い。
厚化粧で隠しているが、首筋が病的に細く、ファンデーションの下から土気色が透けて見えている。
「……あの、顔色が優れませんが」
「黙りなさい! 私の肌は完璧よ!」
紅玉様は叫んだが、その拍子にふわりと甘い匂いが漂った。香水ではない。呼気に混じる、果物が腐ったような独特の甘さ。
(この匂い、どこかで……)
私は記憶の引き出しを開ける。
線香や防腐剤の類ではない。もっと内臓の奥から湧き上がるような、生々しい腐敗臭。
以前、担当したご遺体と同じ――。
「――っ、何をジロジロ見ているの!」
バチッ。
派手な音が鳴り、私は思考の海から引きずり戻された。
目の前で、紅玉様が扇子で口元を隠している。吊り上がった黄金の瞳。けれど、そこにあるのは怒りというより、焦りだ。
「不愉快よ。その、値踏みするような目つき……!」
「いえ、私はただ……」
「お黙りなさい! ……どうやら根本的に矯正しないといけないようね、次の呼び出しをすっぽかすならただじゃおかないわ、覚悟なさい!」
紅玉様は私の言葉を遮ると、逃げるように踵(きびす)を返した。
「……行くわよ!」
カツ、カツ、カツ。
ヒールの音が遠ざかる。背筋はピンと伸びているが、その歩幅は明らかに速すぎる。
あっという間に、真紅のドレスは廊下の向こうへ消えてしまった。
「……」
あとに残されたのは、私と、わずかに漂う甘ったるい残り香だけ。
私はポツンと立ち尽くし、小首を傾げた。
「……やっぱり、顔色が悪い(物理)」
あの肌のくすみと痩せ方は、ただの厚化粧のせいではない。
生きている人間にしては、あまりに生気がないのだ。
(まあ、本人があそこまで拒絶するなら仕方ないか)
私は一つ溜息をつくと、思考を切り替えた。
生きた人間の事情より、今は目の前の仕事だ。あのお客様(遺体)の皮膚はデリケートなので、早く処置しないと乾燥してしまう。
私は足取り軽く、愛する職場(遺体安置所)へと戻っていった。


