しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています


 第2話死に化粧の生贄
 皇帝の紅い瞳が、じっと私を見下ろしている。その視線に、私はある直感を抱いた。

(……ああ、次は私か)

 名を問うたのは、処刑リストに書き込むためだろう。皇帝の不興を買った側室がどうなるか、私はこの職場で嫌というほど見てきた。けれど、不思議と恐怖はなかった。「死」は私の仕事相手であり、隣人だ。それが少し早く自分に回ってきただけのこと。私は動じることなく、職務的に答えた。

「……柚葉(ユズハ)と申します」
「ユズハ」

 皇帝は私の名を口の中で転がすように繰り返した。斬り捨てられるかと思ったが、彼は何かを確認するように一度頷くと、どこか満足げに口元を緩めた。

「ユズハ。今夜、俺の寝所へ来い」

 その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。入り口で震えていた護衛や宦官たちが、一斉に私を見る。「ああ、終わった」「今夜の生贄はこの女か」という、あからさまな憐憫の眼差しだ。皇帝はそんな周囲の反応など意に介さず、背後に控えていた大柄な男――近衛隊長に顎をしゃくった。

「連れていけ。逃がすなよ」

 皇帝は踵を返し、血の跡を引きずって歩き出す。だが数歩進んだところで足を止め、肩越しに私を一瞥して、低く付け加えた。

「……それと、死なせるな」

 それだけ言い残し、皇帝は嵐のように去っていった。残された私は、手元の化粧道具を見つめ、小さく溜息をついた。死なせるな、というのは「俺が殺すまで死ぬな」という意味だろう。いずれにせよ、今夜が山場だ。私は覚悟を決め、商売道具の筆を握りしめた。

 ○

 夜の帳が下りる頃。皇帝の寝所は、広大で豪華絢爛な鳥籠と化していた。紫苑は寝台の縁に腰掛け、苛立ちを隠そうともせずに貧乏ゆすりを繰り返していた。

「……遅い」

 ガリ、と爪を噛む。一人になった途端、世界はまた反転していた。部屋の隅、カーテンの影、天井の梁。至る所から、どす黒い靄(もや)が這い出し、人の形を成していく。それらはかつて紫苑が斬り捨てた者たちの亡霊であり、あるいは紫苑を蝕む呪いが見せる幻覚だった。『人殺し』『呪われろ』『お前の母親も、お前を愛してはいなかった』耳元で囁かれる怨嗟の声。鼓膜を突き破るようなノイズ。腐った肉の臭いが鼻腔にこびりつき、吐き気を催させる。頭が割れるように痛い。

(なぜ来ない。まさか逃げたか?)

 あの安置所で感じた「静寂」を思い出す。腐臭も、ノイズも消え失せた、奇跡のような無音の空間。あれが幻だったとしたら、自分はもう二度と正気を保てないかもしれない。

(いや、近衛がついている。逃亡は不可能だ。……ならば、自害か?)

 脳裏に、あの女――柚葉の瞳が過ぎる。死体を見ても、血塗れの皇帝(おれ)を見ても、眉一つ動かさなかった墨色の瞳。あれは「死」を受け入れている者の目だ。

(まさか、俺に斬られる前に舌を噛んだか? せっかく見つけた『静寂』だったのに!)

 絶望と焦燥が殺意へと変わる。限界だ。迎えに行くか、それともこの部屋の人間を全員斬り殺して気を紛らわせるか――。紫苑が剣に手を掛けた、その時だった。

 重厚な扉が、ゆっくりと開いた。

 紫苑は弾かれたように顔を上げた。現れた人影に、息を呑む。

 そこに立っていたのは、幽霊のように蒼白で、けれど神々しいほどに美しい女だった。身に纏っているのは、死装束を思わせる純白の簡素な衣。濡羽色の髪は丁寧に結い上げられ、顔には完璧な化粧が施されている。蝋燭の揺らめく灯りに照らされ、彼女の肌は陶器のように滑らかで、生身の人間とは思えない冷ややかな美しさを放っていた。

「……なんだ、その格好は」

 紫苑は眉をひそめた。彼女から漂ってくるのは、女の甘い香りではなく、線香と白粉の混じった、どこか厳かな「死の匂い」だったからだ。

「なぜそこまで塗りたくっている」

 問いただす紫苑に対し、柚葉は最高傑作の仕事を終えた職人の顔で、淡々と答えた。

「死に化粧です」
「は?」
「陛下と寝所を共にした妃は皆様、無残なご遺体となって戻ってこられますから。顔は苦悶に歪み、肌は土気色。……職業柄、見るに耐えません」

 柚葉は一歩進み出ると、スッと自身の細い首筋を差し出した。その仕草には、媚びも恐怖も一切ない。

「私は化粧師です。せめて自身の最期くらい、美しい顔のまま逝きたいのです。……さあ、どうぞ」



 紫苑は呆然と彼女を見つめた。命乞いではない。誘惑でもない。ただ純粋に、「美しく終わりたい」という潔癖な意志。そこに「嘘」はなかった。紫苑の呪われた眼にも、彼女は腐った肉塊ではなく、凛とした一輪の花のように映っていた。

 その瞬間。紫苑の視界にかかっていた靄が、完全に晴れ渡った。部屋の隅で蠢いていた亡霊たちも消え失せ、痛いほどの静寂が訪れる。

「…………く、ははは!」

 突然、紫苑は狂ったように笑い出した。「情緒不安定な方ですね」と柚葉が眉をひそめる暇もない。

 ドサッ。

 紫苑は糸が切れたように柚葉に倒れ掛かり、その小さな身体を強く抱きしめた。

「……っ、陛下!?」
「……ああ、いい匂いがする」

 紫苑は柚葉の首筋――丹精込めて白粉が塗られた場所――に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。

「血や嘘の臭いがしない。……やっと、息ができる」

 そのまま、紫苑の身体から殺気が霧散していく。代わりに、ずっしりとした大人の男の体重が柚葉にかかった。周囲で控えていた護衛や宦官たちが、口をあんぐりと開けて呆然とする中、紫苑は柚葉を軽々と抱え上げた。

 紫苑はそのままふらつく足取りで寝台へ向かうと、柚葉を抱き枕のように抱え込み、ドサリと倒れ込んだ。

「殺しはしない。お前は今日から俺の『眠り薬』だ。片時も離れるな」

 言うが早いか、紫苑は子供のように目を閉じ、数秒もしないうちに安らかな寝息を立て始めた。長年の不眠から解放され、泥のような眠りに落ちたのだ。

 〇

(……は?)

 取り残された――というより、大型犬に抱き潰された形の私(柚葉)は、状況が飲み込めず数回瞬きをした。
 目の前には、無防備に眠る皇帝の美しい寝顔がある。殺気もなければ、起きる気配もない。

「……えっ、あの、殺さないんですか?」

 私は小声で問いかけたが、返事はなかった。規則正しい寝息が聞こえるだけだ。
 私はがっくりと肩を落とし、天井を仰いだ。

「せっかく綺麗に塗ったのに……」

 この白粉は、一度乾くと落とすのが大変なのだ。
 明日、こびりついた化粧を落とす手間のことを考え、私は皇帝の腕の中で深く絶望した。