帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

蓮は、戦巫女の美しい顔面の数ミリ手前でピタリと止めていた拳を、ゆっくりと下ろした。 張り詰めていた空気が、ふっと弛緩する。

「……これで五分だ」

蓮は肩で荒い息をつきながら、妻たちから数歩距離を取った。
その着物は無残に切り裂かれ、露出した肌には無数の刺し傷や打撲痕が浮かんでいる。頬を伝う鮮血が顎から床へ滴り、誰の目にも彼が満身創痍であることは明らかだった。
しかし、恭弥を見据えるその金色の瞳だけは、勝利を確信したようにぎらぎらと輝いている。

「アンタの条件通り、俺は五体満足で立ってるぜ」

不敵に口角を上げる蓮に対し、恭弥はしばしの沈黙の後、フッと肩を揺らして笑った。

「……よく言うぜ。血だるまじゃねぇか」

恭弥はパンッと一度、乾いた音を立てて手を叩いた。
それを合図に、三人の妻たちは鮮やかな手つきで武器を収め、恭弥の背後へと音もなく退がる。

「合格だ。お前らの言い分、全面的に認めてやる」

その宣言が下った瞬間、ホールの隅で震え上がっていた黒ガネ屋の社長が「あ、ありえない……!」と絶望の声を上げた。
恭弥の視線が、ゴミを見るかのような冷たさで彼を射抜く。

「黒ガネ屋。てめぇは『麒麟会』の看板を私利私欲で汚し、ウチの顔に泥を塗った。……今日をもって破門、追放だ。帝都から消えろ」
「そ、そんな、恭弥の兄貴!お待ちください、私は――ひぃっ!」

弁明の余地すら与えられず、黒ガネ屋は妻たちの冷ややかな視線に晒されながら、黒服の男たちに引きずり出されていった。

「さて……事後処理といこうじゃねぇか」

恭弥は再び蓮と、そして背後でそろばんを握りしめていた私に向き直った。

「まずだ、黒ガネ屋のシノギは全てお前ら『龍ガ峰組』のモノとする。好きに回せ。それから――」
恭弥は煙管を一度くゆらせ、紫煙の向こうから私を見据えた。
「俺たち『朱雀組』は、龍ガ峰組と業務提携を結ぶ。安心しろ、傘下に入れとは言わねぇ。俺の組との『友人』としての付き合い、対等な不可侵条約だ」

(……勝った)
私はそろばんを握りしめたまま、小さくガッツポーズをした。
(計算上、最も利益が大きく、かつ自由を奪われない生存ルート……。親分さん、やりましたよ!)

安堵と歓喜で胸がいっぱいになる私をよそに、恭弥は蓮に一歩歩み寄った。

「……一つ聞かせてくれ。最後の一撃、なんで殴るのをやめた?あれを振り抜いていりゃあ、俺の妻を一人、確実に再起不能にできていたはずだ」

蓮は面倒くさそうに首の後ろをボリボリと掻いた。

「……簡単なことだ。第一に、時間切れだったから。第二に、勝ち条件に『アンタの妻を倒せ』なんて入ってなかった。俺が立ってりゃ合格、それで十分だろ?」
蓮は真っ直ぐに恭弥の目を見た。
「第三に……アンタは俺の敵じゃねぇ。俺は、敵じゃねぇ奴を無闇に殴らねぇよ。それが女なら、なおさらな」

その答えに、恭弥は面白そうに目を細め、意地の悪い笑みを浮かべた。

「……じゃあ、もし敵だったら?仮に守るべき道理のない、本当の『敵』が女なら、殴るのか?」

試すような問いに、蓮は間髪入れずに即答した。

「ボコボコにする」

先ほどまでの「女を傷つける迷い」は微塵もなかった。

「この戦いで、よく分かった。……俺には、どんな手段を使っても守らなきゃいけねぇ『女神(オンナ)』がいる」
(えっ……)

思わぬところで「俺の女」呼ばわりをされ、私は思わず絶句した。

「そいつに指一本触れさせねぇためなら、相手が男だろうが女だろうが、格上だろうが関係ねぇ。……俺は俺の女のために、敵をボコボコにする。それが俺の『極道』だ」

蓮が、ふいに後ろを振り返る。
彼と視線がぶつかり、私は思わず肩をビクッと跳ねさせた。

(私のために……?いえ、命をかけて守ってくれたのは認めますし、非常に嬉しいですけれど……解決方法がやっぱり脳筋すぎませんか……!?全肯定するにしても、もう少しこう、平和的な……)

心中で激しくツッコミを入れながらも、熱を帯びた彼の視線に射抜かれ、胸の奥がトクンと跳ねるのを無視できなかった。

「ハッハッハ!上等だ!いい面構えになったじゃねぇか、龍ガ峰!」

恭弥は紫煙の向こうから、鋭くもどこか嬉しそうな眼光で蓮を射抜く。
「……その言葉、口先だけになるなよ」

恭弥が差し出した手に対し、蓮は自分の血を拭いもせず、力強くその手を握り返した。
帝都を統べる大物と、這い上がってきたばかりの新興勢力。
二人の男の間で、正式な盃にも劣らない盟約が結ばれた瞬間だった。