しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています

遺体安置所の裏にある控え室に、場違いな薔薇の香りが漂っていた。
私の目の前にあるのは、金箔が散りばめられた最高級の和紙。そこには達筆な文字でこう書かれている。

『本日の午後、紅薔薇宮にて茶会を催します。必ず参加するように』

差出人は「筆頭側室・紅玉」。
要するに、「いびってやるから顔を出せ」という呼び出し状だ。

私はチラリと見ただけで、それを机の端に追いやった。

「無理ですね。予約が詰まっています」
「はあああ!?」

隣で覗き込んでいた小鈴が、素っ頓狂な悲鳴を上げた。

「あんたバカなの!?相手は『後宮の女帝』よ!?皇帝陛下の次くらいに偉いお方なのよ!?」
「でも、このお客様たちは待ってくれません。腐敗が進んでしまいます」

私は施術台に並ぶ遺体たちに視線を向けた。
死後の処置は時間との勝負だ。生きている人間の機嫌取りなど、明日でもできる。
私は筆を取り、サラサラと返事を書いた。

『拝啓、側室様。日中は業務多忙につき伺えません。夜、仕事が片付き次第ご挨拶に伺います。柚葉』

「……書いちゃった。送っちゃった」

小鈴は顔を覆い、「殺される……私たちが殺される……」とブツブツ呟きながら頭を抱えた。



この紅帝国では、「魂は美しい器(肉体)に宿り、美しいまま天へ還る」と信じられている。
そのため、損壊した遺体をそのまま葬ることは、魂が永遠に迷うことと同義であり、遺族にとって最大の恥辱であり悲劇とされる。
私の仕事、死化粧師は、ただ遺体を綺麗にするだけではない。遺族の心と、故人の魂を救済する聖職なのだ。

本日の依頼は、事故で顔の半分を失った若い兵士や、流行り病で肌が変色してしまった老婆など、中々やりがいのある人たちだった。

「……ここをこうして」

私は特殊な蝋を練り、欠損した皮膚を形成していく。
顔料を調合し、生前の肌色を再現する。筆先に全神経を集中させ、彼らが一番輝いていた頃の表情を取り戻す。

数刻後。
変わり果てた姿だった兵士は、まるで穏やかに眠っているかのような顔を取り戻した。

「ああ……なんと、生きているようだ……」

面会に来た遺族の老夫婦が、涙を流して息子の頬に触れる。

「ありがとうございます、柚葉様。これで、あの子も迷わずに逝けます」

泣いて感謝する遺族に対し、私は静かに頭を下げた。

「良い旅立ちでありますように」

生きている人間の社交辞令やマナー講座など、私にはどうでもいい。
けれど、この方々の「最期の顔」を作れるのは、今しかない。
この仕事こそが私の誇りであり、私がここにいる理由だ。



日が暮れるまで集中して作業し、ようやく全てのお客様を見送った頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
心地よい疲労感と共に、私は道具を片付けた。

「さて、約束通り側室様にご挨拶へ行かねば」

少し遅れてしまったが、夜ならまだ間に合うだろう。
そう思って立ち上がろうとした、その時だった。

ドスッ。

背後から、重たい衝撃と熱量が襲い掛かってきた。

「……遅い」

耳元で、低く掠れた声が響く。
驚いて振り返るまでもない。この体温の高さと、まとわりつくような甘え方は一人しかいない。

「へ、陛下?なぜここに」
「お前が来ないから迎えに来た。……限界だ、抱かせろ」

見れば、紫苑の紅い瞳は少し焦点が定まっておらず、顔色が優れない。
どうやら禁断症状が出ているらしい。
紫苑は私の首筋に顔を埋め、スーハースーハーと深く匂いを嗅ぎ始めた。

「あ、あの、これから紅玉様のところへ挨拶に行くと約束しておりまして……」
「は?紅玉?……知らん」

紫苑は不快そうに顔をしかめた。

「どうでもいい。それより俺の安眠の方が国家の一大事だ」
「ですが、約束を破ると後々面倒なことに……」
「うるさい。行くぞ」

紫苑は私の話など聞かず、長い腕で私をひょいと持ち上げた。
お姫様抱っこではなく、米俵のように肩に担がれる。

「あーれー」

私は抵抗する気力もなく、棒読みで声を上げた。
視界が逆さまになり、遠ざかっていく仕事場を見つめながら、私は心の中で紅玉様に謝罪した。



夜の帳が下りた皇帝の寝所。
広いベッドの上で、私は身動きが取れなくなっていた。

紫苑は私を抱き枕にして、すでに深い眠りに落ちている。
私の胴体に長い腕が巻き付き、足には重たい脚が絡みついている。完全にタコのような拘束だ。

「……」

窓の外を見る。月が高い。
どう考えても、約束の時間(夜)は過ぎているし、ここから抜け出すのは物理的に不可能だ。

(……完全にすっぽかしちゃったわね)

普通なら「不敬罪で処刑されるかも」と震える場面だ。
けれど、紫苑の規則正しい寝息を聞いていると、不思議と焦燥感は湧いてこなかった。
仕事の疲れと、人肌の温かさが心地よい。

「まあ、いっか。……明日の朝、怒られたら考えよう」

私は思考を放棄した。
どうせ逃げられないなら、寝てしまった方が得だ。

「陛下、重いです。……おやすみなさい」

私は小さく呟くと、紫苑の腕の中で目を閉じた。
数秒後には、私もまた深い眠りの底へと落ちていった。

――一方、その頃。
後宮の最奥、紅薔薇宮。

豪華な料理と茶を用意して待っていた筆頭側室・紅玉は、一向に現れない柚葉に、握りしめていた扇子をメキメキと軋ませていた。

「……あの小娘、よくもこの私に恥をかかせてくれたわね……!」

バキッ!

見事な音と共に、扇子がへし折れる。
周囲の侍女たちが「ヒッ」と息を呑む中、紅玉の背後に般若の幻影が揺らめいていた。