不死身の悪女は、殺人衝動を持つ皇帝陛下に毎晩殺されたい~66日間の溺愛契約~

それは、今から七日前の出来事だ。
皇城へと向かう馬車の中は、棺桶のように薄暗かった。
窓の外は冷たい雨が降りしきり、車輪が泥を跳ね上げる音が、まるで処断を告げる太鼓のように響いている。

(……揺れるわね。これでは調合の続きができないじゃない)

私は揺れる車内で、膝の上に置いた往診鞄を大事に抱え直した。
これから「生贄」として皇帝の元へ嫁ぐというのに、私の頭の中は新薬のことでいっぱいだった。
私の名は月白玲。
実家の伯爵家では「忌み子」として扱われてきた。
生まれつきの色素の薄い白髪と、不吉な赤い瞳。そして何より、どんな傷も一瞬で塞がるという「化け物」じみた体質。
家族は私を気味悪がり、領地の森の奥にある小屋へ幽閉した。けれど、私にとってそれは幸運だった。森には貴重な薬草が群生していたからだ。
私は独学で薬学を極め、自分の不死身の身体を実験台にあらゆる毒と薬を試し続けた。
今や私の血肉は、この世のあらゆる毒に対する抗体と、未知の薬効で満ちている。

(噂によれば、皇帝陛下は「痛みを感じない奇病」と「抑えきれない殺人衝動」に苦しんでいるとか)

普通なら震え上がる話だ。だが、薬師である私にとっては違う。
それは、未だかつてない「極上の症例」だ。
懐には、完成したばかりの紫色の小瓶が入っている。
『反魂の秘薬』。
私の最高傑作。これを飲ませれば、陛下の特異体質を根底から覆せるはずだ。
問題は、どうやってあの暴君にこれを飲ませるかだが――まあ、なんとかなるだろう。貴重な臨床データのためなら、腕の一本や二本、安いものだ。



通されたのは、寝室という名の「処刑場」だった。
豪奢な絨毯は赤黒く変色し、破壊された調度品の残骸が散らばっている。空気には鉄錆のような血の臭いが充満していた。
その惨状の中心に、彼はいた。

皇帝・紫堂焔。

玉座のような椅子に深く腰掛けた彼は、この世の者とは思えない美貌を持っていたが、その金色の瞳は淀んでいた。

「……新しい夜伽か。随分と貧相だな」

投げつけられたのは、値踏みするような冷徹な声。
殺気。圧倒的な死の気配が肌を刺す。
けれど私は、そんなことよりも彼の顔色が気になった。

「お初にお目にかかります。月白家の玲と申します。……陛下、顔色が優れませんね」
「あ?」
「目の下のクマ、浅い呼吸、それに指先の震え。吐き気と目眩がおありでは?典型的な中毒症状……いえ、禁断症状に近いですね」

私は挨拶もそこそこに歩み寄り、懐から小瓶を取り出した。
ドロリとした紫色の液体が、瓶の中で揺れる。

「特効薬を作ってきました。これを飲めば、その『呪い』は治せます」
「…………」

陛下の目が、すうっと細められた。
興味ではない。あれは、汚物を見る目だ。

「……くだらん。貴様も俺を毒殺しに来た刺客か」
「はい?毒ではありません、薬です。色は少々食欲を減退させますが――」
「黙れ」

陛下がゆらりと立ち上がった。
その手には、いつの間にか抜き身の日本刀が握られている。

「説明を聞いてください、この薬は――」

ザシュッ!!

言葉は、物理的に断ち切られた。
視界が天と地に分かれる。
鋭い熱が鎖骨から脇腹へ走り、私の身体は抗う間もなく床に叩きつけられた。
手から滑り落ちた小瓶が、カランと虚しい音を立てて転がる。

「ふん……他愛ない」

頭上から、興味を失った声が降ってくる。
人を一人斬り捨てておいて、彼はまるで羽虫でも払ったかのような態度だ。だが、その殺気は少しだけ落ち着いている。殺すことで発散したのだろうか。

(ああ、もう……!)

私は床に突っ伏したまま、激しい怒りを覚えた。
痛いからではない。殺されたからでもない。
小瓶の蓋が緩み、貴重な薬液が数滴、床にこぼれてしまったからだ。

「……中身が少し、こぼれちゃったじゃないですか」
「……は?」

陛下が刀を納めようとした手が止まる。
私は血溜まりの中でむくりと上半身を起こした。
傷口からシュウウウ……と蒸気が上がり、ブチブチと音を立てて肉が再生していく。切断された血管が繋がり、白い肌が元通りに修復される様を、陛下は目を見開いて凝視していた。

「き、貴様……なんだ、それは」
「再生には体力をすごく使うんです。……ああ、お腹が空いた」

強烈な渇きが喉を焼く。
私の身体は、再生の対価として他者の生命力を欲する。
目の前には、ちょうど手頃な「加害者」が呆然と立っている。

「弁償してください。……貴方の血で」
「なっ――」

私は床を蹴り、無防備な陛下の胸に飛び込んだ。
驚愕に固まる彼の首筋に腕を回し、躊躇なくその喉元に噛み付く。
牙を突き立て、熱い血を啜る。
ドクン、ドクンと脈打つ奔流が、私の身体に流れ込んでくる。

「ぐ、う……っ!?」

陛下が呻き声を上げた。だが、私を引き剥がそうとする力は弱い。
それもそうだ。痛みを感じない彼にとって、私の吸血は苦痛ではない。むしろ、頭に上っている血が程よく抜けているのではないだろうか。

チュウ、とひと際強く吸い上げ、私はようやく口を離した。
口元を拭い、荒い息を吐きながら彼を見上げる。
陛下は壁に背を預け、首筋の噛み跡を手で覆いながら、信じられないものを見る目で私を見ていた。

「……化け物め」
「お互い様でしょう、殺人鬼様」

私は床に落ちていた小瓶を拾い上げ、再び彼に突きつけた。

「いいですか、よく聞いてください。この薬は、貴方の呪いをきれいさっぱり反転させるものです。ただし、完治には『六十六日』かかります」
「六十、六日……?」
「ええ。その間、貴方の殺人衝動はなくならないでしょう。薬が効くまでは、発作的に人を殺したくなるはずです」

私は、自分が斬られたばかりの、血濡れの着物を指差した。

「ですから、その間は私が殺され役になります。いくら斬っても死にませんから、はけ口には最適でしょう?」
「…………」

陛下はしばらく沈黙し、それから低く、狂ったように喉を鳴らして笑い出した。
その瞳に宿っていた濁りは消え、代わりに獲物を見つけた猛獣のような、獰猛な光が宿る。

「……面白い。殺しても死なない女か。……いいだろう、その提案乗ってやる」

彼は私の手から強引に小瓶を奪い取ると、獰猛な笑みを浮かべた。

「ただし、治らなかったらその時は――本当に跡形もなく消し炭にしてやるから覚悟しろ」
「ええ、構いませんよ」

私はニッコリと、営業用の完璧な笑みを返した。

「私の薬は完璧ですから」

これが、私たちの殺し合いと治療の日々の始まりだった。