阿鼻叫喚の治療と看病から一夜明けた、翌日の昼下がり。
私の離宮の調合室には、目の下に濃い隈を作った神殿の大神官が、ふらつく足取りで立っていた。
「……照合の結果が、出ました」
彼は血走った目で、一枚の和紙を卓の上に広げた。昨日、私は彼に『清め水の配給名簿』と『顔が爛れた女官の所在』を突き合わせるよう指示を出していたのだ。徹夜で作業をしたのだろう。
「おや。祈るしか能がない集団だと思っていましたが、意外と事務処理能力が高いですね」
「……これでも昔は、経理をしていましたので。それも全ては民のため。……まさか、神聖なる御物が悪用されていたとは、痛恨の極みです」
大神官は深く頭を垂れ、苦渋の表情を浮かべた。どうやら彼もまた、彩と同じく「純粋な善人」であり、それゆえに毒の隠れ蓑として利用されていたらしい。
私は彼が提出した帳簿に視線を落とした。
「なるほど。特定の時期、特定の地域の配給分にのみ、高濃度の重金属が混入している。そして、その毒入りの水を取り扱っていたのは……『豪商・呉田江』」
「はい。神殿に出入りを許されている御用商人の一人です。彼が請け負った輸送の過程で、毒が混入されたとしか……」
犯人の尻尾は、あっさりと掴めた。報告を聞いていた同席の彩が、静かに、しかし強い怒りを帯びた眼差しで立ち上がった。
「……許せません」
「そうですね」
私は手元の『病の覚え書き』を整理しながら、淡々と同意した。
「神殿という権威を利用して毒を運ばせたのですから、面目丸潰れでしょう。これは良い交渉の材料になります。ごっそりと賠償金をふんだくってやりましょうか。治療費も乗せて」
訳もなく損得の計算で語る私に対し、彩は信じられないものを見るように首を横に振った。
「いいえ、お金の問題ではありません!彼は、神殿という存在を騙り、罪なき人々を傷つけたのです」
彩は両手でギュッと拳を握りしめ、真っ直ぐに私を見つめた。
「わたくし自ら赴き、彼に問わねばなりません。なぜ人々の信仰を裏切ったのか。そして、被害に遭ったすべての人々と、神の御名に対して、心からの謝罪をさせたいのです」
その青い瞳には、一点の曇りもなかった。彼女にとっての解決は、「犯人を捕まえて処罰し、金を取り立てる」ことではない。「改心させ、心から謝罪させる」ことなのだ。
「……本気ですか?」
私は思わず手を止めた。
「毒をばら撒くような強欲な商人が、言葉で説かれて本当に改心などできると?」
「その商人さんにも、きっと何か事情があったはずです。貧しくて魔が差したのかもしれないし、誰か恐ろしい者に脅されていたのかもしれない」
彩は胸に手を当て、祈るような、真っ直ぐな瞳で訴えかける。
「まずは捕まえて、話を直接聞きましょう。そして、彼が自分の罪の重さを理解して、被害に遭った方々に心から謝罪すれば……きっと、やり直せるはずです。人は誰でも、光の射す方へ改心できるのですから」
ズキン、と。頭痛とは違う痛みが胸を刺し、私は思わず目を細めた。まるで、直視できない強烈な陽光を真正面から浴びたかのような感覚。
(……ああ、まただ。この人は、本気で言っているんだ)
そこには計算も、自分を善く見せようという偽善もない。彩は本気で「悪人も謝ればわかり合える」と信じているのだ。実の家族から「化け物」と疎まれ、裏切りと侮蔑ばかりを見て育ってきた私にとって、その無垢すぎる精神は理解不能な領域だった。同時にそれは、私の腐った手では決して触れられない「清らかさ」として、網膜を焼き切るほど眩しく映った。
「っ……」
その時、私のこめかみを、鋭い物理的な痛みが貫いた。ズキン、ズキン、と頭蓋骨の裏側で警鐘が鳴る。
(……あぁ、久しぶりですね、この強烈な渇き)
原因は明白だ。昨日、陛下に頭を真っ二つにかち割られ、その再生にかなり体力を消費した。普段ならすぐに陛下から血を頂戴して補給するところだが、彩や患者たちの対応にかまけて、後回しにしていたツケが回ってきたのだ。
「……すみません。少し席を外します。奥の泥膏の煮え具合を確認してきますので」
私は顔色を変えずに嘘をつき、足の震えを隠しながら、ふらつく足取りで部屋の奥の倉庫へと消えた。
○
薄暗く、ひんやりとした倉庫。私は棚の奥に隠しておいた小さな革袋を取り出すと、震える手でその口を開けた。中に入っているのは、鹿や猪の血を塩で固めかけたものだ。陛下と出会う前、領地の森で住んでいた頃に、渇きを癒やすための保存食として常飲していた。
私は革袋に口をつけ、赤黒い液体を喉に流し込んだ。むせ返るような獣の臭いと、酷く錆びついた鉄の味が鼻を抜ける。
「……まずい」
思わず顔をしかめる。以前なら、これでも十分に満足できたはずだった。命を繋ぐにはこれで十分なのだと、自分に言い聞かせてきた。だが、陛下のあの極上の血――力強く、濃厚で、甘美な美酒のような血を知ってしまった今の私には、この獣の血が『泥水』のようにしか感じられなかった。
頭痛はほんの少し和らいだが、身体の奥底で渦巻く「渇き」は全く癒やされない。
(……贅沢な舌になってしまったものね)
自嘲気味にため息をつき、口元についた血を手の甲で拭った、その時だった。
「……何をしている」
背後から、ひどく低く、不機嫌な声が響いた。ビクンと肩が跳ねる。振り返ると、いつの間にか後を追ってきた皇帝陛下が、倉庫の入り口に立っていた。
「おい。そのドブのような匂いの液体はなんだ。……まさか、それを飲んだのか?」
私の離宮の調合室には、目の下に濃い隈を作った神殿の大神官が、ふらつく足取りで立っていた。
「……照合の結果が、出ました」
彼は血走った目で、一枚の和紙を卓の上に広げた。昨日、私は彼に『清め水の配給名簿』と『顔が爛れた女官の所在』を突き合わせるよう指示を出していたのだ。徹夜で作業をしたのだろう。
「おや。祈るしか能がない集団だと思っていましたが、意外と事務処理能力が高いですね」
「……これでも昔は、経理をしていましたので。それも全ては民のため。……まさか、神聖なる御物が悪用されていたとは、痛恨の極みです」
大神官は深く頭を垂れ、苦渋の表情を浮かべた。どうやら彼もまた、彩と同じく「純粋な善人」であり、それゆえに毒の隠れ蓑として利用されていたらしい。
私は彼が提出した帳簿に視線を落とした。
「なるほど。特定の時期、特定の地域の配給分にのみ、高濃度の重金属が混入している。そして、その毒入りの水を取り扱っていたのは……『豪商・呉田江』」
「はい。神殿に出入りを許されている御用商人の一人です。彼が請け負った輸送の過程で、毒が混入されたとしか……」
犯人の尻尾は、あっさりと掴めた。報告を聞いていた同席の彩が、静かに、しかし強い怒りを帯びた眼差しで立ち上がった。
「……許せません」
「そうですね」
私は手元の『病の覚え書き』を整理しながら、淡々と同意した。
「神殿という権威を利用して毒を運ばせたのですから、面目丸潰れでしょう。これは良い交渉の材料になります。ごっそりと賠償金をふんだくってやりましょうか。治療費も乗せて」
訳もなく損得の計算で語る私に対し、彩は信じられないものを見るように首を横に振った。
「いいえ、お金の問題ではありません!彼は、神殿という存在を騙り、罪なき人々を傷つけたのです」
彩は両手でギュッと拳を握りしめ、真っ直ぐに私を見つめた。
「わたくし自ら赴き、彼に問わねばなりません。なぜ人々の信仰を裏切ったのか。そして、被害に遭ったすべての人々と、神の御名に対して、心からの謝罪をさせたいのです」
その青い瞳には、一点の曇りもなかった。彼女にとっての解決は、「犯人を捕まえて処罰し、金を取り立てる」ことではない。「改心させ、心から謝罪させる」ことなのだ。
「……本気ですか?」
私は思わず手を止めた。
「毒をばら撒くような強欲な商人が、言葉で説かれて本当に改心などできると?」
「その商人さんにも、きっと何か事情があったはずです。貧しくて魔が差したのかもしれないし、誰か恐ろしい者に脅されていたのかもしれない」
彩は胸に手を当て、祈るような、真っ直ぐな瞳で訴えかける。
「まずは捕まえて、話を直接聞きましょう。そして、彼が自分の罪の重さを理解して、被害に遭った方々に心から謝罪すれば……きっと、やり直せるはずです。人は誰でも、光の射す方へ改心できるのですから」
ズキン、と。頭痛とは違う痛みが胸を刺し、私は思わず目を細めた。まるで、直視できない強烈な陽光を真正面から浴びたかのような感覚。
(……ああ、まただ。この人は、本気で言っているんだ)
そこには計算も、自分を善く見せようという偽善もない。彩は本気で「悪人も謝ればわかり合える」と信じているのだ。実の家族から「化け物」と疎まれ、裏切りと侮蔑ばかりを見て育ってきた私にとって、その無垢すぎる精神は理解不能な領域だった。同時にそれは、私の腐った手では決して触れられない「清らかさ」として、網膜を焼き切るほど眩しく映った。
「っ……」
その時、私のこめかみを、鋭い物理的な痛みが貫いた。ズキン、ズキン、と頭蓋骨の裏側で警鐘が鳴る。
(……あぁ、久しぶりですね、この強烈な渇き)
原因は明白だ。昨日、陛下に頭を真っ二つにかち割られ、その再生にかなり体力を消費した。普段ならすぐに陛下から血を頂戴して補給するところだが、彩や患者たちの対応にかまけて、後回しにしていたツケが回ってきたのだ。
「……すみません。少し席を外します。奥の泥膏の煮え具合を確認してきますので」
私は顔色を変えずに嘘をつき、足の震えを隠しながら、ふらつく足取りで部屋の奥の倉庫へと消えた。
○
薄暗く、ひんやりとした倉庫。私は棚の奥に隠しておいた小さな革袋を取り出すと、震える手でその口を開けた。中に入っているのは、鹿や猪の血を塩で固めかけたものだ。陛下と出会う前、領地の森で住んでいた頃に、渇きを癒やすための保存食として常飲していた。
私は革袋に口をつけ、赤黒い液体を喉に流し込んだ。むせ返るような獣の臭いと、酷く錆びついた鉄の味が鼻を抜ける。
「……まずい」
思わず顔をしかめる。以前なら、これでも十分に満足できたはずだった。命を繋ぐにはこれで十分なのだと、自分に言い聞かせてきた。だが、陛下のあの極上の血――力強く、濃厚で、甘美な美酒のような血を知ってしまった今の私には、この獣の血が『泥水』のようにしか感じられなかった。
頭痛はほんの少し和らいだが、身体の奥底で渦巻く「渇き」は全く癒やされない。
(……贅沢な舌になってしまったものね)
自嘲気味にため息をつき、口元についた血を手の甲で拭った、その時だった。
「……何をしている」
背後から、ひどく低く、不機嫌な声が響いた。ビクンと肩が跳ねる。振り返ると、いつの間にか後を追ってきた皇帝陛下が、倉庫の入り口に立っていた。
「おい。そのドブのような匂いの液体はなんだ。……まさか、それを飲んだのか?」
