「……いけませんね」
私は眉間を揉んだ。認めるしかない。
どうしても紅玉様と翠蓮様の顔がチラついてしまう。
(雑念を持ったまま施術するなど、プロ失格です)
お客様に対して失礼極まりない。
私は意を決して、翠蓮宮への再訪問を決意した。
「ちょっと待って柚葉! まさか『二人はどんな関係なんですか?』って直球で聞く気じゃないでしょうね!?」
私の決意から何かを感じ取ったのか、小鈴が血相を変えて立ちふさがる。
「え、ダメなの? 一番早いでしょ」
「ダメに決まってるじゃない! 相手は貴妃よ!? まずは建前! 『毒の噂を聞いて心配で来ました』って言うの!」
「建前……なるほど、人間社会の潤滑油ね」
私は小鈴から授かった「心配する善良な女官」のセリフを、頭の中で反芻した。
(私は心配で、夜も眠れません……心配で、夜も眠れません……)
よし、覚えた。
私はインコのようにブツブツと呟きながら、翠蓮宮へと向かった。
○
翠蓮宮は、相変わらず静謐な蓮の香りに包まれていた。
突然の訪問にもかかわらず、翠蓮様は嫌な顔ひとつせず私を迎え入れてくれた。
「まあ、ようこそ柚葉さん。また会えて嬉しいわ」
背景に花が飛びそうなほどの笑顔だ。
私は深呼吸をし、練習通りに切り出した。
「翠蓮様。……紅玉様が毒を盛ろうとしているという噂を聞きました」
一呼吸置く。ここからが重要だ。
「私は、そのことが心配で……夜も眠れません(※昨晩は紫苑がうるさくて、本当に眠れていない)」
嘘は言っていない。私の目の下のクマが、何よりの証拠だ。
翠蓮様はふふっと笑い、優しげに目を細めた。
「ありがとう。貴女は優しいのね」
(よし、小鈴の脚本通りだ。これで怪しまれずに会話に入れる)
私は心の中でガッツポーズをした。
人間社会の潤滑油、意外とチョロいかもしれない。
○
場の空気が温まったところで、私は本題へと切り込んだ。
「それで……実際、紅玉様とはどういうご関係なのですか?」
「あら」
「噂通り、本当に命を狙われるほど仲が悪いのですか?」
翠蓮様は優雅に茶をすすり、小首を傾げた。
「ふふ、どうかしら。貴女にはどう見える?」
肯定も否定もしない。暖簾に腕押しだ。
このままでは埒が明かない。私は、昨夜紫苑から仕入れた情報をカードとして切ることにした。
「私は不思議なのです。……かつて、皇太后陛下から紅玉様の命を救った方が、なぜ今は毒を黙認されているのか」
ピクリ。
翠蓮様の茶を持つ手が止まった。
「そこまでして助けた相手に殺されかけるなんて。……あの時、見捨てておけばよかったのでは?」
一瞬、部屋の空気が凪いだ。
翠蓮様の笑顔は張り付いたままだ。けれど、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
「無礼な!」
たまらず声を上げたのは、後ろに控えていた侍女だった。
「貴女ごときに翠蓮様の何が分かるのですか! 翠蓮様がどれだけ心を痛めておられるか! お二人が――」
その時。
「お黙りなさい」
翠蓮様が、静かに言った。
怒鳴ったわけではない。鈴を転がすような、いつも通りの声量だ。
しかし、その言葉には絶対的な「支配」の響きが含まれていた。
水底に引きずり込まれるような、抗えない圧力。
「っ……!」
侍女はハッと息を呑み、瞬時に顔面蒼白になって平伏した。
「も、申し訳ございません……!」
震える背中。
私は肌が粟立つのを感じた。
(……なんだ、今の空気は)
紫苑の殺気が全てをなぎ倒す「嵐」なら、翠蓮様のそれは、音もなく忍び寄り、逃げ場を奪う「深海」だ。
逆らえば息ができなくなるような、静かで圧倒的な支配者の気配。
この人は、ただの「優しいお姉さん」ではない。
「ごめんなさいね、教育が行き届かなくて」
次の瞬間、翠蓮様はいつもの愛らしい笑顔に戻っていた。
その切り替えの早さが、逆に恐ろしい。
「彼女を助けたのは、あくまで『均衡(バランス)』のためよ」
翠蓮様は淡々と語りだした。
「軍事力を持つ紅玉さんの実家が潰れれば、国が傾く。私は宰相の娘として、国の利益を守る義務があるの。私情はないわ」
毒の噂についても、「証拠がない以上、動くわけにはいかない」と正論で返された。
あまりに完璧な理屈だ。
「……なるほど、よく分かりました」
これ以上踏み込むのは危険だ。
私は深々と礼をし、逃げるように退出した。
○
翠蓮宮からの帰り道。
私は回廊を歩きながら、先ほどの会話を反芻していた。
翠蓮様の説明は完璧に論理的だった。国のための政治的判断。
だが、あの侍女の反応は違った。
『心を痛めておられる』
『お二人が――』
あれは、主人の「本心」を知っている者の反応だ。
政治的な打算だけで動いているなら、あんな激情は生まれないはずだ。
(理屈と感情が噛み合っていない。……この二人、思った以上に厄介だ)
私は溜め息をついた。
そこにあるのは、単なる派閥争いではない。
もっとドロドロとした、重たくて暗い「感情の執着」の匂いがした。
私は眉間を揉んだ。認めるしかない。
どうしても紅玉様と翠蓮様の顔がチラついてしまう。
(雑念を持ったまま施術するなど、プロ失格です)
お客様に対して失礼極まりない。
私は意を決して、翠蓮宮への再訪問を決意した。
「ちょっと待って柚葉! まさか『二人はどんな関係なんですか?』って直球で聞く気じゃないでしょうね!?」
私の決意から何かを感じ取ったのか、小鈴が血相を変えて立ちふさがる。
「え、ダメなの? 一番早いでしょ」
「ダメに決まってるじゃない! 相手は貴妃よ!? まずは建前! 『毒の噂を聞いて心配で来ました』って言うの!」
「建前……なるほど、人間社会の潤滑油ね」
私は小鈴から授かった「心配する善良な女官」のセリフを、頭の中で反芻した。
(私は心配で、夜も眠れません……心配で、夜も眠れません……)
よし、覚えた。
私はインコのようにブツブツと呟きながら、翠蓮宮へと向かった。
○
翠蓮宮は、相変わらず静謐な蓮の香りに包まれていた。
突然の訪問にもかかわらず、翠蓮様は嫌な顔ひとつせず私を迎え入れてくれた。
「まあ、ようこそ柚葉さん。また会えて嬉しいわ」
背景に花が飛びそうなほどの笑顔だ。
私は深呼吸をし、練習通りに切り出した。
「翠蓮様。……紅玉様が毒を盛ろうとしているという噂を聞きました」
一呼吸置く。ここからが重要だ。
「私は、そのことが心配で……夜も眠れません(※昨晩は紫苑がうるさくて、本当に眠れていない)」
嘘は言っていない。私の目の下のクマが、何よりの証拠だ。
翠蓮様はふふっと笑い、優しげに目を細めた。
「ありがとう。貴女は優しいのね」
(よし、小鈴の脚本通りだ。これで怪しまれずに会話に入れる)
私は心の中でガッツポーズをした。
人間社会の潤滑油、意外とチョロいかもしれない。
○
場の空気が温まったところで、私は本題へと切り込んだ。
「それで……実際、紅玉様とはどういうご関係なのですか?」
「あら」
「噂通り、本当に命を狙われるほど仲が悪いのですか?」
翠蓮様は優雅に茶をすすり、小首を傾げた。
「ふふ、どうかしら。貴女にはどう見える?」
肯定も否定もしない。暖簾に腕押しだ。
このままでは埒が明かない。私は、昨夜紫苑から仕入れた情報をカードとして切ることにした。
「私は不思議なのです。……かつて、皇太后陛下から紅玉様の命を救った方が、なぜ今は毒を黙認されているのか」
ピクリ。
翠蓮様の茶を持つ手が止まった。
「そこまでして助けた相手に殺されかけるなんて。……あの時、見捨てておけばよかったのでは?」
一瞬、部屋の空気が凪いだ。
翠蓮様の笑顔は張り付いたままだ。けれど、部屋の温度が数度下がったような錯覚を覚える。
「無礼な!」
たまらず声を上げたのは、後ろに控えていた侍女だった。
「貴女ごときに翠蓮様の何が分かるのですか! 翠蓮様がどれだけ心を痛めておられるか! お二人が――」
その時。
「お黙りなさい」
翠蓮様が、静かに言った。
怒鳴ったわけではない。鈴を転がすような、いつも通りの声量だ。
しかし、その言葉には絶対的な「支配」の響きが含まれていた。
水底に引きずり込まれるような、抗えない圧力。
「っ……!」
侍女はハッと息を呑み、瞬時に顔面蒼白になって平伏した。
「も、申し訳ございません……!」
震える背中。
私は肌が粟立つのを感じた。
(……なんだ、今の空気は)
紫苑の殺気が全てをなぎ倒す「嵐」なら、翠蓮様のそれは、音もなく忍び寄り、逃げ場を奪う「深海」だ。
逆らえば息ができなくなるような、静かで圧倒的な支配者の気配。
この人は、ただの「優しいお姉さん」ではない。
「ごめんなさいね、教育が行き届かなくて」
次の瞬間、翠蓮様はいつもの愛らしい笑顔に戻っていた。
その切り替えの早さが、逆に恐ろしい。
「彼女を助けたのは、あくまで『均衡(バランス)』のためよ」
翠蓮様は淡々と語りだした。
「軍事力を持つ紅玉さんの実家が潰れれば、国が傾く。私は宰相の娘として、国の利益を守る義務があるの。私情はないわ」
毒の噂についても、「証拠がない以上、動くわけにはいかない」と正論で返された。
あまりに完璧な理屈だ。
「……なるほど、よく分かりました」
これ以上踏み込むのは危険だ。
私は深々と礼をし、逃げるように退出した。
○
翠蓮宮からの帰り道。
私は回廊を歩きながら、先ほどの会話を反芻していた。
翠蓮様の説明は完璧に論理的だった。国のための政治的判断。
だが、あの侍女の反応は違った。
『心を痛めておられる』
『お二人が――』
あれは、主人の「本心」を知っている者の反応だ。
政治的な打算だけで動いているなら、あんな激情は生まれないはずだ。
(理屈と感情が噛み合っていない。……この二人、思った以上に厄介だ)
私は溜め息をついた。
そこにあるのは、単なる派閥争いではない。
もっとドロドロとした、重たくて暗い「感情の執着」の匂いがした。


