帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

「姐さん! 町のババアが『ありがとう』って、自家製の沢庵(たくあん)を樽ごとくれたぞ!」
「こっちの八百屋の親父は、大根と白菜を山ほど置いていきやがった! 警察の巡査も、俺たちの顔を見て見ぬふりして通り過ぎたぜ!」

「深夜の米騒動」から一夜明けた、龍屋敷の大広間。
 そこは異様な熱気と、見たこともない差し入れの山に包まれていた。
 これまで帝都の鼻つまみ者として嫌われ、恐れられてきたヤクザたちにとって、市民から「感謝される」という体験は初めてのことだったらしい。強面の男たちが、大根を抱きしめて男泣きしている。

「(……大成功ですね。これで当面の食費も浮きました)」

 私は部屋の隅でパチリとそろばんを弾き終え、大福帳に太い墨で「黒字」と書き込んだ。
 少佐殿への返済は帳消し、他諸々の借金は完済。奪った米の半分を闇ルートで高値で売り抜けたことで、組の運転資金も向こう三ヶ月分は確保できた。

「よくやったな、鈴」

 ふいに、頭上から声が降ってきた。
 見上げると、羽織を引っかけた蓮が、満足げな金色の瞳で私を見下ろしている。

「お前のおかげで、組の看板に傷がつかずに済んだ。……いや、今まで以上に輝いてるぜ」

 蓮の大きな手が、私の頭にポンと乗る。
 いつもなら「髪が乱れるのでやめてください」と抗議するところだが、不思議と嫌な気はしなかった。彼の掌は温かく、少しだけ誇らしい気持ちになった私は、大人しく撫でられるままに目を細めた。

「……計算通りです。これでようやく、枕を高くして眠れま――」
「失礼する」

 その時。
 玄関の方から、静かで、しかしよく通る声が響いた。
 組員たちがピタリと動きを止める。
 現れたのは、軍服ではなく、仕立ての良い細身の背広(スーツ)に身を包んだ男だった。私服姿でも隠しきれない、背筋の伸びた歩き方と隙のない気配。独立遊撃隊「黒鉄(くろがね)連隊」の少佐殿だ。

「約束通り、借金の証文は破棄した。黒ガネ屋も、軍の監査が入って廃業寸前だ。……見事だったよ、龍ガ峰の」

 少佐は私と蓮を交互に見据え、短く告げた。
 私は立ち上がり、深く一礼する。

「恐縮です。お互いの利益が一致した結果に過ぎません。……良き商い相手(ビジネスパートナー)として、今後ともご贔屓に」
「……」

 しかし、少佐の表情は晴れなかった。
 彼は周囲の組員たちを一瞥し、声を潜めて私と蓮に近づいた。

「一つだけ、忠告しておく。……黒ガネ屋がなぜ、あれほど好き勝手できたか知っているか?」
「軍部の一部と癒着していたからでは?」
「それだけじゃない。奴らの背後(バック)には、帝都の裏社会を統べる『麒麟会(きりんかい)』がついている」

 その名が出た瞬間。
 大広間の空気が、文字通り凍りついた。
 さっきまで大根を抱いて喜んでいた組員たちの顔から、サーッと血の気が引いていく。隣にいた佐吉に至っては、白目を剥いて卒倒しそうになっていた。

「(……? 皆さんの心拍数が異常なまでに上がっていますね。そんなに危険な相手ですか?)」

 私が首を傾げていると、少佐は重々しい口調で続けた。

「帝都の東西南北は、麒麟会傘下の『四神』と呼ばれる直参組織が支配している。……その中でも、南の港湾・花街エリアを牛耳り、黒ガネ屋のケツ持ちをしていたのが、『朱雀組(すざくぐみ)』だ」
「朱雀、組……!」
「組長は、朱雀恭弥(すざくきょうや)。義理と仁義には厚いが、自分の庭(シマ)を荒らされた落とし前は、国を一つ潰してでも取らせる男だ」

 少佐は、蓮の顔を真っ直ぐに見た。

「奴らは、お前たちが『龍』の字を名乗っていることすら不快に思っているだろう。正規の『青龍』でもないただの野良犬が、神の名を騙るなとな」
「……」
「精々、長生きできるよう祈っている。せいぜい夜道には気をつけることだ」

 少佐は歯がゆそうな雰囲気を残し、踵を返して去っていった。

 重苦しい沈黙が、大広間を支配する。

「す、朱雀組……まさか、四神の直参が出てくるなんて……終わりだ、今度こそ俺たち、東京湾に沈められる……」

 佐吉が頭を抱えてうずくまった。

「(完全に私のリサーチ不足です。中小企業同士の小競り合いだと思っていたら、帝都を牛耳る巨大財閥の案件だったなんて……!)」

 冷や汗が背中を伝う。
 脳内で瞬時に生存確率のシミュレーションを回すが、弾き出された数値は『一万分の一(〇・〇一パーセント)』。ほぼゼロだ。

 震える組員たちの中で、蓮だけが静かに鯉口(こいくち)を切った。

「……ビビるな」

 低い、しかし力強いドス声。

「向こうが来るってんなら、受けて立つだけだ。俺たちが筋を曲げたわけじゃねぇ。……それに、俺たちには鈴(女神)がついている」

 蓮の言葉に、組員たちの顔に僅かな生気が戻る。
 しかし、私の胃の痛みが限界を突破しようとしていた、その時だった。

「お、親分!!」

 屋敷の玄関番が、転がるように大広間へ駆け込んできた。

「お、お客さんです! め、めっちゃくちゃ、いい女です……!」

 ざわめきの中、静かに足音が近づいてくる。
 現れたのは、一人の美女だった。
 艷やかな黒髪を結い上げ、洋装のドレスの上に豪奢な着物を羽織るという和洋折衷の装い。彼女はたった一人で、武器も持たず、強面のヤクザたちがひしめく敵陣の中央まで、堂々とした足取りで歩みを進めてきた。

「ご機嫌よう、龍ガ峰の皆様」

 鈴を転がすような、甘く蠱惑的(こわくてき)な声。
 しかし、その瞳の奥には、弱者など意にも介さない絶対的な「強者」の余裕が宿っていた。

「あの大立ち回り、主人が『生意気な野良龍だ』と、たいそうおかしそうに笑っておりましたわ」

 彼女は懐から、一通の封筒を取り出した。
 血のように赤い、朱色の封筒。
 彼女はそれを、蓮の胸元へとスッと差し出した。

「我が主、朱雀組組長・朱雀恭弥より言付けです。『俺のシマで暴れたツラを拝みたい。……今夜、港に停泊している本船・紅蓮丸(ぐれんまる)まで来られたし』と」

 それは、招待状という名の、絶対的な「召喚命令(デス・カード)」だった。

「……行かなかったら?」

 蓮が、低い声で尋ねる。
 美女はクスリと、毒花のように微笑んだ。

「まさか。そんな無粋なことはなさらないでしょう? ……もし逃げれば、この帝都にあなた方の居場所はなくなりますわ。文字通り、塵ひとつ残らずね」

 使者の美女は優雅に一礼すると、来た時と同じように、静かに去っていった。
 残されたのは、煌びやかな朱色の招待状と、絶望的な沈黙。

「……親分さん」

 私は冷や汗を拭い、ズレた眼鏡の位置を直した。

「計算し直しました。ここで逃げて隠れても、生存確率はゼロです。ですが……向こうの土俵に乗り込んで『交渉』できれば、少なくとも『三分(三パーセント)』は生き残る公算があります」
「三分(さんぶ)か。上等だ!」

 蓮は朱色の封筒を鷲掴みにし、獰猛な笑みを浮かべた。

「行くぞ野郎ども! 四神だか何だか知らねぇが、直々に挨拶回りだ!!」
「「「オオオオオオオッ!!!」」」

 再び燃え上がるヤクザたちの闘志。
 私はそっと、そろばんを懐にしまった。

「(はぁ……佐吉さん、あとで経費で胃薬を買ってもいいですかね……)」

 こうして、私たちは帝都最大の怪物『朱雀』の巣へと、自ら足を踏み入れることになったのだった。