帝都の港、一般人の立ち入りが固く禁じられた特別区画。
深みを増した夜霧の中に、まるでそこだけが異界であるかのように、朱色と金で彩られた巨大な船影が浮かび上がっていた。
帝都最大の極道組織「麒麟会(きりんかい)」。
その直系である朱雀組が根城とする豪華客船、『紅蓮丸(ぐれんまる)』である。
最上階にある特別室は、高級遊郭の艶やかさと、異国から持ち込まれた豪奢な調度品が入り混じる、退廃的で絢爛な空間だった。
床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、部屋のあちこちで、息を呑むほど美しい女性たちが寛いでいる。彼女たちはただの愛人ではない。ある者は杯を傾け、ある者は静かに拳銃(チャカ)のシリンダーを磨く、朱雀組を支える幹部であり――組長の「妻」たちだった。
「――お願いします、朱雀の若頭! 龍ガ峰のガキどもが、ウチのシノギを根こそぎ奪っていきやがったんです!」
甘い香が漂う部屋の中央で、場違いな男の悲鳴が響いた。
額を床に擦り付けているのは、黒ガネ屋の社長だ。高価な背広は泥と汗で汚れ、見る影もない。
「奴ら、ウチの倉庫を襲撃したばかりか、麒麟会の代紋も恐れぬ暴れっぷりで……! このままじゃ、組織(ウチら)のメンツは丸潰れですぜ!」
自分たちの悪徳な買い占めは棚に上げ、龍ガ峰組がいかに非道であるかをまくしたてる。
しかし、その必死の訴えも、部屋の奥に座す男には届いていないようだった。
一段高くなった豪奢な寝椅子。
そこで着物姿の妖艶な美女――第一夫人に膝枕をされながら、けだるげに長い煙管(キセル)をふかしている男。
朱雀組組長にして、麒麟会若頭。朱雀恭弥(すざくきょうや)。
「……おい」
低く、ひどく静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。ただそれだけで、部屋の空気が張り詰め、黒ガネ屋の社長がヒッ、と喉を鳴らして口をつぐんだ。
「喚くな。酒が不味くなる」
恭弥は薄く開いた唇から、紫煙を細く吐き出した。
着流しから覗く首筋から胸元にかけて、鮮やかな朱雀の刺青が這っている。極道の凄みと、背筋が凍るような色気を同時に放つ男は言った。
「……龍ガ峰、だったか? 先代が死んで落ちぶれた、あの貧乏組のことか」
「そ、そうです! 若造が頭を張ってる、あの……!」
「……で?」
恭弥はゆっくりと身を起こし、着流しの襟を寛げたまま、足元に這いつくばる社長を見下ろした。
凪いだ水面のような、感情の読めない漆黒の瞳。
「お前、そいつらに負けたのか?」
「ぐっ……! い、いや、あれは奴らが卑怯な手を使いまして! 夜討ちなんて外道の真似を……」
「負け犬が吠えるな。みっともねぇ」
コン。
恭弥が煙管の雁首(がんくび)を、真鍮の灰皿に軽く叩きつけた。
ただそれだけの音で、黒ガネ屋の社長はビクリと肩を跳ねさせ、畳に這いつくばったまま震え出した。
「自分のケツも拭けずに、親(麒麟会)の名前を出して泣きつく。……三流以下だな」
冷酷なまでに短い宣告。
もはや言い訳の余地すら与えられないプレッシャーに、社長は歯の根を合わさずガチガチと震えることしかできなかった。
恭弥は興味を失ったように視線を外し、立ち上がった。
足音もなく窓辺へと歩み寄り、ブラインド越しに帝都の夜景を見下ろす。ガス灯の光が、宝石箱をひっくり返したように瞬いている。
「ま、ウチの庭(シマ)を荒らされた以上、示しがつかねぇのは確かだ」
傍らに歩み寄った第一夫人が、恭弥のグラスに琥珀色の酒を注ぎながら、ふふ、と妖艶に微笑んだ。
「どうするの、あんた? 潰しちゃう?」
恭弥はグラスを受け取り、琥珀色の液体を軽く揺らした。
「……いや。野良犬にしちゃあ、面白い噛みつき方だ」
恭弥の脳裏にあるのは、報告に上がっていた龍ガ峰組の不可解な行動だ。
奪った米を独占せず、適正価格の半額で民衆に売りさばいたという事実。
「ただ奪うだけじゃなく、民衆を味方につけた。あれは無軌道な暴力じゃねぇ。計算式(ロジック)を描いてる奴が裏にいる」
ヤクザのやり方というよりは、狡猾な相場師や商人の手口。
恭弥はグラスを傾けながら、その見えない「盤面」を面白がるように目を細めた。
「それに……『龍』だろ? 四神でもないくせに、デカい名を背負ってる」
麒麟を頂点とし、青龍、朱雀、白虎、玄武を擁する帝都の裏社会。
そこに突如として牙を剥いた、はぐれ者の龍。
「……ただの馬鹿(トカゲ)か、それとも本物の『昇り龍』か」
恭弥の唇の端が、ニヤリと吊り上がった。
退屈を紛らわせる玩具を見つけたような、好戦的で、酷く楽しげな笑みだった。
「顔くらいは拝んでやるよ」
恭弥は残った酒を飲み干すと、背後に控える妻たちへ振り返った。
「……教育(シメ)が必要かどうかは、それからだ。招待状を用意しろ」
帝都の夜は、まだ始まったばかりだ。
朱い鳥の巣で紡がれた蜘蛛の糸が、龍ガ峰組の屋敷へと静かに伸びようとしていた。
深みを増した夜霧の中に、まるでそこだけが異界であるかのように、朱色と金で彩られた巨大な船影が浮かび上がっていた。
帝都最大の極道組織「麒麟会(きりんかい)」。
その直系である朱雀組が根城とする豪華客船、『紅蓮丸(ぐれんまる)』である。
最上階にある特別室は、高級遊郭の艶やかさと、異国から持ち込まれた豪奢な調度品が入り混じる、退廃的で絢爛な空間だった。
床には毛足の長い絨毯が敷き詰められ、部屋のあちこちで、息を呑むほど美しい女性たちが寛いでいる。彼女たちはただの愛人ではない。ある者は杯を傾け、ある者は静かに拳銃(チャカ)のシリンダーを磨く、朱雀組を支える幹部であり――組長の「妻」たちだった。
「――お願いします、朱雀の若頭! 龍ガ峰のガキどもが、ウチのシノギを根こそぎ奪っていきやがったんです!」
甘い香が漂う部屋の中央で、場違いな男の悲鳴が響いた。
額を床に擦り付けているのは、黒ガネ屋の社長だ。高価な背広は泥と汗で汚れ、見る影もない。
「奴ら、ウチの倉庫を襲撃したばかりか、麒麟会の代紋も恐れぬ暴れっぷりで……! このままじゃ、組織(ウチら)のメンツは丸潰れですぜ!」
自分たちの悪徳な買い占めは棚に上げ、龍ガ峰組がいかに非道であるかをまくしたてる。
しかし、その必死の訴えも、部屋の奥に座す男には届いていないようだった。
一段高くなった豪奢な寝椅子。
そこで着物姿の妖艶な美女――第一夫人に膝枕をされながら、けだるげに長い煙管(キセル)をふかしている男。
朱雀組組長にして、麒麟会若頭。朱雀恭弥(すざくきょうや)。
「……おい」
低く、ひどく静かな声だった。
怒鳴ったわけではない。ただそれだけで、部屋の空気が張り詰め、黒ガネ屋の社長がヒッ、と喉を鳴らして口をつぐんだ。
「喚くな。酒が不味くなる」
恭弥は薄く開いた唇から、紫煙を細く吐き出した。
着流しから覗く首筋から胸元にかけて、鮮やかな朱雀の刺青が這っている。極道の凄みと、背筋が凍るような色気を同時に放つ男は言った。
「……龍ガ峰、だったか? 先代が死んで落ちぶれた、あの貧乏組のことか」
「そ、そうです! 若造が頭を張ってる、あの……!」
「……で?」
恭弥はゆっくりと身を起こし、着流しの襟を寛げたまま、足元に這いつくばる社長を見下ろした。
凪いだ水面のような、感情の読めない漆黒の瞳。
「お前、そいつらに負けたのか?」
「ぐっ……! い、いや、あれは奴らが卑怯な手を使いまして! 夜討ちなんて外道の真似を……」
「負け犬が吠えるな。みっともねぇ」
コン。
恭弥が煙管の雁首(がんくび)を、真鍮の灰皿に軽く叩きつけた。
ただそれだけの音で、黒ガネ屋の社長はビクリと肩を跳ねさせ、畳に這いつくばったまま震え出した。
「自分のケツも拭けずに、親(麒麟会)の名前を出して泣きつく。……三流以下だな」
冷酷なまでに短い宣告。
もはや言い訳の余地すら与えられないプレッシャーに、社長は歯の根を合わさずガチガチと震えることしかできなかった。
恭弥は興味を失ったように視線を外し、立ち上がった。
足音もなく窓辺へと歩み寄り、ブラインド越しに帝都の夜景を見下ろす。ガス灯の光が、宝石箱をひっくり返したように瞬いている。
「ま、ウチの庭(シマ)を荒らされた以上、示しがつかねぇのは確かだ」
傍らに歩み寄った第一夫人が、恭弥のグラスに琥珀色の酒を注ぎながら、ふふ、と妖艶に微笑んだ。
「どうするの、あんた? 潰しちゃう?」
恭弥はグラスを受け取り、琥珀色の液体を軽く揺らした。
「……いや。野良犬にしちゃあ、面白い噛みつき方だ」
恭弥の脳裏にあるのは、報告に上がっていた龍ガ峰組の不可解な行動だ。
奪った米を独占せず、適正価格の半額で民衆に売りさばいたという事実。
「ただ奪うだけじゃなく、民衆を味方につけた。あれは無軌道な暴力じゃねぇ。計算式(ロジック)を描いてる奴が裏にいる」
ヤクザのやり方というよりは、狡猾な相場師や商人の手口。
恭弥はグラスを傾けながら、その見えない「盤面」を面白がるように目を細めた。
「それに……『龍』だろ? 四神でもないくせに、デカい名を背負ってる」
麒麟を頂点とし、青龍、朱雀、白虎、玄武を擁する帝都の裏社会。
そこに突如として牙を剥いた、はぐれ者の龍。
「……ただの馬鹿(トカゲ)か、それとも本物の『昇り龍』か」
恭弥の唇の端が、ニヤリと吊り上がった。
退屈を紛らわせる玩具を見つけたような、好戦的で、酷く楽しげな笑みだった。
「顔くらいは拝んでやるよ」
恭弥は残った酒を飲み干すと、背後に控える妻たちへ振り返った。
「……教育(シメ)が必要かどうかは、それからだ。招待状を用意しろ」
帝都の夜は、まだ始まったばかりだ。
朱い鳥の巣で紡がれた蜘蛛の糸が、龍ガ峰組の屋敷へと静かに伸びようとしていた。


