夜の帳が下りる頃。皇帝の寝所は、広大で豪華絢爛な鳥籠と化していた。
皇帝・紫苑は寝台の縁に腰掛け、苛立ちを隠そうともせずに貧乏ゆすりを繰り返していた。
「……遅い」
ガリ、と爪を噛む。一人になった途端、世界はまた反転していた。部屋の隅、カーテンの影、天井の梁。至る所から、どす黒い靄が這い出し、人の形を成していく。『人殺し』『呪われろ』『お前の母親も、お前を愛してはいなかった』耳元で囁かれる怨嗟の声。鼓膜を突き破るようなノイズ。腐った肉の臭いが鼻腔にこびりつき、吐き気を催させる。頭が割れるように痛い。
(なぜ来ない。まさか逃げたか?)
あの安置所で感じた「静寂」を思い出す。腐臭も、ノイズも消え失せた、奇跡のような無音の空間。
(いや、近衛がついている。逃亡は不可能だ。……ならば、自害か?)
脳裏に、あの女――柚葉の瞳が過ぎる。死体を見ても、血塗れの皇帝(おれ)を見ても、眉一つ動かさなかった墨色の瞳。あれは「死」を受け入れている者の目だ。
(まさか、俺に斬られる前に舌を噛んだか?せっかく見つけた『静寂』だったのに!)
絶望と焦燥が殺意へと変わる。限界だ。迎えに行くか、それともこの部屋の人間を全員斬り殺して気を紛らわせるか――。紫苑が剣に手を掛けた、その時だった。
重厚な扉が、ゆっくりと開いた。
紫苑は弾かれたように顔を上げた。現れた人影に、息を呑む。
そこに立っていたのは、幽霊のように蒼白でありながら神々しいほどに美しい女だった。身に纏っているのは、死装束を思わせる純白の簡素な衣。濡羽色の髪は丁寧に結い上げられ、顔には完璧な化粧が施されている。蝋燭の揺らめく灯りに照らされ、彼女の肌は陶器のように滑らかで、生身の人間とは思えない冷ややかな美しさを放っていた。だが。
「……なんだ、その格好は」
紫苑は眉をひそめた。彼女から漂ってくるのは、女の甘い香りではなく、線香と白粉の混じった、どこか厳かな「死の匂い」だったからだ。
「なぜそこまで塗りたくっている」
問いただす紫苑に対し、柚葉は最高傑作の仕事を終えた職人の顔で、淡々と答えた。
「死に化粧です」
「は?」
「陛下と寝所を共にした妃は皆様、無残なご遺体となって戻ってこられますから。顔は苦悶に歪み、肌は土気色。……職業柄、見るに耐えません」
柚葉は一歩進み出ると、スッと自身の細い首筋を差し出した。その仕草には、媚びも恐怖も一切ない。
「私は化粧師です。せめて自身の最期くらい、美しい顔のまま逝きたいのです。……さあ、どうぞ」
紫苑は呆然と彼女を見つめた。命乞いではない。誘惑でもない。ただ純粋に、「美しく終わりたい」という潔癖な意志。そこに「嘘」はなかった。紫苑の呪われた眼にも、彼女は腐った肉塊ではなく、凛とした一輪の花のように映っていた。
その瞬間。紫苑の視界にかかっていた靄が、完全に晴れ渡った。部屋の隅で蠢いていた亡霊たちも消え失せ、痛いほどの静寂が訪れる。
「…………く、ははは!」
突然、紫苑は狂ったように笑い出した。
ドサッ。
紫苑は糸が切れたように柚葉に倒れ掛かり、その小さな身体を強く抱きしめた。
「……ああ、いい匂いがする」
紫苑は柚葉の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「血や嘘の臭いがしない。……やっと、息ができる」
そのまま、紫苑の身体から殺気が霧散していく。周囲で控えていた護衛や宦官たちが、口をあんぐりと開けて呆然とする中、紫苑は柚葉を軽々と抱え上げた。
紫苑はそのままふらつく足取りで寝台へ向かうと、柚葉を抱き枕のように抱え込み、ドサリと倒れ込んだ。
「殺しはしない。お前は今日から俺の『眠り薬』だ。片時も離れるな」
言うが早いか、紫苑は子供のように目を閉じ、数秒もしないうちに安らかな寝息を立て始めた。長年の不眠から解放され、泥のような眠りに落ちたのだ。
〇
(……は?)
取り残されたというより、大型犬に抱き潰された形の私(柚葉)は、状況が飲み込めず数回瞬きをした。
目の前には、無防備に眠る皇帝の美しい寝顔がある。殺気もなければ、起きる気配もない。
「……えっ、あの、殺さないんですか?」
私は小声で問いかけたが、返事はなかった。規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
私はがっくりと肩を落とし、天井を仰いだ。
「せっかく綺麗に塗ったのに……」
私は陛下の腕の中で盛大に絶望した。
皇帝・紫苑は寝台の縁に腰掛け、苛立ちを隠そうともせずに貧乏ゆすりを繰り返していた。
「……遅い」
ガリ、と爪を噛む。一人になった途端、世界はまた反転していた。部屋の隅、カーテンの影、天井の梁。至る所から、どす黒い靄が這い出し、人の形を成していく。『人殺し』『呪われろ』『お前の母親も、お前を愛してはいなかった』耳元で囁かれる怨嗟の声。鼓膜を突き破るようなノイズ。腐った肉の臭いが鼻腔にこびりつき、吐き気を催させる。頭が割れるように痛い。
(なぜ来ない。まさか逃げたか?)
あの安置所で感じた「静寂」を思い出す。腐臭も、ノイズも消え失せた、奇跡のような無音の空間。
(いや、近衛がついている。逃亡は不可能だ。……ならば、自害か?)
脳裏に、あの女――柚葉の瞳が過ぎる。死体を見ても、血塗れの皇帝(おれ)を見ても、眉一つ動かさなかった墨色の瞳。あれは「死」を受け入れている者の目だ。
(まさか、俺に斬られる前に舌を噛んだか?せっかく見つけた『静寂』だったのに!)
絶望と焦燥が殺意へと変わる。限界だ。迎えに行くか、それともこの部屋の人間を全員斬り殺して気を紛らわせるか――。紫苑が剣に手を掛けた、その時だった。
重厚な扉が、ゆっくりと開いた。
紫苑は弾かれたように顔を上げた。現れた人影に、息を呑む。
そこに立っていたのは、幽霊のように蒼白でありながら神々しいほどに美しい女だった。身に纏っているのは、死装束を思わせる純白の簡素な衣。濡羽色の髪は丁寧に結い上げられ、顔には完璧な化粧が施されている。蝋燭の揺らめく灯りに照らされ、彼女の肌は陶器のように滑らかで、生身の人間とは思えない冷ややかな美しさを放っていた。だが。
「……なんだ、その格好は」
紫苑は眉をひそめた。彼女から漂ってくるのは、女の甘い香りではなく、線香と白粉の混じった、どこか厳かな「死の匂い」だったからだ。
「なぜそこまで塗りたくっている」
問いただす紫苑に対し、柚葉は最高傑作の仕事を終えた職人の顔で、淡々と答えた。
「死に化粧です」
「は?」
「陛下と寝所を共にした妃は皆様、無残なご遺体となって戻ってこられますから。顔は苦悶に歪み、肌は土気色。……職業柄、見るに耐えません」
柚葉は一歩進み出ると、スッと自身の細い首筋を差し出した。その仕草には、媚びも恐怖も一切ない。
「私は化粧師です。せめて自身の最期くらい、美しい顔のまま逝きたいのです。……さあ、どうぞ」
紫苑は呆然と彼女を見つめた。命乞いではない。誘惑でもない。ただ純粋に、「美しく終わりたい」という潔癖な意志。そこに「嘘」はなかった。紫苑の呪われた眼にも、彼女は腐った肉塊ではなく、凛とした一輪の花のように映っていた。
その瞬間。紫苑の視界にかかっていた靄が、完全に晴れ渡った。部屋の隅で蠢いていた亡霊たちも消え失せ、痛いほどの静寂が訪れる。
「…………く、ははは!」
突然、紫苑は狂ったように笑い出した。
ドサッ。
紫苑は糸が切れたように柚葉に倒れ掛かり、その小さな身体を強く抱きしめた。
「……ああ、いい匂いがする」
紫苑は柚葉の首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「血や嘘の臭いがしない。……やっと、息ができる」
そのまま、紫苑の身体から殺気が霧散していく。周囲で控えていた護衛や宦官たちが、口をあんぐりと開けて呆然とする中、紫苑は柚葉を軽々と抱え上げた。
紫苑はそのままふらつく足取りで寝台へ向かうと、柚葉を抱き枕のように抱え込み、ドサリと倒れ込んだ。
「殺しはしない。お前は今日から俺の『眠り薬』だ。片時も離れるな」
言うが早いか、紫苑は子供のように目を閉じ、数秒もしないうちに安らかな寝息を立て始めた。長年の不眠から解放され、泥のような眠りに落ちたのだ。
〇
(……は?)
取り残されたというより、大型犬に抱き潰された形の私(柚葉)は、状況が飲み込めず数回瞬きをした。
目の前には、無防備に眠る皇帝の美しい寝顔がある。殺気もなければ、起きる気配もない。
「……えっ、あの、殺さないんですか?」
私は小声で問いかけたが、返事はなかった。規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
私はがっくりと肩を落とし、天井を仰いだ。
「せっかく綺麗に塗ったのに……」
私は陛下の腕の中で盛大に絶望した。


