しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています

「……歩くだけで関節が、軋む。肉が、千切れる」

 私は重たい身体を引きずりながら、薄暗い廊下を歩いていた。
 今朝も、皇帝・紫苑の万力のような拘束から這い出すのに一苦労だった。日に日にあの大型犬の抱擁(ホールド)が強くなっている気がする。
 とうとう骨だけでなく、全身が筋肉痛でバキバキだ。

(ずっと死体(しごと)に向き合いたい。死体は私を拘束しないし、肉を千切らない……)

 生きた人間に対する恨み言をぼやきながら、私はようやく愛する職場――遺体安置所の控え室へとたどり着いた。
 だが、そこには安らぎの空間ではなく、修羅場が待っていた。

「ゆ、柚葉ぁ……! どうしよう、終わった、私達もう終わりよ!」

 部屋に入った瞬間、小鈴が顔面蒼白で飛びついてきた。
 その目は涙目になり、小動物のようにブルブルと震えている。

「どうしたの? また防腐剤の調合でも間違えた?」
「違うわよ! 今朝、紅玉様の元に『柚葉からの贈り物』が届いたらしいの!」
「……私から?」

 身に覚えがない。そもそも、私には他人に贈り物を買うような財力も暇もない。
 小鈴はガタガタと震えながら、仕入れたばかりの情報をまくし立てた。

「中身は『死装束用の靴(六文銭入り)』と『最高級の死化粧用白粉』だったそうよ! しかも添え状までついてて……」
「なんて書いてあったの」
「『近いうちに必要になると思いまして、次お会いする時はご持参ください』って!」

 小鈴の甲高い声が、石造りの部屋に反響する。

「これ、完全に『早く死ね』っていう脅迫状じゃない! しかも差出人が柚葉になってるのよ!」

 私は送られたという品目のリストを頭の中で反芻し、深く眉間に皺を寄せた。

「……信じられない」
「でしょ!? 酷い濡れ衣よね!」

 バンッ!

 私は手に持っていた筆を置き、思わず机を強く叩いた。

「内容が不親切すぎます! 靴と白粉だけでどうしろと言うんですか!」
「……え?」

 小鈴がポカンと口を開けるが、私の怒りは収まらない。

「死後処置には、まず体液漏れを防ぐ詰め物、硬直をほぐすオイル、乾燥を防ぐ保湿クリームが必須です。これでは『死ぬ準備』もままなりません」
「いや、あの」
「そもそも生きた人間に送りません。それぞれ使用期限があるんですから」

 私は腕を組み、到底納得できないという顔で鼻を鳴らした。

「百歩譲って仮に私が送るなら、初心者でも安心な『旅立ちコンプリートセット(解説書付き)』にします。こんな中途半端な仕事、私の名折れです」
「違うのよ!!」

 小鈴の絶叫が鼓膜を打った。

「あんたは!! いつも!! 論点が!! 違うのよ!!」
「そう?」
「あんたのプロ意識の高さはどうでもいいの! 今は『柚葉が紅玉様に死ねと言った』ことになってるのが問題なの!」

 必死にツッコミを入れる小鈴を見て、私はようやく事態の「政治的」なマズさを理解した。

(なるほど。つまり、誰かが私を陥れ、同時に紅玉様を煽ったわけですか)

「ねぇ、やっぱり昨日のことなのかなぁ!?」

 私は顎に手を当て、思考を巡らせた。
 小鈴の言う通り、真っ先に思い浮かぶ容疑者は、昨日私を脅しに来た『翠蓮ファンクラブ』の女官たちだ。私を憎み、紅玉様を敵視している彼女たちなら動機は十分にある。

「……でも、少し違和感がありますね」
「何が?」
「この中途半端なセット、中身は三流ですが、外箱の桐箱だけは無駄に高級品です。下級女官の給金数ヶ月分はするでしょう」

 私はオタクの金銭感覚というものを想像してみた。

「自分の『推し』である翠蓮様への貢ぎ物ならともかく、憎き紅玉様への嫌がらせのために、彼女たちがそこまでの自腹を切るでしょうか? 資金の使い所が間違っています」
「うーん、確かに……愛のない出費はしないわね、あの子たち」

 では、誰が?
 最近、皇帝の寝所に通う私を排除するための、紅玉派の自作自演?
 あるいは、あの底知れない「深海の支配者」である翠蓮様本人の差し金? いや、あの人がこんな直接的で安っぽい手を使うとは思えない。
 それとも、毎晩皇帝を独占している私を妬む、名もなき女官や妃たちか。

「……ダメですね。動機がある人間が多すぎます」

 私は小さく溜息をついた。

「後宮の9割が容疑者です」
「あんた、どんだけ恨み買ってるのよ……」
「後宮、暇人が多すぎますね」

 私が呆れ半分に言い捨てた、その時だった。

 ザッ。

 入り口に、人影が立った。
 振り返ると、以前私を追い返した者とは別の、見るからに腕っぷしの強そうな紅玉様の侍女が立っていた。

「ひいっ! カチコミ!?」

 小鈴が悲鳴を上げ、再び私の背後にサッと隠れる。
 しかし、侍女が懐から取り出し、私に差し出したのは刃物ではなかった。
 分厚く、むせ返るような香水の匂いがする封筒だ。

「我が主、紅玉様よりお茶会への招待状です。……『必ず』いらしてください、とのことです」

 抑揚のない声。
 だが、「必ず」の部分には凄まじい圧と殺気が込められていた。逃げればどうなるか分かっているな、という無言の脅迫だ。

「……」

 私はその分厚い招待状を、淡々と受け取った。

「分かりました。伺いますとお伝えください」

 侍女は無言で一礼し、踵を返して去っていった。
 嵐の前の静けさが部屋に降り下りる中、小鈴が私の腕をガクガクと揺さぶった。

「行くの!? 殺されるわよ!?」
「行かなければ、私の『職人としての名誉(コンプリートセットじゃない件)』が挽回できませんから」

 私は真顔で答えた。
 私の名前を騙って、あんな三流の仕事をされたまま黙っているわけにはいかない。

「だからそこじゃないってば!!」

 小鈴の悲痛な叫び声だけが、虚しく遺体安置所に響き渡った。