夜霧の立ち込める帝都の港。
そこに停泊する巨大な豪華客船『紅蓮丸(ぐれんまる)』を前にして、私は絶望的な気分で脳内の計算盤(そろばん)を弾いていた。
船へ続くタラップの前に並ぶ、隙のない所作の黒服たち。そして船内へ案内してくれる、華やかな着物姿の女たち。その誰もが、歩き方ひとつで只者でないと分かる。
「(この船の維持費、調度品の価値、護衛の人数……。……ダメです。龍ガ峰組の数年分の予算が、この船一隻だけで軽く吹き飛びます。なんて規模感……!)」
帝都の南を支配する四神の一角、朱雀組。
私は冷や汗を流し、隣を歩く佐吉さんと共にガチガチと歯を鳴らした。
しかし、ただ一人。
我らが若頭・龍ガ峰蓮だけは、この完全にアウェーな状況にあっても全く物怖じしていなかった。
むしろ、私が恐怖で震えているのを見ると、自分の大きな羽織をバサリと脱ぎ、私の肩をすっぽりと包み込んだ。
「冷えるか?足元滑るから、気をつけて歩けよ」
「(……この人、自分が超巨大な敵の胃袋の中にいるって分かっているのかしら?)」
どこかピクニックにでも来ているような蓮の気遣いに、私の胃痛はさらに加速した。
○
案内されたのは、最上階にある絢爛豪華な客間だった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かる。甘い香の匂いと、濃厚な死の気配。
部屋の奥、一段高くなった豪奢な寝椅子に、その男はいた。
美しい女たちを侍らせ、けだるげに長い煙管(キセル)をふかしている男――朱雀恭弥(すざくきょうや)。
「……俺が龍ガ峰の蓮だ。呼びつけられといて悪いが、茶ァ飲みにきたつもりはねぇ。文句があるみてぇだから直接聞きに来たぜ」
蓮が、猛獣のような覇気を放ちながら睨みつける。
しかし恭弥は、そのピリついた殺気を、吐き出した紫煙と共にふわりと余裕で受け流した。
「……威勢がいいな。だが、吠えるだけの野良犬じゃないのは分かってる」
凪いだ漆黒の瞳が、蓮を通り越し、その後ろに立つ私へと向けられる。
見透かされるような、底知れない視線。
「そっちの嬢ちゃん。お前が今回の『絵図』を描いた軍師だな」
極道のトップから直接名指しされ、私の背筋に悪寒が走る。だが、私は相場師の娘として培ったポーカーフェイスを張り付け、静かに頭を下げた。
「……経理担当の葛城です」
「ふっ……経理、ね」
恭弥は面白そうに喉を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。傍らの妻の一人に目配せをする。
「……てめぇらの『お客人』が待ってるんでな。席を移そう」
「俺らのお客、だと?」
蓮が眉をひそめる。
恭弥の案内に従い、私たちは船のさらに奥深くへと歩を進めた。
○
辿り着いたのは、船の地下にある広大なホールだった。
闘技場を思わせるその異質な空間の中央に、見覚えのある男が立っていた。
先日、私たちが米を強奪した相手――黒ガネ屋の社長だ。彼は私たちの姿を認めるなり、恭弥の威光を傘に着て、ふんぞり返るように叫んだ。
「よくもノコノコと来やがったな! 朱雀の若頭、こいつらが私のシノギを奪った泥棒です!麒麟会への上納金を奪ったも同然、生かして帰すわけにはいきません!」
「てめぇ、どのツラ下げて……!」
蓮が反射的に鯉口(こいくち)を切ろうとする。
私はその大きな袖をスッと引き、無言で首を横に振った。
「(親分さん、お待ちを。何か様子が違うようです)」
恭弥は、ホールの一段高い席――まるで裁判長が座るような位置にゆったりと腰を下ろした。その左右には、チャカを構えた美しい妻たちが静かに控えている。
「……俺は、筋の通らねぇ話が嫌いでな」
恭弥の低く冷ややかな声がホールに響き渡ると、喚いていた黒ガネ屋の社長もヒッと言葉を呑み込んだ。
「黒ガネ屋。お前は『龍ガ峰に不当にシノギを奪われた』と泣きついてきた。……龍ガ峰。お前らは『腐ったヤクザから米を取り戻した』と宣った」
恭弥は煙管の先で、黒ガネ屋と私たちを交互に指し示す。
「麒麟会の名を背負う以上、公平(フェア)に裁いてやるよ。……どっちの言い分が『極道(ウチ)の筋』として正しいか、俺が聞いて判断してやる」
それは、暴力ではなく「論理」で雌雄を決する、異端の極道裁判の開廷宣言だった。
私は、ふっと息を吐き出した。
なるほど。武力で圧倒するのではなく、筋を通すことを重んじる。この朱雀恭弥という男は、黒ガネ組と違って、組織の頂点に立つにふさわしい器(カリスマ)を持っている証拠ようだ。
(……それならば、私の戦場です)
私は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、前に出た。
懐から、分厚い大福帳と、クシャクシャになった「あの領収書」を取り出す。
「……親分さん。ここは、私が『数字』で戦います」
私の言葉に、蓮は獰猛な笑みを浮かべて頷いた。
「おう! 好きにやれ鈴! もし話が通じねぇバカがいたら、俺が全員斬り捨てる準備はできてるぜ!」
頼もしい武力(バックアップ)を背盾に、私は黒ガネ屋の社長を冷徹に見据えた。
恭弥が、一段高い席から面白そうに口角を吊り上げている。
「では、反証を始めます。黒ガネ屋社長。あなたのビジネスが、いかに麒麟会の名に泥を塗る『不良債権』であるか……」
私は愛用のそろばんを構え、その盤面に指を添えた。
「――計算(証明)して、差し上げます」
豪華客船の地下深く。
血の代わりに数字が飛び交う、前代未聞の極道裁判が、今、開廷した。
そこに停泊する巨大な豪華客船『紅蓮丸(ぐれんまる)』を前にして、私は絶望的な気分で脳内の計算盤(そろばん)を弾いていた。
船へ続くタラップの前に並ぶ、隙のない所作の黒服たち。そして船内へ案内してくれる、華やかな着物姿の女たち。その誰もが、歩き方ひとつで只者でないと分かる。
「(この船の維持費、調度品の価値、護衛の人数……。……ダメです。龍ガ峰組の数年分の予算が、この船一隻だけで軽く吹き飛びます。なんて規模感……!)」
帝都の南を支配する四神の一角、朱雀組。
私は冷や汗を流し、隣を歩く佐吉さんと共にガチガチと歯を鳴らした。
しかし、ただ一人。
我らが若頭・龍ガ峰蓮だけは、この完全にアウェーな状況にあっても全く物怖じしていなかった。
むしろ、私が恐怖で震えているのを見ると、自分の大きな羽織をバサリと脱ぎ、私の肩をすっぽりと包み込んだ。
「冷えるか?足元滑るから、気をつけて歩けよ」
「(……この人、自分が超巨大な敵の胃袋の中にいるって分かっているのかしら?)」
どこかピクニックにでも来ているような蓮の気遣いに、私の胃痛はさらに加速した。
○
案内されたのは、最上階にある絢爛豪華な客間だった。
足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かる。甘い香の匂いと、濃厚な死の気配。
部屋の奥、一段高くなった豪奢な寝椅子に、その男はいた。
美しい女たちを侍らせ、けだるげに長い煙管(キセル)をふかしている男――朱雀恭弥(すざくきょうや)。
「……俺が龍ガ峰の蓮だ。呼びつけられといて悪いが、茶ァ飲みにきたつもりはねぇ。文句があるみてぇだから直接聞きに来たぜ」
蓮が、猛獣のような覇気を放ちながら睨みつける。
しかし恭弥は、そのピリついた殺気を、吐き出した紫煙と共にふわりと余裕で受け流した。
「……威勢がいいな。だが、吠えるだけの野良犬じゃないのは分かってる」
凪いだ漆黒の瞳が、蓮を通り越し、その後ろに立つ私へと向けられる。
見透かされるような、底知れない視線。
「そっちの嬢ちゃん。お前が今回の『絵図』を描いた軍師だな」
極道のトップから直接名指しされ、私の背筋に悪寒が走る。だが、私は相場師の娘として培ったポーカーフェイスを張り付け、静かに頭を下げた。
「……経理担当の葛城です」
「ふっ……経理、ね」
恭弥は面白そうに喉を鳴らすと、ゆっくりと立ち上がった。傍らの妻の一人に目配せをする。
「……てめぇらの『お客人』が待ってるんでな。席を移そう」
「俺らのお客、だと?」
蓮が眉をひそめる。
恭弥の案内に従い、私たちは船のさらに奥深くへと歩を進めた。
○
辿り着いたのは、船の地下にある広大なホールだった。
闘技場を思わせるその異質な空間の中央に、見覚えのある男が立っていた。
先日、私たちが米を強奪した相手――黒ガネ屋の社長だ。彼は私たちの姿を認めるなり、恭弥の威光を傘に着て、ふんぞり返るように叫んだ。
「よくもノコノコと来やがったな! 朱雀の若頭、こいつらが私のシノギを奪った泥棒です!麒麟会への上納金を奪ったも同然、生かして帰すわけにはいきません!」
「てめぇ、どのツラ下げて……!」
蓮が反射的に鯉口(こいくち)を切ろうとする。
私はその大きな袖をスッと引き、無言で首を横に振った。
「(親分さん、お待ちを。何か様子が違うようです)」
恭弥は、ホールの一段高い席――まるで裁判長が座るような位置にゆったりと腰を下ろした。その左右には、チャカを構えた美しい妻たちが静かに控えている。
「……俺は、筋の通らねぇ話が嫌いでな」
恭弥の低く冷ややかな声がホールに響き渡ると、喚いていた黒ガネ屋の社長もヒッと言葉を呑み込んだ。
「黒ガネ屋。お前は『龍ガ峰に不当にシノギを奪われた』と泣きついてきた。……龍ガ峰。お前らは『腐ったヤクザから米を取り戻した』と宣った」
恭弥は煙管の先で、黒ガネ屋と私たちを交互に指し示す。
「麒麟会の名を背負う以上、公平(フェア)に裁いてやるよ。……どっちの言い分が『極道(ウチ)の筋』として正しいか、俺が聞いて判断してやる」
それは、暴力ではなく「論理」で雌雄を決する、異端の極道裁判の開廷宣言だった。
私は、ふっと息を吐き出した。
なるほど。武力で圧倒するのではなく、筋を通すことを重んじる。この朱雀恭弥という男は、黒ガネ組と違って、組織の頂点に立つにふさわしい器(カリスマ)を持っている証拠ようだ。
(……それならば、私の戦場です)
私は眼鏡のブリッジを中指でクイッと押し上げ、前に出た。
懐から、分厚い大福帳と、クシャクシャになった「あの領収書」を取り出す。
「……親分さん。ここは、私が『数字』で戦います」
私の言葉に、蓮は獰猛な笑みを浮かべて頷いた。
「おう! 好きにやれ鈴! もし話が通じねぇバカがいたら、俺が全員斬り捨てる準備はできてるぜ!」
頼もしい武力(バックアップ)を背盾に、私は黒ガネ屋の社長を冷徹に見据えた。
恭弥が、一段高い席から面白そうに口角を吊り上げている。
「では、反証を始めます。黒ガネ屋社長。あなたのビジネスが、いかに麒麟会の名に泥を塗る『不良債権』であるか……」
私は愛用のそろばんを構え、その盤面に指を添えた。
「――計算(証明)して、差し上げます」
豪華客船の地下深く。
血の代わりに数字が飛び交う、前代未聞の極道裁判が、今、開廷した。


