不死身の悪女は、殺人衝動を持つ皇帝陛下に毎晩殺されたい~66日間の溺愛契約~

戦闘が終了した隠し通路の奥で、私は忙しく立ち回っていた。

「素晴らしい。魔力による肉体の変異、その経過観察に最適です」

私は大人しくなった瘴魔獣の周囲をウロウロし、懐から取り出した巻尺で牙の長さを測ったり、巨大な注射器で少し血を抜いたりして大はしゃぎしていた。
南方の秘術によって作られた獣。これを生きたまま持ち帰れば、どれほどの新薬が開発できるだろうか。

「陛下、帰りの馬車にこいつを繋いでいきましょう。餌は週に一度、罪人の肉で十分なはずです」
「……勝手にしろ」

陛下は私の提案に生返事で答え、奪い取った「腕輪」を調べていた。
普段は万事に退屈そうにしている彼が、珍しく眉間に深い皺を寄せ、腕輪に刻まれた意匠を食い入るように見つめている。

(……陛下のあんな険しい顔は珍しいですね。ただの装飾品ではない?何か、見覚えのある術式なのでしょうか)

一方、少し離れた場所では、彩が右腕を失った呉田江の止血を終え、彼と正面から向き合っていた。

「……さあ、呉田江どの。その腕輪を誰から受け取ったのですか?後宮に毒を撒くよう指示した黒幕は誰なのですか」
「あ、あれは……」

観念した呉田江が、震える唇を開く。

「帝都の……貴族街に屋敷を構える……ッ」

彼が核心を口にしようとした、その時だった。
陛下の掌にある腕輪と、瘴魔獣の首にはめられた首輪が、同時に不吉な赤光を明滅させ始めた。
ブォン、ブォン、と魔力が暴走する音が響く。

「チッ、口封じか……!」

何か気づいた陛下が、舌打ちと共に腕輪を放り投げた。
直後、バキィン!!という甲高い音と共に、宙を舞った腕輪と、獣の首輪が同時に砕け散った。

「グルァアアアアアッ!!」

支配の軛が外れ、首輪の爆発で喉元を焼かれた瘴魔獣が、苦痛と狂乱の咆哮を上げた。
撒き散らされる濃密な瘴気。
その混乱の隙を突き、呉田江が動いた。

「ひっ、あ、あばよッ!!」

彼は目の前にいた彩を乱暴に突き飛ばし、自分だけ助かろうと出口へ向かって走り出したのだ。
彩を肉の盾にして、時間を稼ぐつもりだ。
だが、狂乱した獣は、逃げる背中を見逃すほど甘くはなかった。

バシュッ。
湿った音がして、呉田江の上半身が消し飛んだ。
瘴魔獣の鋭い爪が、彼を背後から薙ぎ払ったのだ。悲鳴を上げる間もなく、呉田江だったものは肉塊となって壁に叩きつけられ、猛毒の瘴気に侵されてジュワジュワと腐り落ちていった。
あまりにあっけない、欲深き商人の末路だった。

「きゃあっ!?」

突き飛ばされた彩は床に無様に転がり、その衝撃で手から「聖杖」が遠くへ弾き飛ばされてしまった。
途端に、私たちを瘴気から守っていた浄化の結界が霧散する。
彼女は完全に無防備な状態で、狂乱した獣の目の前に投げ出された形だ。

「グルルゥ……ッ!」

血走った四つの目が、次なる標的として彩を捉える。
陛下は腕輪を調べるために離れた位置にいた。すでに疾駆しているが、あの距離では獣の爪が彩に届く方が早い。
誰もが、聖女の死を覚悟した瞬間。

私は、誰よりも速く地面を蹴っていた。

脳内にあるのは、美しい自己犠牲精神などではない。
極めて冷徹で、利己的な「損得勘定」のみ。

(ここで対瘴気防壁役である聖女が死ねば、周囲は猛毒の海になる!)
(そうなれば、苦労して回収した麻袋の中の希少素材が、瘴気汚染で全て無駄になる!)
(撤退戦になれば、私が持ち帰れる成果はゼロだ!)

聖女の命などどうでもいい。だが、私の「利益」が損なわれるのは万死に値する。

(陛下は間に合わない。だが、私が盾になれば……私の身体なら、一撃くらいは耐えられる可能性がある!)
(今ここで、最も生存確率と利益が高い選択肢は――私が庇うことだ!!)

「伏せてくださいッ!」

私は彩に覆い被さるようにして飛び込んだ。
直後、背中に焼きごてを押し当てられたような衝撃が走った。

ドスッ、という鈍い音。
獣の巨大な爪が、私の背中を深々と引き裂いたのだ。

「が、ふッ……」
「玲様ぁぁ――――――――ッ!」

鮮血が舞い、私の身体が吹き飛ばされる。
激痛が押し寄せる意識の中で、彩の悲痛な叫び声が聞こえた。
……ああ、初めて名前を呼ばれたな。そんな場違いな感想が脳裏をよぎる。

私が血だまりの中に崩れ落ちた、その直後だった。

一陣の暴風が吹き荒れた。
音を置き去りにしたような神速の閃光。
陛下が、獣の懐に到達していた。

その顔には、怒りも、焦りも、何一つ浮かんでいなかった。
あるのは、恐ろしいほどの無表情。
ただ、金色の瞳だけが、全てを震え上がらせるほどの冷気を帯びて光っている。

轟――――。

風切り音すらしない、洗練された一太刀。
陛下の手にある刀が、一切の躊躇なく一閃する。

獣の巨体が硬直したかと思うと、ズレるように首が両断され、ドス黒い血の雨を降らせて崩れ落ちた。
断末魔の叫びすら上げさせない。
先ほどまでの手加減が嘘のような、圧倒的な瞬殺劇だった。

絶命した巨大な獣の横で、陛下は冷たく刃の血振りをし、カチンと刀を鞘に納めた。
そして無言のまま、背中から血を流して倒れている私を見下ろしている。

静まり返った室内。
彩の啜り泣く声だけが、虚しく響いていた。