私の離宮――通称『死神の檻』の調合室は、さながら野戦の療養所と化していた。
部屋中に泥膏の悪臭と、煮詰めた薬草の青臭い匂いが充満している。
私は次々と運び込まれる女官たちの爛れた患部に小刀を入れ、膿を掻き出し、容赦なく特製の黒い泥膏を塗りたくっていった。
「ぎゃあああっ!痛い、痛いぃっ!」
「はいはい、動かないで。痛いのは効いている証拠ですよ」
私が淡々と作業を進める横で、意外な人物が文句一つ言わずに立ち働いていた。
「大丈夫です、頑張って。……痛いのは、貴女が生きている証拠ですからね」
暴れる患者の肩をしっかりと押さえ、流れ出る膿や血を、嫌な顔一つせずに手拭いで拭き取っているのは、他でもない聖女・彩(あや)だった。
かける言葉は私と似ているのに、込められた慈愛の響きが全く違う。
(……意外と使えるわね、この子)
その時、凄まじい痛みに耐えかねた一人の女官が、堪えきれずに胃の腑の内容物を吐き戻してしまった。
びちゃり、と嫌な音がして、彩が着ていた神殿の純白の浄衣(じょうい)が、無惨な吐瀉物で汚れる。
「ひっ……!」
「せ、聖女様に何ということを!」
女官が青ざめ、付き従っていた神官たちが色めき立った。神聖な衣を穢されるなど、神殿においては重罪に等しい。
しかし、当の彩は汚れた服を気にする素振りすら見せなかった。
すぐに女官の背中を優しくさすり、持っていた手拭いで口元を丁寧に拭ってやる。
「謝らないでください。服など、洗えば済むことです。それより、誰かお水と新しい布を持ってきて!」
神官たちを叱咤するその声には、一切の計算や保身がなかった。
彼女は汗だくになり、美しい桃色の髪を振り乱しながらも、必死に目の前の命に向き合っている。それはまさしく、一点の曇りもない『本物の善性』そのものだった。
〇
数時間後。一通りの荒療治が終わり、女官たちが別室で眠りについた頃。
私と彩は、調合室の隅でようやく一息ついていた。
私は手桶の水で血と泥を洗い流しながら、横の床にへたり込んでいる彩を盗み見た。服は汚れ、愛らしい顔には煤や泥が飛んでいるが、その青い瞳はやり遂げた達成感に輝いている。
「……聖女様。貴女、意外と根性があるんですね。血と泥を見て、もっと喚いて逃げ出すかと思いました」
私が素直な感想をこぼすと、彩は少しだけむっとしたように唇を尖らせた。
「失礼な。……これでも神殿で、厳しい修行を積みましたから。それに、わたくしは『癒やし手』です。目の前で苦しむ人を見捨てるなんてできません」
彩は真っ直ぐな瞳で私を見つめ返し、やがて少し恥ずかしそうにふわりと微笑んだ。
「それよりも……貴女の技術には驚かされました。わたくしたちの祈りでは届かない深い場所に、貴女の手は届くのですね」
「…………」
私はその言葉に、思わず目を逸らした。
胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。
(……ああ、駄目だ。この子は『本物』だ)
未知の毒への探究心や、事の顛末を見届けたいという知的好奇心。そんな自分の欲と損得を原動力にして動いている私とは、根本的に造りが違う。
私にとって、彩のその一切の曇りがない善意は、直視できないほど眩しく、そしてどこか『恐ろしい』ものに映った。
「でも、不思議です……」
彩は手元の水差しを見つめながら、ポツリとこぼした。
「わたくしが毎日、心を込めて祈りを捧げた清め水が、どうしてあのような恐ろしい毒になってしまったのか……。やはり、わたくしの祈りが足りなかったのでしょうか」
「……その清め水、貴女がご自分で調合したのですか?」
私が尋ねると、彩は不思議そうに首を振った。
「いいえ。神殿の奥にある『聖なる泉』から、大神官様が汲み上げてくださるのです。わたくしはそれに、祝福の祈りを捧げるだけで……」
その瞬間。
私の頭の中で、散らばっていた全ての情報が、完全に一つの絵を結んだ。
(なるほど。この聖女は、ただの『看板』だ)
毒の存在を知らない無垢な聖女に「奇跡の水」として配らせる。そうすれば、誰も疑わない。仮に問題が起きても、「祈りが足りなかった」「本人の信仰心が薄いせいだ」と責任を転嫁できる。
彼女の美しい善意を利用して、後宮に毒をばら撒いている真っ黒な黒幕がいるのだ。
「……そうですか。貴女の祈りが足りなかったわけではなさそうですね」
「え?」
「こっちの話です」
私は立ち上がり、部屋の少し離れた場所で、最初から最後まで腕を組んで事態を静観していた陛下と視線を合わせた。
陛下の金色の瞳が、「分かったか」と問うように細められる。
私は小さく顎を引き、「黒幕の尻尾が見えました」という合図を送った。
眩しすぎる聖女の光。
その背後に、ドス黒くぬかるんだ神殿の闇が広がっていることを、私は確信していた。
部屋中に泥膏の悪臭と、煮詰めた薬草の青臭い匂いが充満している。
私は次々と運び込まれる女官たちの爛れた患部に小刀を入れ、膿を掻き出し、容赦なく特製の黒い泥膏を塗りたくっていった。
「ぎゃあああっ!痛い、痛いぃっ!」
「はいはい、動かないで。痛いのは効いている証拠ですよ」
私が淡々と作業を進める横で、意外な人物が文句一つ言わずに立ち働いていた。
「大丈夫です、頑張って。……痛いのは、貴女が生きている証拠ですからね」
暴れる患者の肩をしっかりと押さえ、流れ出る膿や血を、嫌な顔一つせずに手拭いで拭き取っているのは、他でもない聖女・彩(あや)だった。
かける言葉は私と似ているのに、込められた慈愛の響きが全く違う。
(……意外と使えるわね、この子)
その時、凄まじい痛みに耐えかねた一人の女官が、堪えきれずに胃の腑の内容物を吐き戻してしまった。
びちゃり、と嫌な音がして、彩が着ていた神殿の純白の浄衣(じょうい)が、無惨な吐瀉物で汚れる。
「ひっ……!」
「せ、聖女様に何ということを!」
女官が青ざめ、付き従っていた神官たちが色めき立った。神聖な衣を穢されるなど、神殿においては重罪に等しい。
しかし、当の彩は汚れた服を気にする素振りすら見せなかった。
すぐに女官の背中を優しくさすり、持っていた手拭いで口元を丁寧に拭ってやる。
「謝らないでください。服など、洗えば済むことです。それより、誰かお水と新しい布を持ってきて!」
神官たちを叱咤するその声には、一切の計算や保身がなかった。
彼女は汗だくになり、美しい桃色の髪を振り乱しながらも、必死に目の前の命に向き合っている。それはまさしく、一点の曇りもない『本物の善性』そのものだった。
〇
数時間後。一通りの荒療治が終わり、女官たちが別室で眠りについた頃。
私と彩は、調合室の隅でようやく一息ついていた。
私は手桶の水で血と泥を洗い流しながら、横の床にへたり込んでいる彩を盗み見た。服は汚れ、愛らしい顔には煤や泥が飛んでいるが、その青い瞳はやり遂げた達成感に輝いている。
「……聖女様。貴女、意外と根性があるんですね。血と泥を見て、もっと喚いて逃げ出すかと思いました」
私が素直な感想をこぼすと、彩は少しだけむっとしたように唇を尖らせた。
「失礼な。……これでも神殿で、厳しい修行を積みましたから。それに、わたくしは『癒やし手』です。目の前で苦しむ人を見捨てるなんてできません」
彩は真っ直ぐな瞳で私を見つめ返し、やがて少し恥ずかしそうにふわりと微笑んだ。
「それよりも……貴女の技術には驚かされました。わたくしたちの祈りでは届かない深い場所に、貴女の手は届くのですね」
「…………」
私はその言葉に、思わず目を逸らした。
胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。
(……ああ、駄目だ。この子は『本物』だ)
未知の毒への探究心や、事の顛末を見届けたいという知的好奇心。そんな自分の欲と損得を原動力にして動いている私とは、根本的に造りが違う。
私にとって、彩のその一切の曇りがない善意は、直視できないほど眩しく、そしてどこか『恐ろしい』ものに映った。
「でも、不思議です……」
彩は手元の水差しを見つめながら、ポツリとこぼした。
「わたくしが毎日、心を込めて祈りを捧げた清め水が、どうしてあのような恐ろしい毒になってしまったのか……。やはり、わたくしの祈りが足りなかったのでしょうか」
「……その清め水、貴女がご自分で調合したのですか?」
私が尋ねると、彩は不思議そうに首を振った。
「いいえ。神殿の奥にある『聖なる泉』から、大神官様が汲み上げてくださるのです。わたくしはそれに、祝福の祈りを捧げるだけで……」
その瞬間。
私の頭の中で、散らばっていた全ての情報が、完全に一つの絵を結んだ。
(なるほど。この聖女は、ただの『看板』だ)
毒の存在を知らない無垢な聖女に「奇跡の水」として配らせる。そうすれば、誰も疑わない。仮に問題が起きても、「祈りが足りなかった」「本人の信仰心が薄いせいだ」と責任を転嫁できる。
彼女の美しい善意を利用して、後宮に毒をばら撒いている真っ黒な黒幕がいるのだ。
「……そうですか。貴女の祈りが足りなかったわけではなさそうですね」
「え?」
「こっちの話です」
私は立ち上がり、部屋の少し離れた場所で、最初から最後まで腕を組んで事態を静観していた陛下と視線を合わせた。
陛下の金色の瞳が、「分かったか」と問うように細められる。
私は小さく顎を引き、「黒幕の尻尾が見えました」という合図を送った。
眩しすぎる聖女の光。
その背後に、ドス黒くぬかるんだ神殿の闇が広がっていることを、私は確信していた。
