帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

「若ァ! お勤めご苦労様でありやす!!」

 ドスの利いた怒号――ではない、挨拶が夜の帝都に轟いた。人力車から降りた私の目の前には、要塞のような高い塀と、見上げるほど立派な門。そして、門の左右に整列した数十人の強面の男たち。全員が九十度にお辞儀をし、その背中からは龍や虎の刺青が透けて見えそうだった。

(ヒィッ……! ここが処刑場……あるいは闇の競売(オークション)会場……)

 私は顔面蒼白になり、膝が笑うのを必死に堪えた。
生存確率は、限りなくゼロに近い。借金のかたに売られた私のような小娘など、ここでバラされて東京湾の藻屑となるのが関の山だ。

「……来い。俺の『一番大事な場所』へ案内する」

 若頭は私の恐怖など露知らず、満足げに頷くと、私の手をガシッと掴んだ。エスコートのつもりなのだろうが、その力強さは手錠をかけられた犯罪者の連行に近い。

「あ、あの……一番大事な場所とは、その……」
「ああ。誰にも手出しはさせねぇ。厳重に守られた、俺だけの聖域だ」

(なるほど。重要参考人、あるいは最高級の禁制品(ブツ)を保管する地下牢ということですね、わかります)

 私は観念し、彼に引きずられるようにして「龍屋敷」の門をくぐった。

 〇

 通されたのは、地下牢ではなかった。屋敷の最奥にある、離れの客間。
畳のいい香りと、床の間には高価そうな掛け軸。部屋の真ん中には、私が一生かかっても買えないであろう、ふかふかの絹布団が敷かれている。

「ここが、お前の部屋だ」

 蓮は仁王立ちで私を見下ろした。

「何もするな。飯も、着替えも、風呂も、全部若い衆にやらせる。お前はただ、そこで笑っていてくれればいい」

(……出た。「何もしなくていい」という甘い言葉)

 私は瞬時に、その裏に隠された意図を計算する。これは、ただの軟禁ではない。家畜だ。出荷前の牛や豚が、肉質を良くするために運動を禁じられ、高カロリーの餌を与えられるのと同じ。つまり、私は「愛玩動物(ペット)」あるいは「食用」として飼育されるのだ。

「俺はシマの巡回に戻る。……いいか、鈴」

 蓮は部屋を出て行こうとして、ふと足を止めた。
振り返ったその顔は、獲物を狙う猛獣そのもの。

「逃げようなんて思うなよ? この屋敷の警備は、蟻一匹通さねぇからな」

(物理的にも心理的にも、脱出不可能です……!)

 バタン、と重厚な扉が閉められる。私は絹布団の上にへたり込み、天井を見上げた。

「……とりあえず、ふかふかですね」

 この快適さが、逆に怖い。私は枕の下に隠し持ったそろばんを握りしめ、まんじりともせず夜を明かした。

 〇

 翌朝。小鳥のさえずりで目が覚めた。驚くべきことに、夜襲も拷問もなかった。ただひたすらに静かで、快適な朝だった。

「……生きてる」

 私は自分の頬をつねり、生存を確認する。とりあえず、状況を把握しなければ。私は意を決して部屋を出た。

 長い廊下を歩くと、すれ違う強面の男たちが、私を見るなり飛び上がらんばかりに直立不動になる。

「ね、姐(あね)さん! おはようございやす!」
「足元にお気をつけくだせぇ!」
「廊下の雑巾掛け、終わってやす! 滑らねぇように乾拭きも完璧です!」

(過剰……!)

 彼らの目には、私がどう映っているのだろうか。「組長の女」として丁重に扱われているのか、それとも「組長の非常食」として鮮度管理をされているのか。

 居心地の悪さに身を縮めながら歩いていると、ふと、開けっ放しの部屋の前を通りかかった。「帳場(ちょうば)」と書かれた木札が下がっている。どうやら事務室のようだ。

「うう……若(カシラ)……またこんな無駄遣いを……」

 陰気な声が聞こえた。覗き見ると、書類の山に埋もれて、死相を漂わせた男が一人。細身で神経質そうな眼鏡の男だ。確か昨日、副長の佐吉(さきち)と聞いた気が。

「今月の『シノギ(収益)』が……これじゃあ組員の給金が払えねぇ……もう無理だ……死のう……」

 彼の机の上には、ぐちゃぐちゃに積み上げられた帳簿と、桁のおかしい請求書の山。そして、彼の手元にはそろばんがあった。

 カチッ……カチッ……。

(……遅い)

 指の動きが、あまりにも緩慢だった。それだけならいい。初心者にありがちなことだ。だが。

 カチッ……カチッ……チャッ。

(あ)

 私の眉間がピクリと跳ねた。今、彼は五玉(ごだま)を入れるべきところで、一玉(いちだま)を四つ払った。つまり、計算が合っていない。

「……あ、また間違えた。最初からやり直しか……」

 カチッ……カチッ……。

(気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い!)

 背筋にゾワゾワとしたものが走る。黒板を爪で引っ掻く音を聞いたときのような、生理的な不快感。数字の辻褄が合っていない帳簿。非効率な運指。そして、目の前で繰り広げられる「赤字」という名の破滅への行進。

「……あの」

 気づけば、私は部屋に入っていた。恐怖心よりも、数字への執着(職業病)が勝ってしまったのだ。

「ひいっ!? あ、姐さん!? 何か御用で!?」
「そこ、繰り上がりが違います。貸し方の数字が、三円五十銭ズレています」

 私は佐吉の手から、半ば強引に帳簿を奪い取った。パラパラとめくる。その瞬間、私の目は死んだ魚のような目から、獲物を狩る「修羅」の目へと変わったのが自分でも分かった。

(……酷い。支出の記載漏れが十二箇所。高利貸しからの借金の利息計算が間違っている。そもそも、この組織は掛け算もできないのですか……!?)

「ちょっと、どいてください」
「は、はい?」

 私は佐吉を突き飛ばし、自分の懐から愛用の「マイそろばん」を取り出した。使い込まれた黒檀の枠。私の指の一部と言ってもいい相棒だ。私は深く息を吸い、盤面に指を走らせた。

 パチパチパチパチパチパチパチパチ!!!!

「なっ……!?」

 佐吉が驚愕の声をもらす。祖父に揶揄された機関銃(ガドリングガン)のような高速連打。私の指は、正確無比に珠を弾き、死に体の数字たちを次々とあるべき場所へと叩き込んでいく。売掛金の未回収、使途不明金、そして無駄に高い接待交際費。全てが白日の下に晒される。

「おい佐吉、例の件はどうなっ……」

 そこへ、ドカドカと足音が近づいてきた。巡回から帰ってきた蓮だ。

「……あ?」

 蓮が目にしたのは、鬼の形相でそろばんを弾き倒す私と、その横で正座させられ、口をあんぐりと開けている佐吉の姿だった。

 パチリ。

 私が最後の一桁を弾き終え、顔を上げるのと、蓮が部屋に入ってくるのは同時だった。私は眼鏡のブリッジを中指で押し上げる。レンズが、キラーンと冷ややかな光を反射したーーと思う。

「……親分さん」

 私は先ほどまでの怯えた小娘ではない。今は、真実(数字)を告げる審判者だ。

「身請けしていただいた恩義として、一つだけ忠告します」

 私は再計算して真っ赤に染まった帳簿を、蓮の目の前に突きつけた。

「このままだと、あなたの組織――あと十四日で破産(オダブツ)ですよ?」