翌朝。
私は全身の筋肉が生まれ変わったような爽快感と共に、後宮の回廊を歩いていた。
昨晩、きっちりと「殺されて」再生したおかげで、身体の調子はすこぶる良い。肩凝りも腰痛も消え失せ、肌艶も最高だ。
ただ一つ問題があるとすれば――
「……見た?今朝の陛下。首元に、すごく生々しいキスマークが……」
「見たわ。あの子の着物も、あんなにボロボロになるまで……」
すれ違う侍女や宦官たちが、私を見るなりギョッとして道を空け、ひそひそと噂話をしていることだろうか。
無理もない。客観的に見て、今の私は「事後」そのものだ。
着物はあちこちが裂け、白い肌が露わになっている。
だが、これは激しく愛された乱れではない。激しく斬り殺された名残だ。
陛下の首元を彩る紅い痕だって、情熱的なキスマークなどではない。貧血の私が生存本能で食らいついた、ただの「吸血痕」だ。
(……誤解を解くのも面倒ね)
私は彼らの視線を無視し、自分の離宮――通称『死神の檻』へと足を早めた。
背後から、侍女たちの興奮した声が聞こえてくる。
「陛下があんなに激しく愛されるなんて……」
「可哀想な生贄かと思ったら、とんでもない『傾国の魔性』だったのね」
どうやら私の評価は、「可哀想な生贄」から「陛下を狂わせた悪女」へと勝手に転職してしまったらしい。
まあいい。詮索されるよりは、そう思わせておいた方が都合が良いだろう。
〇
自室に戻った私は、さっそく荷ほどきに取り掛かった。
実家から持ってきた薬草や乳鉢、瑠璃の薬瓶などを棚に並べていく。ここを私の新しい調合室にするのだ。
手際よく道具を整理していると、不意に手元が狂った。
パリンッ。
薄玻璃でできた薬器が床に落ち、粉々に砕け散る。
拾おうとして手を伸ばした瞬間、チクリとした痛みが走った。
「あ、いけない」
指先を見ると、玻璃の破片で薄く皮膚が切れ、プクリと赤い血の玉が滲んでいた。
私にとっては日常茶飯事の、取るに足らない怪我だ。
私は無意識に、その指を口に含んで血を止めようとした。
――その時だった。
背後から、部屋の温度が一気に氷点下まで下がるような、凄まじい殺気が膨れ上がったのは。
「……おい。それはなんだ」
地獄の底から響くような声。
振り返ると、いつの間にか入室していた皇帝陛下が、この世の終わりのような形相で仁王立ちしていた。
その視線は、私の指先の、ほんの数ミリの傷に釘付けになっている。
「?見ての通り、指を切りました。玻璃の破片で」
「誰が許可した?」
「は?許可もなにも、ただの事故ですけど」
私が答えると、陛下は眉間の皺をさらに深くし、大股で歩み寄ってきた。
逃げる間もない。
ドンッ、と背中が壁にぶつかった。退路を断つように、陛下の腕が私の横の壁に突かれる。
以前、異国の書物で『男性が女性を壁に追い詰めて愛を囁く情熱的な所作』だと読んだことがある。だが、目の前の状況にときめきなど一ミリもない。あるのは純度100%の殺意と、狂気的な独占欲だけだ。
陛下は私の手首を万力のように強く掴み上げ、血の滲む指先を睨みつけた。
「ふざけるな。お前の血も、肉も、痛みも、契約期間中は全て俺の所有物だ」
「はあ……」
「俺が斬る以外の方法で、一滴たりとも無駄に流すな。……たかが玻璃風情が、俺の獲物を傷つけるなど、万死に値する」
陛下は本気で激怒していた。
その証拠に、彼は床に散らばっていた破片を、軍靴の踵で粉々に踏み砕いた。
ジャリ、ジャリ、と無機質な音が響く。
ただの無機物相手に何をそんなにムキになっているのか。
(……この人、本当に面倒くさい)
呆れる私をよそに、陛下は掴んでいた私の手首を引き寄せると、あろうことかその傷ついた指先を、自らの口に含んだ。
「……んっ」
熱く湿った舌が、指先の傷口を這う。
滲み出ていた血を舐め取られ、背筋がゾクリと震えた。
それは手当というよりは、マーキングに近い行為だった。
「……陛下、汚いですよ」
「うるさい。俺のものだと言っているだろうが」
陛下は私の指を口から離すと、濡れた唇を親指で拭い、愉悦に満ちた低い声で釘を刺した。
「いいか、よく覚えておけ。転んで擦りむくのも、紙で指を切るのも禁止だ。お前を痛めつけていいのは、世界で俺だけだ」
金色の瞳が、昏い光を宿して私を射抜く。
その瞳には、私以外の何も映っていない。
それは常人なら恐怖で震え上がるような脅し文句だったが、私にとっては妙に心地よく響いた。
少なくとも、この国で最も危険な暴君は、私という存在に執着している。
薬師としては、最高に手のかかる、けれど興味深い「患者」だ。
私は呆れつつも、少しだけ口元を緩めて彼を見返した。
「はいはい、善処します。……本当に、世話の焼く飼い主様ですね」
私の軽口に、陛下は不満げに鼻を鳴らした。
だが、その手はまだ私の手首を離そうとはしなかった。
私は全身の筋肉が生まれ変わったような爽快感と共に、後宮の回廊を歩いていた。
昨晩、きっちりと「殺されて」再生したおかげで、身体の調子はすこぶる良い。肩凝りも腰痛も消え失せ、肌艶も最高だ。
ただ一つ問題があるとすれば――
「……見た?今朝の陛下。首元に、すごく生々しいキスマークが……」
「見たわ。あの子の着物も、あんなにボロボロになるまで……」
すれ違う侍女や宦官たちが、私を見るなりギョッとして道を空け、ひそひそと噂話をしていることだろうか。
無理もない。客観的に見て、今の私は「事後」そのものだ。
着物はあちこちが裂け、白い肌が露わになっている。
だが、これは激しく愛された乱れではない。激しく斬り殺された名残だ。
陛下の首元を彩る紅い痕だって、情熱的なキスマークなどではない。貧血の私が生存本能で食らいついた、ただの「吸血痕」だ。
(……誤解を解くのも面倒ね)
私は彼らの視線を無視し、自分の離宮――通称『死神の檻』へと足を早めた。
背後から、侍女たちの興奮した声が聞こえてくる。
「陛下があんなに激しく愛されるなんて……」
「可哀想な生贄かと思ったら、とんでもない『傾国の魔性』だったのね」
どうやら私の評価は、「可哀想な生贄」から「陛下を狂わせた悪女」へと勝手に転職してしまったらしい。
まあいい。詮索されるよりは、そう思わせておいた方が都合が良いだろう。
〇
自室に戻った私は、さっそく荷ほどきに取り掛かった。
実家から持ってきた薬草や乳鉢、瑠璃の薬瓶などを棚に並べていく。ここを私の新しい調合室にするのだ。
手際よく道具を整理していると、不意に手元が狂った。
パリンッ。
薄玻璃でできた薬器が床に落ち、粉々に砕け散る。
拾おうとして手を伸ばした瞬間、チクリとした痛みが走った。
「あ、いけない」
指先を見ると、玻璃の破片で薄く皮膚が切れ、プクリと赤い血の玉が滲んでいた。
私にとっては日常茶飯事の、取るに足らない怪我だ。
私は無意識に、その指を口に含んで血を止めようとした。
――その時だった。
背後から、部屋の温度が一気に氷点下まで下がるような、凄まじい殺気が膨れ上がったのは。
「……おい。それはなんだ」
地獄の底から響くような声。
振り返ると、いつの間にか入室していた皇帝陛下が、この世の終わりのような形相で仁王立ちしていた。
その視線は、私の指先の、ほんの数ミリの傷に釘付けになっている。
「?見ての通り、指を切りました。玻璃の破片で」
「誰が許可した?」
「は?許可もなにも、ただの事故ですけど」
私が答えると、陛下は眉間の皺をさらに深くし、大股で歩み寄ってきた。
逃げる間もない。
ドンッ、と背中が壁にぶつかった。退路を断つように、陛下の腕が私の横の壁に突かれる。
以前、異国の書物で『男性が女性を壁に追い詰めて愛を囁く情熱的な所作』だと読んだことがある。だが、目の前の状況にときめきなど一ミリもない。あるのは純度100%の殺意と、狂気的な独占欲だけだ。
陛下は私の手首を万力のように強く掴み上げ、血の滲む指先を睨みつけた。
「ふざけるな。お前の血も、肉も、痛みも、契約期間中は全て俺の所有物だ」
「はあ……」
「俺が斬る以外の方法で、一滴たりとも無駄に流すな。……たかが玻璃風情が、俺の獲物を傷つけるなど、万死に値する」
陛下は本気で激怒していた。
その証拠に、彼は床に散らばっていた破片を、軍靴の踵で粉々に踏み砕いた。
ジャリ、ジャリ、と無機質な音が響く。
ただの無機物相手に何をそんなにムキになっているのか。
(……この人、本当に面倒くさい)
呆れる私をよそに、陛下は掴んでいた私の手首を引き寄せると、あろうことかその傷ついた指先を、自らの口に含んだ。
「……んっ」
熱く湿った舌が、指先の傷口を這う。
滲み出ていた血を舐め取られ、背筋がゾクリと震えた。
それは手当というよりは、マーキングに近い行為だった。
「……陛下、汚いですよ」
「うるさい。俺のものだと言っているだろうが」
陛下は私の指を口から離すと、濡れた唇を親指で拭い、愉悦に満ちた低い声で釘を刺した。
「いいか、よく覚えておけ。転んで擦りむくのも、紙で指を切るのも禁止だ。お前を痛めつけていいのは、世界で俺だけだ」
金色の瞳が、昏い光を宿して私を射抜く。
その瞳には、私以外の何も映っていない。
それは常人なら恐怖で震え上がるような脅し文句だったが、私にとっては妙に心地よく響いた。
少なくとも、この国で最も危険な暴君は、私という存在に執着している。
薬師としては、最高に手のかかる、けれど興味深い「患者」だ。
私は呆れつつも、少しだけ口元を緩めて彼を見返した。
「はいはい、善処します。……本当に、世話の焼く飼い主様ですね」
私の軽口に、陛下は不満げに鼻を鳴らした。
だが、その手はまだ私の手首を離そうとはしなかった。
