しがない死化粧師ですが、不眠症の暴君に「専用の抱き枕(眠り薬)」として溺愛されています

「……いけませんね」

私は眉間を揉んだ。認めるしかない。
どうしても紅玉様と翠蓮様の顔がチラついてしまう。

(雑念を持ったまま施術するなど、プロ失格です)

お客様に対して失礼極まりない。
私は意を決して、翠蓮宮への再訪問を決意した。

「ちょっと待って柚葉!まさか『二人はどんな関係なんですか?』って直球で聞く気じゃないでしょうね!?」

私の決意から何かを感じ取ったのか、小鈴が血相を変えて立ちふさがる。

「え、ダメなの?一番早いでしょ」
「ダメに決まってるじゃない!相手は貴妃よ!?まずは建前!『毒の噂を聞いて心配で来ました』って言うの!」
「建前……なるほど、人間社会の潤滑油ね」

私は小鈴から授かった「心配する善良な女官」のセリフを、頭の中で反芻した。

(私は心配で、夜も眠れません……心配で、夜も眠れません……)

よし、覚えた。
私はインコのようにブツブツと呟きながら、翠蓮宮へと向かった。



翠蓮宮は、相変わらず静謐な蓮の香りに包まれていた。
突然の訪問にもかかわらず、翠蓮様は嫌な顔ひとつせず私を迎え入れてくれた。

「まあ、ようこそ柚葉さん。また会えて嬉しいわ」

背景に花が飛びそうなほどの笑顔だ。
私は深呼吸をし、練習通りに切り出した。

「翠蓮様。……紅玉様が毒を盛ろうとしているという噂を聞きました」

一呼吸置く。ここからが重要だ。

「私は、そのことが心配で……夜も眠れません(※昨晩は紫苑がうるさくて、本当に眠れていない)」

嘘は言っていない。私の目の下のクマが、何よりの証拠だ。
翠蓮様はふふっと笑い、優しげに目を細めた。

「ありがとう。貴女は優しいのね」

(よし、小鈴の脚本通りだ。これで怪しまれずに会話に入れる)

私は心の中でガッツポーズをした。
人間社会の潤滑油、意外とチョロいかもしれない。



場の空気が温まったところで、私は本題へと切り込んだ。

「それで……実際、紅玉様とはどういうご関係なのですか?」
「あら」
「噂通り、本当に命を狙われるほど仲が悪いのですか?」

翠蓮様は優雅に茶をすすり、小首を傾げた。

「どうかしら。貴女にはどう見える?」

肯定も否定もしない。暖簾に腕押しだ。
このままでは埒が明かない。私は、昨夜紫苑から仕入れた情報をカードとして切ることにした。

「私は不思議なのです。……かつて、皇太后陛下から紅玉様の命を救った方が、なぜ今は毒を黙認されているのか」

ピクリ。
翠蓮様の茶を持つ手が止まった。

「そこまでして助けた相手に殺されかけるなんて。……あの時、見捨てておけばよかったのでは?」

一瞬、部屋の空気が凪いだ。
翠蓮様の笑顔は張り付いたままだ。けれど、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。

「無礼な!」

たまらず声を上げたのは、後ろに控えていた侍女だった。

「貴女ごときに翠蓮様の何が分かるのですか!翠蓮様がどれだけ心を痛めておられるか!お二人が――」

その時。

「お黙りなさい」

翠蓮様が、静かに言った。

怒鳴ったわけではない。鈴を転がすような、いつも通りの声量だ。
しかし、その言葉には絶対的な「支配」の響きが含まれていた。
水底に引きずり込まれるような、抗えない圧力。

「っ……!」

侍女はハッと息を呑み、瞬時に顔面蒼白になって平伏した。

「も、申し訳ございません……!」

震える背中。
私は肌が粟立つのを感じた。

(……なんだ、今の空気は)

紫苑の殺気が全てをなぎ倒す「嵐」なら、翠蓮様のそれは、音もなく忍び寄り、逃げ場を奪う「深海」だ。
逆らえば息ができなくなるような、静かで圧倒的な支配者の気配。
この人は、ただの「優しいお姉さん」ではない。

「ごめんなさいね、教育が行き届かなくて」

次の瞬間、翠蓮様はいつもの愛らしい笑顔に戻っていた。
その切り替えの早さが、逆に恐ろしい。

「彼女を助けたのは、あくまで『均衡(バランス)』のためよ」

翠蓮様は淡々と語りだした。

「軍事力を持つ紅玉さんの実家が潰れれば、国が傾く。私は宰相の娘として、国の利益を守る義務があるの。私情はないわ」

毒の噂についても、「証拠がない以上、動くわけにはいかない」と正論で返された。
あまりに完璧な理屈だ。

「……なるほど、よく分かりました」

これ以上踏み込むのは危険だ。
私は深々と礼をし、逃げるように退出した。



翠蓮宮からの帰り道。
私は回廊を歩きながら、先ほどの会話を反芻していた。

翠蓮様の説明は完璧に論理的だった。国のための政治的判断。
だが、あの侍女の反応は違った。

『心を痛めておられる』
『お二人が――』

あれは、主人の「本心」を知っている者の反応だ。
政治的な打算だけで動いているなら、あんな激情は生まれないはずだ。

(理屈と感情が噛み合っていない。……この二人、思った以上に厄介だ)

そこにあるのは、単なる派閥争いではない。もっとドロドロとした、重たくて暗い「感情の執着」の匂いがした。