椿の顔面から毒を吸い出す治療を始めてから、三週間ほどが過ぎた。
季節は少し移ろい、後宮の庭に咲く花々も色を変え始めている。
私の離宮――通称『死神の檻』の調合室には、今日もドブのような泥膏の悪臭が漂っていたが、とある客が一人、優雅にお茶を飲んでいた。
「薬師殿、見てくださる?ほら、頬の痛みがすっかり引いたのよ」
上機嫌に微笑むのは、女官長の椿である。
かつて赤黒く爛れ、膿を浮かべていた彼女の顔は、特製泥膏の激痛に耐え抜いた甲斐あって、今では薄皮が張り、赤みも随分と引いていた。完全に元通りとはいかないが、白粉(おしろい)を薄く叩けば誤魔化せる程度には回復している。
「あの泥、臭いは強烈だけれど効果は本物ね。お礼に、故郷から取り寄せた干菓子を持ってきたの。お口に合うと良いのだけれど」
「ありがとうございます。良い症例を取らせていただいた上に、茶菓子までいただけるとは」
私が素直に礼を言うと、椿は少しだけ声を潜め、周囲を気にするように身を乗り出してきた。
「それでね、わたくし、思い切って古い友人たちにこの話をしてみたの。そうしたら……」
「そうしたら?」
「実は、わたくしと同じように顔が荒れて、部屋に引きこもっている女官が何人もいるのよ。皆、神殿からは『信仰心が足りない』と突き放されて絶望していて……。もしよろしければ、彼女たちも診ていただけないかしら?」
椿は、すがるような目で私を見た。
新たな患者が増えるのは、薬師としては大歓迎だ。様々な毒の進行度合いを観察できる絶好の機会である。
だが、私はふと、ある疑問にぶつかった。
(……解せない)
「椿様。その『聖女の清め水』ですが、後宮の女官はほとんど皆、使っているのですよね?」
「ええ、もちろんよ。陛下に少しでも美しく見ていただくための嗜みだもの。身分の高い妃嬪から下働きの者まで、こぞって買い求めているわ」
「……おかしいですね」
私は顎に手を当てて考え込んだ。
全員が使っているのなら、後宮中の女官の顔が爛れていなければ辻褄が合わない。鉛と水銀の毒は、誰にでも平等に牙を剥くからだ。
なのに、なぜ椿や一部の女官だけに症状が出る?
(毒の濃度にムラがある?いや、あれほど巧みに精製された毒を作る者が、そんな素人じみた失敗をするはずがない。ならば、神殿側が特定の人物を『狙って』高濃度の毒を配っている?……だとしたら目的はなんだ?)
私の意識は、目の前の椿から離れ、完全に思考の内面へと沈み込んでいく。
「薬師殿?どうかなさったの?」
椿が何か言っているが、もはや耳鳴りのような雑音としてしか処理されない。
(いや、意図的な毒殺なら、顔を爛れさせるような迂遠な真似はしないはず。ならば、特定の『体質』の者だけに反応する成分?あるいは、特定の香油や紅との『食い合わせ』で毒性が強まる理が……?)
――……い。
(違う。精製過程で何かが混入した可能性はどうだ。神殿の水を汲み上げる水脈に、元々鉱毒が……)
――……おい、玲。
(うるさいな、今いいところなのに。ええと、水銀の毒性を高める条件としては……)
ガゴッ!!!
唐突に、思考が断絶した。
脳髄を直接揺らされるような重い衝撃。視界が真っ赤に染まり、調合室の天井がぐるりと回転した。
痛みはない。ただ、頭蓋骨が物理的に「パカッ」と割れたような、冬の木枯らしが脳みそを直接撫でるような、ひどく涼しい感覚があるだけだ。
私の体は勢いよく床に転がり、並べていた薄玻璃の薬器をいくつか巻き込んでなぎ倒した。
「ひっ……!?」
椿の短い悲鳴が聞こえる。
私は床に倒れたまま視線を上げた。
そこには、朱塗りの鞘を握りしめた皇帝陛下が、酷く不機嫌な顔で立っていた。彼が愛刀の鞘で、私の頭を力任せにかち割ったらしい。
私の頭部からはダラダラと生温かい血が流れ、床に赤い水溜まりを作っている。おそらく、白い脳髄が少し見えている状態だろう。
すぐに傷口からシュウウウ……と白い蒸気が上がり、砕けた頭蓋骨がパズルを引き寄せ合うように繋がり始める。
「……呼んだぞ、三度もな」
「……おはようございます、陛下。いきなり頭蓋骨を割るとは、随分と斬新な目覚ましですね」
私は血だらけのまま、よっこらせと上半身を起こした。
「無視する方が悪い。……随分と深く沈思していたようだが、何か考え事か?」
陛下は鞘を腰に差し直し、見下ろしてくる。
私は完全に再生した頭を軽く振り、顔の半分を覆っていた血を袖で乱暴に拭った。
「ええ、世界を揺るがす大発見に繋がりそうな、極めて重要な仮説を組み立てていました」
「ほう。で、結論は?」
「今の一撃で、きれいに吹っ飛びました。脳みそごと」
私が真顔で答えると、陛下は「ふっ」と鼻で笑った。
そして、酷く傲慢に、けれどどこか満足げに言い放つ。
「そうか。なら、俺のことを考える隙間が空いたな」
「……本当に、貴方という人は」
私は呆れたようにため息をついた。
ふと視線を横に向けると、女官長の椿が口から泡を吹き、白目を剥いて気絶していた。
皇帝の躊躇なき暴挙と、頭を割られて平然と起き上がる私の不死身の再生を、至近距離で目撃してしまったのだから無理もない。
「あーあ」
私は気絶した椿に一枚布をかけてやると、先ほどまでの思考をすっぱりと切り替えて、目の前にいる「最大の、そして最も手のかかる患者」へと向き直るのだった。
季節は少し移ろい、後宮の庭に咲く花々も色を変え始めている。
私の離宮――通称『死神の檻』の調合室には、今日もドブのような泥膏の悪臭が漂っていたが、とある客が一人、優雅にお茶を飲んでいた。
「薬師殿、見てくださる?ほら、頬の痛みがすっかり引いたのよ」
上機嫌に微笑むのは、女官長の椿である。
かつて赤黒く爛れ、膿を浮かべていた彼女の顔は、特製泥膏の激痛に耐え抜いた甲斐あって、今では薄皮が張り、赤みも随分と引いていた。完全に元通りとはいかないが、白粉(おしろい)を薄く叩けば誤魔化せる程度には回復している。
「あの泥、臭いは強烈だけれど効果は本物ね。お礼に、故郷から取り寄せた干菓子を持ってきたの。お口に合うと良いのだけれど」
「ありがとうございます。良い症例を取らせていただいた上に、茶菓子までいただけるとは」
私が素直に礼を言うと、椿は少しだけ声を潜め、周囲を気にするように身を乗り出してきた。
「それでね、わたくし、思い切って古い友人たちにこの話をしてみたの。そうしたら……」
「そうしたら?」
「実は、わたくしと同じように顔が荒れて、部屋に引きこもっている女官が何人もいるのよ。皆、神殿からは『信仰心が足りない』と突き放されて絶望していて……。もしよろしければ、彼女たちも診ていただけないかしら?」
椿は、すがるような目で私を見た。
新たな患者が増えるのは、薬師としては大歓迎だ。様々な毒の進行度合いを観察できる絶好の機会である。
だが、私はふと、ある疑問にぶつかった。
(……解せない)
「椿様。その『聖女の清め水』ですが、後宮の女官はほとんど皆、使っているのですよね?」
「ええ、もちろんよ。陛下に少しでも美しく見ていただくための嗜みだもの。身分の高い妃嬪から下働きの者まで、こぞって買い求めているわ」
「……おかしいですね」
私は顎に手を当てて考え込んだ。
全員が使っているのなら、後宮中の女官の顔が爛れていなければ辻褄が合わない。鉛と水銀の毒は、誰にでも平等に牙を剥くからだ。
なのに、なぜ椿や一部の女官だけに症状が出る?
(毒の濃度にムラがある?いや、あれほど巧みに精製された毒を作る者が、そんな素人じみた失敗をするはずがない。ならば、神殿側が特定の人物を『狙って』高濃度の毒を配っている?……だとしたら目的はなんだ?)
私の意識は、目の前の椿から離れ、完全に思考の内面へと沈み込んでいく。
「薬師殿?どうかなさったの?」
椿が何か言っているが、もはや耳鳴りのような雑音としてしか処理されない。
(いや、意図的な毒殺なら、顔を爛れさせるような迂遠な真似はしないはず。ならば、特定の『体質』の者だけに反応する成分?あるいは、特定の香油や紅との『食い合わせ』で毒性が強まる理が……?)
――……い。
(違う。精製過程で何かが混入した可能性はどうだ。神殿の水を汲み上げる水脈に、元々鉱毒が……)
――……おい、玲。
(うるさいな、今いいところなのに。ええと、水銀の毒性を高める条件としては……)
ガゴッ!!!
唐突に、思考が断絶した。
脳髄を直接揺らされるような重い衝撃。視界が真っ赤に染まり、調合室の天井がぐるりと回転した。
痛みはない。ただ、頭蓋骨が物理的に「パカッ」と割れたような、冬の木枯らしが脳みそを直接撫でるような、ひどく涼しい感覚があるだけだ。
私の体は勢いよく床に転がり、並べていた薄玻璃の薬器をいくつか巻き込んでなぎ倒した。
「ひっ……!?」
椿の短い悲鳴が聞こえる。
私は床に倒れたまま視線を上げた。
そこには、朱塗りの鞘を握りしめた皇帝陛下が、酷く不機嫌な顔で立っていた。彼が愛刀の鞘で、私の頭を力任せにかち割ったらしい。
私の頭部からはダラダラと生温かい血が流れ、床に赤い水溜まりを作っている。おそらく、白い脳髄が少し見えている状態だろう。
すぐに傷口からシュウウウ……と白い蒸気が上がり、砕けた頭蓋骨がパズルを引き寄せ合うように繋がり始める。
「……呼んだぞ、三度もな」
「……おはようございます、陛下。いきなり頭蓋骨を割るとは、随分と斬新な目覚ましですね」
私は血だらけのまま、よっこらせと上半身を起こした。
「無視する方が悪い。……随分と深く沈思していたようだが、何か考え事か?」
陛下は鞘を腰に差し直し、見下ろしてくる。
私は完全に再生した頭を軽く振り、顔の半分を覆っていた血を袖で乱暴に拭った。
「ええ、世界を揺るがす大発見に繋がりそうな、極めて重要な仮説を組み立てていました」
「ほう。で、結論は?」
「今の一撃で、きれいに吹っ飛びました。脳みそごと」
私が真顔で答えると、陛下は「ふっ」と鼻で笑った。
そして、酷く傲慢に、けれどどこか満足げに言い放つ。
「そうか。なら、俺のことを考える隙間が空いたな」
「……本当に、貴方という人は」
私は呆れたようにため息をついた。
ふと視線を横に向けると、女官長の椿が口から泡を吹き、白目を剥いて気絶していた。
皇帝の躊躇なき暴挙と、頭を割られて平然と起き上がる私の不死身の再生を、至近距離で目撃してしまったのだから無理もない。
「あーあ」
私は気絶した椿に一枚布をかけてやると、先ほどまでの思考をすっぱりと切り替えて、目の前にいる「最大の、そして最も手のかかる患者」へと向き直るのだった。
