視界が、ゆっくりと赤黒い靄に覆われていく。
呉田江商会、隠し通路の奥。私は自身の血だまりの中に沈んでいた。
「玲様!玲様っ!お願いです、傷よ塞がって……っ!」
聖女・彩の悲痛な叫びが、遠くから聞こえるような気がした。
彼女は気を動転させながら、血溜まりに沈んだ私にすがりつき、聖杖の輝きを必死に押し当てている。
暖かな、あふれんばかりの治癒の奇跡。
しかし、私の傷口は一向に塞がる気配を見せない。きっと、どれだけ光を注いでも、私の顔色は土気色のままだろう。
(……諦めてください、聖女様。あなたの祈りでは、私には届かない)
自分の腹部に開いた風穴と、そこから溢れる臓腑の熱さ。
激痛の中で、私は極めて冷静に思考を巡らせていた。
(あなたの奇跡の効きが悪いのは、あなたのせいではありません。当たり前なのです。だって私は、『■■■■』なのだから)
聖なる光は、人間には慈悲をもたらすが、私との相性は最悪だ。彼女が必死になればなるほど、私の身体は拒絶反応を起こしかけている。
(腹部を貫通した裂傷。そして傷口から侵入し、細胞を腐らせる高濃度の瘴気。この二つの致命傷に対し、私の身体の『再生力』が必死に抗っている)
治した端から、瘴気が肉を腐らせていく。
再生と腐敗の鼬ごっこ。膨大な体力を消費するだけで、傷口は一向に塞がらない。完全な拮抗状態だ。このままでは、再生力が尽きた瞬間に私は腐敗して終わるだろう。
これを打破する理屈は簡単である。
彩が「治癒」ではなく「浄化」に魔力を集中させ、先に瘴気を取り除いてくれれば、私の再生力が勝るはずだ。
私はそれを伝えようと口を開いた。
「…………、あ、……」
しかし、空気の漏れる音がしただけだった。
喉の奥が熱く、感覚がない。
(……ああ、やはり。声帯と唇が、瘴気で腐り落ちていますか。これでは指示が出せませんね)
仕方がない。私は自分の死を、受け入れることにした。
それは、熱に耐えきれずひび割れた薬釜を眺めるような、不思議な感覚だった。
強いて言うならば、これほど希少な瘴魔獣の素材を目の前にして、回収もできずに朽ち果てる。なんと勿体ない最期だろうか。それだけが心残りだ。
意識が急速に、深く暗い底へと沈んでいく。
(……ここまでですか)
視界が黒く塗り潰される、その間際だった。
コツ、と。
血だまりの中に、静かな足音が響いた。
「……どけ、聖女。お前の温い光ではコイツは治らん」
彩が乱暴に払いのけられる気配がした。
代わりに私の視界を覆ったのは、獣を一刀両断した返り血に濡れた、陛下だった。
彼は片膝をつき、唇が焼け爛れ、声も出せない無惨な私の顔を覗き込んだ。
……なんなのだろう。この顔は。
そこにあるのは、所有物を勝手に壊されたような、静かで理不尽な怒りだ。それは分かる。彼はそういう支配者だ。
けれど、それだけではない。
金色の瞳の奥底で揺らめいている、あの暗く、重苦しい熱は何だ?
焦燥?執着?いや、そのような言葉では片づけられない、得体の知れない感情がそこにあった。私はその表情の意味を、これまでの人生のどこを探しても見つけることができなかった。
「俺はいつ、お前に盾になれと命じた?」
「…………」
「勝手に計算して、勝手に俺の所有物(おまえ)を壊すな。……不愉快だ」
声が出せない私に対し、陛下は血に濡れた手を冷たい頬に添えた。
逃げ場を奪うように、金色の瞳が私を射抜く。
そして。
彼は一切の躊躇なく、自らの愛刀を逆手に持ち、自身の腕を深く斬り裂いた。
プツリ、と皮膚が裂ける音。
痛覚を持たない彼は表情一つ変えない。
どくどくと溢れ出す濃厚な皇帝の血を、彼は私の腐りかけた口元へと強引に押し当てた。
私の唇を介して、彼の腕が焼き爛れていく音が伝わる。でも彼は眉一つ動かさない。
「飲め。俺の血を一滴残らず啜り尽くせ」
鉄の味。
そして、喉の奥が焼け焦げるような熱さ。
口内へ流れ込んできたのは、ただの液体ではない。
彼の規格外の生命力が凝縮された、「究極の劇薬」だった。
(……ッ!?)
冷え切った私の細胞が、爆発的に燃え上がる。
熱い。痛いほどに熱い。
暴力的なまでの「生」が全身を駆け巡り、蝕んでいた瘴気を強引に押し流していく。
彩の清らかな光よりもずっと激しく、眩しい。
「ん、ぐ……っ、ん……ッ」
「玲、お前は勘違いをしている。お前がいつ死ぬか、誰のために傷つくか、その決定権は全て俺にある」
陛下は腕を押し当てたまま、低く告げた。
「お前の命は俺のものだ。俺が許さない限り、勝手に死ぬことは許さん」
爛れた唇に押し当てられた、血まみれの腕。
それは決して美しくはない、むしろ猟奇的ですらある光景だったろう。
しかし、視界が鮮明さを取り戻していく中で、私は自分に覆い被さるように血を与え続ける陛下の姿に、抗いようのない「絆」を感じていた。
それは、呪縛に近い。
(……ああ、なんて理不尽で、強引な人だ)
でも、この血は、とても――。
(……甘い)
私の喉が反射的に動き、ドクドクと拍動する陛下の「生」を貪欲に飲み干していく。
私は、私の細胞は、暴力的なまでにこの方の血を求めて疼いていた。
死にかけていたはずの指先が、この方の熱をもっと知りたくて、震えながら持ち上がる。
(……陛下)
傷が凄まじい勢いで塞がっていく中、私は微かに、陛下の腕を握り返した。
呉田江商会、隠し通路の奥。私は自身の血だまりの中に沈んでいた。
「玲様!玲様っ!お願いです、傷よ塞がって……っ!」
聖女・彩の悲痛な叫びが、遠くから聞こえるような気がした。
彼女は気を動転させながら、血溜まりに沈んだ私にすがりつき、聖杖の輝きを必死に押し当てている。
暖かな、あふれんばかりの治癒の奇跡。
しかし、私の傷口は一向に塞がる気配を見せない。きっと、どれだけ光を注いでも、私の顔色は土気色のままだろう。
(……諦めてください、聖女様。あなたの祈りでは、私には届かない)
自分の腹部に開いた風穴と、そこから溢れる臓腑の熱さ。
激痛の中で、私は極めて冷静に思考を巡らせていた。
(あなたの奇跡の効きが悪いのは、あなたのせいではありません。当たり前なのです。だって私は、『■■■■』なのだから)
聖なる光は、人間には慈悲をもたらすが、私との相性は最悪だ。彼女が必死になればなるほど、私の身体は拒絶反応を起こしかけている。
(腹部を貫通した裂傷。そして傷口から侵入し、細胞を腐らせる高濃度の瘴気。この二つの致命傷に対し、私の身体の『再生力』が必死に抗っている)
治した端から、瘴気が肉を腐らせていく。
再生と腐敗の鼬ごっこ。膨大な体力を消費するだけで、傷口は一向に塞がらない。完全な拮抗状態だ。このままでは、再生力が尽きた瞬間に私は腐敗して終わるだろう。
これを打破する理屈は簡単である。
彩が「治癒」ではなく「浄化」に魔力を集中させ、先に瘴気を取り除いてくれれば、私の再生力が勝るはずだ。
私はそれを伝えようと口を開いた。
「…………、あ、……」
しかし、空気の漏れる音がしただけだった。
喉の奥が熱く、感覚がない。
(……ああ、やはり。声帯と唇が、瘴気で腐り落ちていますか。これでは指示が出せませんね)
仕方がない。私は自分の死を、受け入れることにした。
それは、熱に耐えきれずひび割れた薬釜を眺めるような、不思議な感覚だった。
強いて言うならば、これほど希少な瘴魔獣の素材を目の前にして、回収もできずに朽ち果てる。なんと勿体ない最期だろうか。それだけが心残りだ。
意識が急速に、深く暗い底へと沈んでいく。
(……ここまでですか)
視界が黒く塗り潰される、その間際だった。
コツ、と。
血だまりの中に、静かな足音が響いた。
「……どけ、聖女。お前の温い光ではコイツは治らん」
彩が乱暴に払いのけられる気配がした。
代わりに私の視界を覆ったのは、獣を一刀両断した返り血に濡れた、陛下だった。
彼は片膝をつき、唇が焼け爛れ、声も出せない無惨な私の顔を覗き込んだ。
……なんなのだろう。この顔は。
そこにあるのは、所有物を勝手に壊されたような、静かで理不尽な怒りだ。それは分かる。彼はそういう支配者だ。
けれど、それだけではない。
金色の瞳の奥底で揺らめいている、あの暗く、重苦しい熱は何だ?
焦燥?執着?いや、そのような言葉では片づけられない、得体の知れない感情がそこにあった。私はその表情の意味を、これまでの人生のどこを探しても見つけることができなかった。
「俺はいつ、お前に盾になれと命じた?」
「…………」
「勝手に計算して、勝手に俺の所有物(おまえ)を壊すな。……不愉快だ」
声が出せない私に対し、陛下は血に濡れた手を冷たい頬に添えた。
逃げ場を奪うように、金色の瞳が私を射抜く。
そして。
彼は一切の躊躇なく、自らの愛刀を逆手に持ち、自身の腕を深く斬り裂いた。
プツリ、と皮膚が裂ける音。
痛覚を持たない彼は表情一つ変えない。
どくどくと溢れ出す濃厚な皇帝の血を、彼は私の腐りかけた口元へと強引に押し当てた。
私の唇を介して、彼の腕が焼き爛れていく音が伝わる。でも彼は眉一つ動かさない。
「飲め。俺の血を一滴残らず啜り尽くせ」
鉄の味。
そして、喉の奥が焼け焦げるような熱さ。
口内へ流れ込んできたのは、ただの液体ではない。
彼の規格外の生命力が凝縮された、「究極の劇薬」だった。
(……ッ!?)
冷え切った私の細胞が、爆発的に燃え上がる。
熱い。痛いほどに熱い。
暴力的なまでの「生」が全身を駆け巡り、蝕んでいた瘴気を強引に押し流していく。
彩の清らかな光よりもずっと激しく、眩しい。
「ん、ぐ……っ、ん……ッ」
「玲、お前は勘違いをしている。お前がいつ死ぬか、誰のために傷つくか、その決定権は全て俺にある」
陛下は腕を押し当てたまま、低く告げた。
「お前の命は俺のものだ。俺が許さない限り、勝手に死ぬことは許さん」
爛れた唇に押し当てられた、血まみれの腕。
それは決して美しくはない、むしろ猟奇的ですらある光景だったろう。
しかし、視界が鮮明さを取り戻していく中で、私は自分に覆い被さるように血を与え続ける陛下の姿に、抗いようのない「絆」を感じていた。
それは、呪縛に近い。
(……ああ、なんて理不尽で、強引な人だ)
でも、この血は、とても――。
(……甘い)
私の喉が反射的に動き、ドクドクと拍動する陛下の「生」を貪欲に飲み干していく。
私は、私の細胞は、暴力的なまでにこの方の血を求めて疼いていた。
死にかけていたはずの指先が、この方の熱をもっと知りたくて、震えながら持ち上がる。
(……陛下)
傷が凄まじい勢いで塞がっていく中、私は微かに、陛下の腕を握り返した。
