地下の遺体安置所は、ひどく静かだった。石造りの壁は冷たく、空気は淀んでいる。防腐剤の鋭い匂いと、微かに漂う死臭。けれど私――柚葉にとって、ここは地上で最も落ち着く職場だった。
目の前の施術台には、変わり果てた側室の遺体が横たわっている。昨日まで、「自分こそがこの国の母になるのだ」と、野心と自信に満ちた強烈な笑顔を振り撒いていた女性だ。今は見る影もない。苦痛と恐怖に歪み、灰色になった顔からは、生前の華やかさは微塵も感じられなかった。肩から下を袈裟斬りにされた傷口は生々しいが、私は淡々とその断面を確認する。
「……お顔が無事で何よりです」
私は手慣れた手つきで、血で汚れた彼女の頬を清拭した。首から下がどうなっていようと、顔さえ無事ならどうとでもなる。物理的な意味で。死斑が出る前にマッサージを施し、死後硬直が始まる前に表情筋を緩める。それは物言わぬ「お客様」への、私なりの敬意と親愛だった。
「少し痛みますよ。すぐに綺麗にして差し上げますからね」
乱れた髪を櫛で梳かし、生気のない唇に紅を差そうとした、その時だった。
ドォン!!
静寂を破り、重厚な扉が乱暴に蹴破られた。蝶番が悲鳴を上げ、埃が舞う。私は驚くよりも先に、化粧筆がズレないよう手元を止めて振り返った。
「――ッ、はぁ、はぁ……」
そこに立っていたのは、この世の者とは思えぬほど美しい、そして恐ろしい男だった。月光のような銀髪は乱れ、鮮血のような紅い瞳がぎらついている。何より異様なのは、その豪奢な衣装が頭からつま先まで、べっとりと返り血で濡れていることだった。まるで血の海を泳いできたかのようだ。
「へ、陛下!そちらは遺体安置所です、不浄です!」
「なりませぬ、そのような場所へ……ッ!」
背後で護衛たちが悲鳴のような制止の声を上げているが、誰も恐怖で震え上がって中に入ってこれない。男――紅帝国皇帝、紫苑は、荒い息を吐きながら部屋の中を見回した。血走った眼球が、私と、その手元にある遺体を射抜く。私は無意識に身構えた。斬られる、と思ったわけではない。「作業の邪魔になる」と思ったのだ。
だが、皇帝の反応は予想外だった。彼は鼻をひくつかせ、怪訝そうに眉を寄せたのだ。
「……臭くない」
低く、地を這うような声。皇帝はよろめくように一歩、足を踏み入れた。
「ここだけ、腐った臭いがしない。……静かだ」
安置所には防腐剤と死臭が充満しているはずだ。けれど彼は、まるで清浄な空気を見つけたかのように、深く息を吸い込んだ。皇帝はそのまま、私が手入れをしていた遺体へと近づいてくる。その視線が、虚空を見つめる死顔に注がれた。
「美しいな」
うっとりとした響きだった。生きた人間を虫けらのように斬り捨てる暴君が、斬殺死体を見て「美しい」と漏らす。狂気じみた光景だが、私には彼が何かに縋り付いているようにも見えた。
皇帝が、確認するように血濡れの手を伸ばす。その指先が、私が丹精込めて整えたばかりの、白磁のような頬に触れようとした瞬間。
私の手は動いていた。
パシッ。
乾いた音が、石室に響き渡る。
「――っ!?」
入り口の護衛たちが、ヒィッと息を呑む音が聞こえた。私は手に持っていた化粧筆の柄で、皇帝の手の甲を容赦なくはたき落としていた。
「触らないでください」
私は皇帝を見上げ、きっぱりと告げた。
「汚れた手で触れると、雑菌が入って肌の変色が早くなります。この方は今、これから一番美しくなるところなのです。邪魔をしないでいただけますか」
皇帝は呆然としていた。はたかれた自分の手と、目の前の小柄な女(わたし)を交互に見る。殺気がないわけではない。ただ、それ以上に彼は「驚愕」しているようだった。皇帝の紅い瞳が、瞬きもせず私を映している。その瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。
「……お前」
皇帝は夢遊病者のように呟いた。
「名は?」
皇帝の紅い瞳が、じっと私を見下ろしている。その視線に、私はある直感を抱いた。
(……ああ、次は私か)
名を問うたのは、処刑リストに書き込むためだろう。皇帝の不興を買った側室がどうなるか、私はこの職場で嫌というほど見てきた。けれど、不思議と恐怖はなかった。「死」は私の仕事相手であり、隣人だ。それが少し早く自分に回ってきただけのこと。私は動じることなく、職務的に答えた。
「……柚葉と申します」
「ユズハ」
皇帝は私の名を口の中で転がすように繰り返した。斬り捨てられるかと思ったが、彼は何かを確認するように一度頷くと、どこか満足げに口元を緩めた。
「ユズハ。今夜、俺の寝所へ来い」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。入り口で震えていた護衛や宦官たちが、一斉に私を見る。「ああ、終わった」「今夜の生贄はこの女か」という、あからさまな憐憫の眼差しだ。皇帝はそんな周囲の反応など意に介さず、背後に控えていた大柄な男に顎をしゃくった。
「連れていけ。逃がすなよ」
皇帝は踵を返し、血の跡を引きずって歩き出す。だが数歩進んだところで足を止め、肩越しに私を一瞥して、低く付け加えた。
「……それと、死なせるな」
それだけ言い残し、皇帝は嵐のように去っていった。残された私は、手元の化粧道具を見つめ、小さく溜息をついた。死なせるな、というのは「俺が殺すまで死ぬな」という意味だろう。いずれにせよ、今夜が山場だ。私は覚悟を決め、商売道具の筆を握りしめた。
目の前の施術台には、変わり果てた側室の遺体が横たわっている。昨日まで、「自分こそがこの国の母になるのだ」と、野心と自信に満ちた強烈な笑顔を振り撒いていた女性だ。今は見る影もない。苦痛と恐怖に歪み、灰色になった顔からは、生前の華やかさは微塵も感じられなかった。肩から下を袈裟斬りにされた傷口は生々しいが、私は淡々とその断面を確認する。
「……お顔が無事で何よりです」
私は手慣れた手つきで、血で汚れた彼女の頬を清拭した。首から下がどうなっていようと、顔さえ無事ならどうとでもなる。物理的な意味で。死斑が出る前にマッサージを施し、死後硬直が始まる前に表情筋を緩める。それは物言わぬ「お客様」への、私なりの敬意と親愛だった。
「少し痛みますよ。すぐに綺麗にして差し上げますからね」
乱れた髪を櫛で梳かし、生気のない唇に紅を差そうとした、その時だった。
ドォン!!
静寂を破り、重厚な扉が乱暴に蹴破られた。蝶番が悲鳴を上げ、埃が舞う。私は驚くよりも先に、化粧筆がズレないよう手元を止めて振り返った。
「――ッ、はぁ、はぁ……」
そこに立っていたのは、この世の者とは思えぬほど美しい、そして恐ろしい男だった。月光のような銀髪は乱れ、鮮血のような紅い瞳がぎらついている。何より異様なのは、その豪奢な衣装が頭からつま先まで、べっとりと返り血で濡れていることだった。まるで血の海を泳いできたかのようだ。
「へ、陛下!そちらは遺体安置所です、不浄です!」
「なりませぬ、そのような場所へ……ッ!」
背後で護衛たちが悲鳴のような制止の声を上げているが、誰も恐怖で震え上がって中に入ってこれない。男――紅帝国皇帝、紫苑は、荒い息を吐きながら部屋の中を見回した。血走った眼球が、私と、その手元にある遺体を射抜く。私は無意識に身構えた。斬られる、と思ったわけではない。「作業の邪魔になる」と思ったのだ。
だが、皇帝の反応は予想外だった。彼は鼻をひくつかせ、怪訝そうに眉を寄せたのだ。
「……臭くない」
低く、地を這うような声。皇帝はよろめくように一歩、足を踏み入れた。
「ここだけ、腐った臭いがしない。……静かだ」
安置所には防腐剤と死臭が充満しているはずだ。けれど彼は、まるで清浄な空気を見つけたかのように、深く息を吸い込んだ。皇帝はそのまま、私が手入れをしていた遺体へと近づいてくる。その視線が、虚空を見つめる死顔に注がれた。
「美しいな」
うっとりとした響きだった。生きた人間を虫けらのように斬り捨てる暴君が、斬殺死体を見て「美しい」と漏らす。狂気じみた光景だが、私には彼が何かに縋り付いているようにも見えた。
皇帝が、確認するように血濡れの手を伸ばす。その指先が、私が丹精込めて整えたばかりの、白磁のような頬に触れようとした瞬間。
私の手は動いていた。
パシッ。
乾いた音が、石室に響き渡る。
「――っ!?」
入り口の護衛たちが、ヒィッと息を呑む音が聞こえた。私は手に持っていた化粧筆の柄で、皇帝の手の甲を容赦なくはたき落としていた。
「触らないでください」
私は皇帝を見上げ、きっぱりと告げた。
「汚れた手で触れると、雑菌が入って肌の変色が早くなります。この方は今、これから一番美しくなるところなのです。邪魔をしないでいただけますか」
皇帝は呆然としていた。はたかれた自分の手と、目の前の小柄な女(わたし)を交互に見る。殺気がないわけではない。ただ、それ以上に彼は「驚愕」しているようだった。皇帝の紅い瞳が、瞬きもせず私を映している。その瞳の奥で、何かが揺らいだように見えた。
「……お前」
皇帝は夢遊病者のように呟いた。
「名は?」
皇帝の紅い瞳が、じっと私を見下ろしている。その視線に、私はある直感を抱いた。
(……ああ、次は私か)
名を問うたのは、処刑リストに書き込むためだろう。皇帝の不興を買った側室がどうなるか、私はこの職場で嫌というほど見てきた。けれど、不思議と恐怖はなかった。「死」は私の仕事相手であり、隣人だ。それが少し早く自分に回ってきただけのこと。私は動じることなく、職務的に答えた。
「……柚葉と申します」
「ユズハ」
皇帝は私の名を口の中で転がすように繰り返した。斬り捨てられるかと思ったが、彼は何かを確認するように一度頷くと、どこか満足げに口元を緩めた。
「ユズハ。今夜、俺の寝所へ来い」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。入り口で震えていた護衛や宦官たちが、一斉に私を見る。「ああ、終わった」「今夜の生贄はこの女か」という、あからさまな憐憫の眼差しだ。皇帝はそんな周囲の反応など意に介さず、背後に控えていた大柄な男に顎をしゃくった。
「連れていけ。逃がすなよ」
皇帝は踵を返し、血の跡を引きずって歩き出す。だが数歩進んだところで足を止め、肩越しに私を一瞥して、低く付け加えた。
「……それと、死なせるな」
それだけ言い残し、皇帝は嵐のように去っていった。残された私は、手元の化粧道具を見つめ、小さく溜息をついた。死なせるな、というのは「俺が殺すまで死ぬな」という意味だろう。いずれにせよ、今夜が山場だ。私は覚悟を決め、商売道具の筆を握りしめた。


