しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています

 翠蓮宮への突撃から、一夜が明けた。
 私は遺体安置所の裏室で、新しい防腐剤の調合を試していた。

 コキッ、ポキキ。――――ゴキッ

 首を回すと、鈍い音が鳴り、じんわりと熱いものが体を駆け巡った後、鈍い痛みがじんじんとやってきた。
 昨晩も案の定、紫苑にタコのような拘束を受け、大人の男の全体重を下敷きにされて朝を迎えた。そしてこの音と痛み。
たぶん私の身体は限界を超えた。

 バンッ!!

 突然、控え室の重厚な扉が乱暴に開け放たれた。
 防腐剤の鋭い匂いが漂う空気が、大きく揺れる。

「貴女が柚葉ね! ちょっとお聞きしたいことがあるのだけれど!」

 鼻息荒く乗り込んできたのは、見知らぬ女官だった。
 ビクッとした小鈴が、サッと私の背後に隠れる。

(……また面倒そうなのが来た)

 私は乳鉢で粉を擂る手を止め、静かに振り返った。



「身の程知らずにも陛下を毎晩独占し! 高貴な紅玉様を怒らせ! そしてあろうことか、昨日……!」

 女官は私を指差し、甲高い声で糾弾し始めた。
 後宮の風紀を正しに来たお局様、というわけか。
 私は淡々と説教を聞き流そうとしたが、彼女の言葉は妙な方向へヒートアップしていった。

「昨日、あのように慈悲深く美しく、歩く国宝であらせられる翠蓮様の宮へ、アポなしで突撃するとは何事ですか!!」

 なんか流れが変わった。
 女官の顔が、怒りというより熱狂で紅潮している。

「しかも! 翠蓮様が淹れてくださったお茶を飲むなど! 貴女のような下級女官の身分で許されるとでも思っているの!? 今すぐ腹を切りなさい!」

(……なるほど。風紀委員かと思ったら、ただの『翠蓮様ファンクラブ』の過激派ね)

 私は、なんだか妙に納得してしまった。

「お茶は美味しかったです」

 私は昨日出されたお茶の感想をそのまま口にした。

「抽出温度も完璧で、茶器の趣味も素晴らしいものでした」
「っ……! そうでしょう! 翠蓮様はお茶の淹れ方一つとっても芸術的で、あの白磁の茶器は彼女の純潔さを表して――って、誤魔化されないわよ!」

 女官はハッとして私を睨み直した。
 私が褒めたことに、つい嬉しそうに同意してしまうあたり、根は善良なのだろう。

「それに、あの方の肌のキメの細かさには驚きました」

 私は職業柄、一番気になったポイントを告げた。

「もし今日亡くなられたとしても、ベースメイクはほぼ不要で――」
「縁起でもないこと言わないで!!」

 女官は悲鳴を上げたが、すぐにうっとりとした表情を浮かべた。

「……でも分かるわ。あのお肌、透き通るような白さで、まるで白百合のようよね……。私、一度だけお化粧のノリをお伺いしたことがあって――って、だから違うのよ!!」

 ノリツッコミの才能があるようだ。
 背後に隠れていた小鈴が、こっそりと私の袖を引く。

「柚葉、なんか話噛み合ってなくない……?」
「そう? 素材としての良さを語り合っているだけだけど」
「あんたの基準(死体)と一緒にしないでよ!」



「コホン! とにかく!」

 ひとしきり翠蓮様の美しさについて語り合った後、女官は本来の目的を思い出したように咳払いをした。

「昨日の貴女の質問は、あまりにも無礼で配慮に欠けていました!」
「質問、ですか」
「紅玉様への毒の噂なんて、翠蓮様が最も心を痛めるような下世話な話題を振るなんて!」

 私は僅かに目を細めた。
 昨日の密室での会話が、もう一介の女官に漏れている。ファンクラブの情報網、恐るべしだ。

(なるほど。ファンからすれば、推しに変なゴシップを吹き込むスキャンダル記者のように見えたわけね)

 彼女たちの怒りも理解できる。

「翠蓮様はお優しすぎるから貴女を許したけれど、私たち『後宮翠蓮の会(仮)』は許していませんからね!」

 女官はビシッと私を指差した。

「これ以上、翠蓮様に対して身の程知らずな行動を取るなら……タダじゃおきませんから!」

 それだけ言い捨てて、女官は嵐のように去っていった。
 バタンッ! と扉が閉まる音が、やけに虚しく響く。

「……疲れた。何なのあの人」

 小鈴がヘナヘナとその場に座り込んだ。
 私は乳鉢に視線を戻し、再び粉を擂り始める。

「しかし、有意義な時間だったわ」
「どこがよ! 思いっきり脅されてたじゃない!」

 小鈴は信じられないといった顔をするが、私の頭の中は極めて冷静に回っていた。
 下級の女官にすら、これほどまでに熱狂的に愛され、庇護欲を掻き立てる翠蓮という存在。

 だが、昨日私が見た「あの侍女を声だけで制圧した絶対的な支配力」と、この女官が信じている「優しすぎて心配な聖女」のイメージは、あまりにも乖離している。

(……偶像崇拝の極みね。翠蓮様は、自らの見せ方を完璧にコントロールしている)

 狂信的なファン(信者)たち。
 彼女たちを使えば、自らの手を汚さずに、意に沿わない人間を排除することすらできるのかもしれない。

 私は、翠蓮という女の底知れなさを改めて実感した。
 そして、静かに商売道具の筆を握り直すのだった。