もう一度、深く刺してみてください


 朝焼けが夕方と見間違えるような色をしていた。私たちはテレビ局の軽トラックに乗り込み、かけ直したエンジンの細かな振動を黙って聞いていた。少人数で社会問題を扱うドキュメンタリー企画。冷えた空気の中、電柱から伸びる黒い電線が、空に縫い付けられている糸のように見える。

「あの人たちなんすか、大津さん」
 新人カメラマンの山本君が車の窓越しに言う。数人の高齢男性がゆっくり歩いている。
「散歩じゃないの?」
「今日、日曜ですよ。炊き出しです」
「ああ、たぶん月岡さん正解」

 列は公園の端から伸びていた。白い息、紙コップ、足元を見る目。誰もこちらを見ない。その中で、一人だけ視線をこちらに向けている男がいた。灰色のダウンジャケット、擦り切れた袖口。手に提げたコンビニ袋の底で、金属が鈍く光っている。
「あの人?」
 私は頷いた。
「撮るの?」
「はい」
 カメラが回る。

 男は三島と名乗った。六十五歳。元家具工場勤務。住所はない。皺のよった手だ。
「ソファを包丁かなんかで刺してまわるって聞いてます」
 そう言うと、三島は袋から包丁を取り出した。家庭用の、どこにでもある包丁だ。
「アタリマエのことだろ」
 三島は焦点の合っていない瞳で不思議なほど確かに言う。

 私たちは何度か同行した。粗大ゴミ置き場、路地裏、河川敷。捨てられたソファやクッション、マットレスや布団を見つけると、三島はガタンと膝をつく。ずぶずぶ、と刃を入れる。布が裂け、綿が溢れる。
 中身を確かめる。理由は語らない。最初はただの奇行の記録である。社会の周縁にいる男の理解しがたい習慣。視聴者は笑うか眉をひそめるか、その程度の素材。
「もう少し変わった画が欲しいよ」
 大津さんが言う。
 私は頷いた。

 三週目の朝、廃屋の裏にソファがあるという連絡が入った。解体予定の木造住宅。庭は荒れ、濡れた雑草が足首に絡む。縁側の脇に三人掛けのソファが置かれていた。布が不自然に膨らんでいる。雨を吸った重さとは違う、内側から押し上げられたような丸み。
「いいな。画になるわ」
 大津さんが言う。
 三島は何も言わずしゃがむ。
 私は止めなかった。止める理由がなかった。

 カメラが回る。一刺し目、布が裂ける音。二刺し目、硬い感触。三島の手がわずかに止まる。
「何かある」
 山本君が小さく言う。
「もう一回、深く刺してみてください」
 私は言った。

 三島が刃を押し込む。ぶち、と何かが裂ける。次の瞬間、布地に暗い影が滲んだ。最初は小さな染み。それがじわりと広がり、重く濃い赤へと変わる。内側から押し出されるように、ぬるりと盛り上がる。三島が刃を引き抜くと、裂け目が口のように開き、そこから血が溢れ出した。どろんとした液体が布を伝い、縫い目をなぞり、肘掛けの曲線を越えて垂れ下がる。ぽた、と一滴が落ちる。地面に当たり、黒く弾ける。すぐに次の滴が続く。ぽた、ぽた、と不規則な間隔で落ち、土に吸われきらず粘りを残す。

 裂け目の奥で、何かが動いた。布の隙間から目が覗く。開いたまま、瞬きもせずこちらを見る。山本君が息を呑み、カメラがぶれる。
「やばい」
 誰かが言う。
 三島が包丁を引き抜いた瞬間、血が一気に溢れた。圧を失った赤が堰を切ったように流れ出し、布を濡らし、綿を赤黒く染める。中から、かすれた息が漏れる。まだ生きている。その理解が遅れてやってくる。

 中にいたのは男だった。痩せた体を折り曲げ、ソファの内部に潜り込んでいたらしい。雨を避けたのか、ただ眠っていたのか。刃は胸に入っていた。男の口が開閉する。声にならない空気が震え、裂け目から新しい血がにじむ。温度を持った赤が、ゆっくりと、しかし確実に外へ流れ出る。床に広がった血溜まりが靴底に触れ、じわりと染み込む。鉄の匂いが濃くなる。

「救急車呼ばないと」
 妙に他人事に山本君が言う。
「いいから回せよ」
 大津さんが言う。

 カメラは回り続ける。男の指が布を掴もうとする。爪の隙間に血が入り込み、黒く見えた。動きは弱まり、やがて止まる。それでも血だけは遅れて滴り続ける。ぽた、ぽた、と規則を失った音が続く。数分後、完全に動かなくなった。風の音だけが残る。

 三島がこちらを見る。焦点が合っていない。ガタガタとふるえながら包丁を自分に向けてザクザク刺しはじめた。
頭に強く聞こえる。
「ひとごろし」
 小さく言った。
「ひとごろし!!」
 そして叫ぶ。
「ひとごろし!!」
 それは誰に向けられた言葉か分からなかった。

 救急車が来た。警察も来た。事情聴取、映像提出。事故だと言われた。廃屋に無断で入り込み、ソファの中で眠っていた浮浪者。三島に殺意はなかった可能性が高い、と。だが映像には残っている。
 無意識に声を発していた。
「もう一回、深く刺してみてください」
 私の声だ。この一言がなければ、刃は浅かったかもしれない。

 編集室で素材を確認する。スロー再生。刃が入る瞬間、男の目がレンズ越しにこちらを見る。確かに視線が合う。その直後、音声が割れる。ノイズの奥で、声が重なっている。ひとごろし。ひとごろし。ひとごろし。三島の声ではない。私の声でもない。誰かの声でもなく何度再生しても、そこにある誰かの声。

 今日も炊き出しの列は続いている。人数は一人減っただけだ。私はソファに座る前、必ず叩く。確認する。さきほど、自宅のソファを叩いた。鈍い音がした。柔らかいはずなのに、どこか硬い。もう一度叩く。内側から、わずかに音が返る。呼吸のような、湿った気配。私はしばらく動かなかった。カメラは回っていない。それでも耳の奥で声がする。

 ひとごろし。ひとごろし。ひとごろし。私はまだ、それが誰のものなのか確認していない。