帝都の裏番長に「運命の女」として身請けされましたが、私はただの売れ残り算術娘です~数字に弱い若頭を、帳簿整理で救ってもいいですか?~

 パチ、パチ、パチ、パチ。

 帝都の不夜城、吉原遊郭。その一角にある「彩雲楼(さいうんろう)」の薄暗い控室に、場違いな音が響いていた。三味線の音でもなければ、男女の艶っぽい睦言でもない。乾いた、無機質な、珠(たま)を弾く音だ。

「……客単価が平均二銭の下落。昨対比で一割二分のマイナス。このままの推移でいくと、私が楼主(オーナー)から『穀潰し』と罵られ、食事を抜かれる公算は――八割五分」

 部屋の隅、行灯(あんどん)の頼りない明かりの下で、私は膝上のそろばんを弾いていた。名は葛城鈴(かつらぎすず)。華やかな遊女たちの中に混ざれば、掃き溜めの鶴ならぬ、花園の雑草。地味な着物に丸眼鏡、色気など薬にしたくともない、売れない遊女である。

「あらあら、鈴ちゃん。またブツブツ言ってるわ」
「数字でお客が釣れるなら苦労しないのにねぇ」

 お義姉さんたちの嘲笑が聞こえるが、気にはならない。彼女たちの言う通り、私はこの華やかな世界における「不良債権」なのだから。父の借金のかたに売られて早数年。愛想笑い一つできず、客の前で帳簿のダメ出しをして怒らせる私を、店が持て余しているのは明白だった。

(そろそろ、潮時ですね。次の身売り先がタコ部屋になる確率も計算しておかないと……)

 そう覚悟を決めた、その時だ。

「おい、鈴! つら貸しな!」

 バン、と襖(ふすま)が乱暴に開けられ、彩雲楼の楼主が顔を真っ赤にして飛び込んできた。酒臭い息と共に、私の腕が力任せに掴まれる。

「ひゃっ!? な、なんですか、藪から棒に」
「今夜は特別だ! お前、『大張り見世』の真ん中に座れ!」
「……はい?」

 私は眼鏡の位置を直し、冷静に計算機(脳みそ)を回した。大張り見世。それは店の顔とも言える、通りに面した格子越しの特等席。そこに座るのは、当世きっての花魁候補と決まっている。

「計算が合いません。私の先月の指名率は、全遊女の中で下から三番目。そんな一等地に私のような不人気商品を陳列すれば、店の坪単価当たりの利益率が著しく低下します」
「うるせぇ御託(ごたく)並べるんじゃねぇ!」

 楼主は私の抗議を一蹴すると、手下を呼んで私を取り囲んだ。

「いいか、今夜『ある御仁』が来るんだ。占い師に『今夜、真ん中に座っている女が運命を変える』お告げさせてとかなんとか……とにかく! お前は黙って座ってりゃいいんだよ!」
「ちょ、眼鏡は返してください! そろばんも商売道具です!」
「やかましいね! 欲張り女!」

 無理やり豪華な打掛(うちかけ)を羽織らされ、白粉(おしろい)を塗りたくられる。眼鏡とそろばんだけは死守し、懐にねじ込んだ。

(……おかしい。いくら占いとはいえ、楼主が損をする賭けに出るはずがない。となると、この『大張り見世』は――何かの囮(おとり)か、あるいは見せしめか)

 私の脳内で、警報が鳴り響く。生存確率、急降下。きな臭い予感しかしなかった。



 絢爛豪華な大張り見世。金屏風の前、煌びやかな衣装を纏った美女たちの中央に、私は小さくなって座っていた。居心地が悪いなんてものではない。通りを行き交う男たちが、「なんだあの地味な女は?」「新手の見世物か?」と奇異の視線を投げかけてくる。

(帰りたい。今すぐあばら屋の隅で複利計算がしたい……)

 その時だった。ざわざわと賑わっていた大通りの空気が、一瞬にして凍りついたのは。人の波が、海が割れるように左右へ開いていく。

「どきな。怪我したくなかったら道を空けるんだな」

 低い、地を這うようなドスの利いた声。現れたのは、派手な羽織を肩にかけた大男だった。荒々しくかき上げた黒髪に、獲物を狙う猛獣のような金色の瞳。顔には一太刀浴びたような古傷。背後には、同じく強面の男たちを何人も引き連れている。

(……ひっ)

 周囲の気温が、体感で五度下がった。帝都の裏社会を牛耳る新興組織、「龍ガ峰組(りゅうがみねぐみ)」。その若き組長、龍ガ峰蓮(れん)。泣く子も黙る、帝都最強の喧嘩屋だ。

(死亡確率急上昇。私がここに座らされた理由は、この男の怒りを引き受けるための『生贄(スケープゴート)』だったのね……!)

 蓮は殺気立った目で張見世を見渡すと――私を見つけた瞬間、ピタリと足を止めた。金色の瞳が、私の眼球を貫かんばかりに見開かれる。

「……ここか」

 彼がゆっくりと近づいてくる。格子越し、あと数センチの距離。私は恐怖で呼吸を止めた。殺される。因縁をつけられ、身ぐるみを剥がされ、東京湾に沈められる確率九割九分!

 その時、蓮が懐に手を突っ込んだ。ドサッ!! と目の前に、分厚い封筒が叩きつけられる。封筒の口から、見たこともない額の札束が覗いていた。

「おい、楼主! この女だ。今すぐ貰っていくぞ」
「……はい?」

 私は間の抜けた声を上げた。命を貰う、という隠語だろうか。

 奥から揉み手をしながら楼主が現れた。

「へい、へい! 毎度ありぃ! こちらの娘でございますね! いやぁ、お目が高い! 実に素晴らしい審美眼で!」
「話が早くて助かるぜ」

 商談が成立している。蓮の手が格子をぶち破らんばかりの勢いで伸びてきて、私の襟首を掴んだ。

「ちょ、お待ちください親分さん! 計算をお間違えでは!?」

 私は必死に、格子にしがみついた。ここで連れて行かれたら終わりだ。最期の足掻きとして、私は論理的説得を試みる。

「よく商品をご覧ください! 私は芸もなければ愛想もない、投資価値ゼロの不良債権です! 費用対効果(コストパフォーマンス)が悪すぎます、品物を間違えていませんか!?」
「ああん?」

 蓮は眉間の皺を深くし、凄みのある顔を近づけてきた。ひいっ、と喉が鳴る。

「うるせぇ! あの占い師と、俺の勘が『お前だ』と言ってんだ! 俺は難しいこたぁ分からねぇが、俺の勘は絶対だ!」
「論理(ロジック)が破綻していますー!?」

 問答無用。蓮は格子を蹴破る勢いで中に入ってくると、私を米俵でも担ぐかのように、軽々と肩に担ぎ上げた。

「きゃあああっ!?」
「暴れるな、落ちるぞ! 行くぞ野郎ども! 戦利品は確保した!」

「「「へい、若(カシラ)ァ!!」」」

 天地が逆さまになる。遠ざかる彩雲楼、ざわめく群衆、そして「厄介払いができた上に大金が入った!」と下卑た笑いを浮かべる楼主の顔が見えた。

(あ、これ、詰みましたわ)

 私の抵抗は虚しく、夜の闇へと連れ去られたのだった。

 〇

 ガタゴト、ガタゴト。龍ガ峰組の本拠地へと向かう人力車の中、私は小さく震えていた。
隣には、腕を組んでふんぞり返る龍ガ峰蓮。
狭い。物理的にも、プレッシャー的にも、圧迫感が凄まじい。

(これからどうなるの? 拷問? それとも、もっと恐ろしい……)

 カタカタと歯を鳴らす私に、ふと影が落ちた。
蓮が、自分の羽織を脱ぎ、乱暴に私の肩にかけたのだ。ごわごわとした生地から、微かに煙草と男性の匂いがする。

「……寒くねぇか?」

 意外なほど、声のトーンが低く、優しかった。
恐る恐る顔を上げると、蓮は気まずそうに視線を逸らし、頬を指で掻いている。

「安心しろ。これからは俺が守ってやる」

 その言葉に、偽りはなさそうだった。しかし、私はその言葉を額面通りには受け取れない。長年の染み付いた習性が、即座に裏の意図を計算し始める。

(守る……? つまり、私が逃げ出さないように監視下に置くということ? あるいは、臓器売買の商品として、鮮度を保つための品質管理……?)

「……おい、鈴。飯は食ったか?腹減ってねぇか?」
「(商品価値を維持するための餌付け……!)」

 蓮は満足げに頷いている。私は懐のそろばんを握りしめ、冷や汗を流しながら呟いた。

「まずは、生存確率の再計算を……」

 勘違いと計算違い。二人の夜は、まだ明けない。