しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています


 第3話生存確認とすれ違う乙女心

  チュン、チュン……。
 小鳥のさえずりが鼓膜を叩く。カーテンの隙間から差し込む朝陽が、閉じた瞼の裏を容赦なく刺してくる。

(……重い)

 それが、私のこの世への帰還(起床)と共に感じた、第一の感想だった。
 全身が、万力のような力で締め上げられている。身動きが取れない。
 見上げれば、そこには至近距離に、この国の皇帝・紫苑の顔があった。

「……」

 ふと、長い睫毛が震え、その紅い瞳がゆっくりと開かれる。
 いつもなら悪夢で叫んで飛び起きるか、あるいは亡霊の囁きに苛まれて充血した目で朝を迎えるのが常だと聞いていたが――今の彼に、そんな悲壮感は微塵もない。
 彼はパチクリと数回瞬きをし、自身の掌を握ったり開いたりしている。まるで、数年ぶりに得た「熟睡」という奇跡に呆然としているかのようだ。

 そして、彼は腕の中にいる「抱き枕(私)」の存在に気づくと、その顔を満足げにほころばせた。

「……おはようございます」
「ああ、おはよう。……こんなに朝日が眩しくないのは初めてだ」

 本当に清々しい笑顔だ。不眠症の暴君とは思えない。
 だが、安眠を提供した対価として、私の顔面は大惨事になっていた。

「それは重畳です。……陛下、よだれ」
「ん?」

 私は不機嫌さを隠そうともせず、自分の顔を指さした。

「私の顔、ドロドロじゃないですか。芸術(メイク)が台無しです」

 昨晩、紫苑が私の顔に頬ずりをしたり、首筋に顔を埋めて寝たせいで、完璧だった死に化粧は無残に崩れていた。
 白粉は禿げ、紅は伸び、今の私はまさしく「死に損ないの怨霊」のような形相になっているはずだ。ついでに、皇帝の最高級シルクの寝間着にも、べっとりと白粉が付着している。

 だが、紫苑は私の抗議を聞き流し、あろうことか楽しそうに喉を鳴らして笑った。

「くく、気にするな。また塗ればいい」

 紫苑の親指が、私の頬に残った白粉を無造作に拭う。その手つきは、恐ろしいほど優しい。

「行くぞ、朝餉だ」
「え、私は帰って仕事を……」
「許さん。俺の視界に入る場所にいろ」

 紫苑は私の腰を抱き寄せ、有無を言わせぬ力強さで立ち上がらせた。
 ……どうやら、大型犬が懐いてしまったらしい。私は諦めの溜息をついた。



 重厚な扉が開かれる。
 紫苑は私を抱きかかえるようにして(物理的に離れようとしないので)、廊下へと足を踏み出した。

「陛下、お目覚め……ひっ!?」

 扉の外に待機していた護衛や宦官たちが、一斉に息を呑んだ。
 彼らの手には、立派な白木の「棺桶」と、丈夫そうな麻の「死体袋」が握られていた。
 モップやバケツを持った清掃係まで控えている。完全に「死体処理」の準備万端だった。

「えっ!?い、生き……!?」
「五体満足……!?」
「しかも、陛下が笑っておられる……!?」

 全員が幽霊を見たかのように腰を抜かし、後ずさる。
 紫苑はその反応を気にも留めず、不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「おい、その棺桶は片づけろ。目障りだ」
「は、はいっ!直ちに!」
「それと、朝食を二人分用意せよ。……おい、好物はなんだ?」

 突然話を振られ、私はとっさに答えた。

「……白米と、お漬物があれば」
「だそうだ。最高級の米を持ってこい」

 周囲の空気があんぐりと固まる。
 あの「鮮血の皇帝」が、女の好物を聞いて、朝食のオーダーをした。
 それは天変地異の前触れに等しかった。



 その後、紫苑はしぶしぶといった様子で朝議(政治の会議)へと向かった。「お前も来い」と言われたが、さすがに「死に化粧の女官を玉座の隣に置くわけにはいかない」と側近たちが必死に止め、私は解放された。

 私が戻ったのは、後宮の最奥、遺体安置所の裏にある薄暗い控え室だ。

「……た、退散! 悪霊退散ッ!!」

 部屋に入った瞬間、バサァッ!と白い粉を浴びせられた。

「ぺっ。……何するのよ、小鈴(コスズ)」

 私が顔についた塩を払うと、部屋の隅で震えていた小柄な少女――親友であり同僚の小鈴が、リスのように目を丸くした。

「ゆっ、柚葉!? あんた足ある!?」
「失礼ね。ちゃんと生きてるわよ」
「だって!あの『鮮血の皇帝』の寝所に連れていかれたのよ!? 私、あんたの骨を拾うために、一晩かけて骨壺磨いて待ってたのに!」

 小鈴は泣きそうな顔で駆け寄ってくると、私の身体をペタペタと触りだした。

「骨壺は新品を使ってって言ったでしょ」
「そこじゃない!! ……で、どうだったのよ? 五体満足で帰ってくるなんて奇跡じゃない」

 小鈴は周囲をキョロキョロと見回してから、声を潜めて私の耳元に顔を寄せた。

「まさか、その……お手付き、になっちゃった?」

 興味津々と心配が入り混じった瞳。
 私は昨晩の、寝苦しく重苦しい数時間を思い出し、げっそりと頷いた。

「うん、すごかったわ」
「ひえええ! く、詳しく!」
「一晩中、全然離してくれなくて。重かったし、熱かったし……もう二度と御免だわ」

 紫苑の体温はやたらと高く、拘束力は万力のように強かった。おかげでこちらは全身筋肉痛だ。

 だが、小鈴はなぜか顔を真っ赤にして、口元を押さえた。

「(あ、あんた意外とやるわね……!まさかあの暴君をテクニックで籠絡するなんて……!)」
「ん?何?」
「て、テクニック? 何か特別なことしたの?」
「テクニック? ……ああ、技術(テク)なら褒められたけど」

 紫苑は私の死に化粧を「美しい」と絶賛していた。

「(やっぱり夜の技術って大事なのね……!)」

 小鈴は妙に納得したように何度も頷き、尊敬の眼差しを向けてきた。
 なんだか話が噛み合っていない気がするが、まあいいか。私は伸びをして、あくびを噛み殺した。



 そんな呑気な朝を迎えている私たちが、知る由もなかったこと。
 後宮の豪華な一室で、不穏な影が動き出していた。

「……陛下が生きて返した女がいる、ですって?」

 扇子をパチンと閉じる音が響く。
 豪奢なドレスを纏った美女――筆頭側室の紅玉(コウギョク)は、切れ長の瞳を険しく細めた。

「どこの馬の骨とも知れない、死体係ごときが……。わたくしを差し置いて陛下の寵愛を受けるなど、身の程知らずもいいところですわ」

 紅玉は侍女に視線を投げ、冷ややかに命じた。

「その女を呼びなさい。『紅薔薇宮』で、わたくし自ら顔を見て差し上げます」

 その日の午後。
 私の元に、薔薇の香りがする豪奢な呼び出し状が届くことになる。