帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

夜明け前の帝都。
深い霧が立ち込める港を背に、私たちは人気のないガス灯の道を歩いていた。

「いやー、なんとかなったな!恭弥の兄貴、案外話の分かる奴でよかったぜ!」

先ほどまで死線をくぐり抜けていたとは思えないほど、蓮はけろりとした顔で豪快に笑っている。
全身傷だらけだというのに、彼の足取りは驚くほど軽かった。

(……本当に、規格外の体力ですね。人間の致死限界を計算し直した方がいいかもしれません)
私は心中で呆れつつも、安堵の息を長く吐き出した。
朱雀組との極道裁判を無事に乗り切り、破産寸前だった龍ガ峰組は莫大なシノギと強固な後ろ盾を得たのだ。大きな上がりだ。

「親分さん。今回は運が良かっただけです。今後はもっと合理的な――」

私が説教を始めようとした、その直後だった。
グラリ、と。
まるで大木が切り倒されるように、蓮の巨体がドサァッ!と冷たい石畳の上に倒れ込んだのだ。

「えっ……親分さんッ!?」

私の全身から、一瞬にして血の気が引いた。
(まさか、致命傷を負っていた!?)
生存確率が急転直下する音を脳内で聞きながら、私は慌てて彼の傍に駆け寄り、その体を抱き起こそうとした。

「親分さん!しっかりして……!」

悲痛な声を上げた私の耳に、信じられない音が届いた。

「……すー……すー……」
「……え?」
「……むにゃ」

規則正しい、そして酷く気の抜けた寝息。
私は固まった。

「あー……」
少し後ろを歩いていた佐吉さんが、気まずそうに頭を掻く。
「そういや親分、昨日の夜からずっと気が立ってて、一睡もしてなかったんすよ」

「い、一睡も?今日、四神の直参である朱雀組と会うって分かっていたのにですか?まさか、緊張で眠れなかったとでも?」

私の問いに、佐吉さんは盛大に苦笑した。

「いや、『もし交渉が決裂して鈴が狙われたら、俺が全員叩き斬って逃がす』って、一晩中庭で木刀振ってたんすよ。緊張じゃなくて、姐さんを守るための気合が入りすぎて、空回りしたっていうか……」
「……」

(この人、馬鹿ですか……?)
大一番の前に徹夜で素振りをするなど、コンディション管理として最悪だ。非合理的にもほどがある。

「親分重てぇし、俺、大通りまで走って馬車呼んできますわ。姐さん、ちょっと待っててください」
佐吉さんは足早にその場を離れていった。

霧の立ち込めるガス灯の下、私と、熟睡するヤクザのボスだけが取り残される。
いくら規格外とはいえ、こんな冷たい地面に寝かせておけば、傷に障るだろう。

「まったく……。大見得切って勝ったのに、帰りの道中で寝落ちする極道の親分なんて、聞いたことありませんよ」

私はため息をつきながら、そっと蓮の頭を持ち上げ、自分の膝の上に乗せた。
ずしりとした重みと、男の人特有の熱が、着物越しに太ももへと伝わってくる。

私は懐から清潔なハンカチを取り出すと、彼の頬についた血や汚れを、起こさないように優しく拭き取り始めた。
猛獣のような金色の瞳は閉じられ、その寝顔は驚くほど無防備で、あどけない。

「ん……」

不意に蓮が身じろぎした。
彼の手がゴソゴソと動き、私の膝に置かれていた手を、その大きな掌で無意識に包み込む。そのまま、すり寄るように頬ずりをした。

「……すず……かすり傷一つ、つけさせねぇ……」
「……ッ!」

掠れた寝言に、私の手がピタリと止まる。
(どんな時でも、夢の中でさえ……私の心配をしているんですか)

トクン、トクン。
私の心臓が、これまでにない異常な数値を叩き出し始めた。

(……心拍数、血圧上昇、顔面温度の急激な変化……)

私は空いた片手で、自分の熱くなった頬に触れた。

(風邪?いえ、違います。これは……)

自分の胸を満たすこの甘くて苦しい感情を、必死に「計算」で処理しようとする。だが、私が知っているどんな複雑な数式を用いても、この割り切れない感情の答えは出なかった。

(この人の行動はいつも非合理的で、無茶苦茶で、私の計算を狂わせる。……この数日で、私の寿命が一気に縮んだ気がします)

文字通り、不良債権もいいところだ。
けれど。

(……不思議と、損をした気分にはならないんですよね)

私は、重ねられた彼の手を、そっと握り返した。
分厚くて、熱くて、私の命を繋ぎ止めてくれた手。
安心しきった赤子のような蓮の寝顔を見つめ、私は少しだけ嬉しそうに、そして困ったように微笑んだ。

「……おーい!姐さーん!馬車、捕まりましたぜー!」

遠くから、佐吉さんの声と蹄の音が近づいてくる。
私はハッとして、慌てていつものすまし顔を取り繕おうとした。だが、耳まで真っ赤に染まっているであろう熱は、どうしても隠しきれそうにない。

ふと顔を上げると、帝都の空に朝焼けの光が差し込み始めていた。
長く、暗かった夜が明けようとしている。

私の膝の上で眠る「最強の駒」は、いつの間にか、私が絶対に手放したくない「計算外の宝物」へと変わっていた。