解き放たれた四ツ目の瘴魔獣が、耳を劈く咆哮とともに、その巨大な顎を開いた。
吐き出されたのは、視界を遮るほどの濃密な「漆黒の瘴気」だ。
石の床がジュワジュワと泡を立てて溶け、中庭の植栽が瞬く間に枯れ果てていく。吸えば肺が腐り落ちる、死の吐息である。
「駄目です、陛下!その息を吸ってはなりません!」
正面から突っ込もうとした陛下を制するように、聖女・彩が慌てて前に躍り出た。
彼女が高く掲げた聖杖から、眩いばかりの「浄化の光」が放たれる。
光は半球状の結界となり、我ら一行を包み込む防壁となって瘴気を弾いた。
「……チッ。いちいち前へ出るな、邪魔くさい」
陛下が忌々しげに舌打ちをする。
痛覚を持たない彼は、多少皮膚が爛れようとも構わず突撃するつもりだったのだろう。彩の献身的な防衛支援は、彼にとっては攻撃の拍子を狂わせる余計なお世話でしかないようだ。
○
光の結界に守られながら、陛下は瘴魔獣の懐に飛び込み、白刃を振るう。
しかし、獣は巨体に似合わぬ俊敏さでそれを躱し、尽きることのない殺意で襲い掛かる。皮膚が硬く、浅い傷なら瞬時に塞がる再生能力まで持っているようだ。
「陛下!言いましたよね、脳髄と肝臓は薬の触媒になるので無傷でと!」
私は安全な結界の中から身を乗り出し、両手を口元に添えて叫んだ。
「頭をカチ割ったり、胴体を真っ二つにするのは禁止です!素材の価値が下がります!」
「……ふざけるな。ならどうやって殺せと言うんだ、あのヤブ医者め!」
暴れ狂う獣を相手に、急所攻撃を禁じられた陛下が苛立ちを露わにする。
至極もっともな怒りだが、こちらも譲れない。傷物の臓器など、三文の価値もないのだから。
私は戦況を見守りつつ、ふと視線を奥へと向けた。
そこには、商人・呉田江が立っている。
無差別に毒の瘴気が撒き散らされ、獣が暴れ回っているというのに、彼は逃げる素振りすら見せず、余裕の笑みを浮かべていた。
(……おかしいですね。なぜ彼は平気なのでしょうか)
魔法による防壁は見当たらない。魔力を帯びた護符の気配もない。
私の眼が、呉田江の装身具を捉えた。
右腕にはめられた、不気味な紋様が刻まれた「腕輪」。そして獣の首に巻かれた、それと対になる意匠の「首輪」。
二つの輪が、呼吸を合わせるように微かに明滅している。
(……なるほど。獣が彼を襲わず、瘴気が彼を避けるのは、あの装飾品の加護ですか)
支配の術式。絡繰りが分かれば、対処は単純だ。
「陛下!獣の相手は後回しです!商人の右腕ごと『腕輪』を切り落とし、支配権を奪ってください!」
「支配?……、なるほどな!」
「大いなる光よ、邪悪を祓いたまえ……っ!」
私の指示に陛下が即座に反応し、同時に彩が聖杖に祈りを込める。
放たれた強烈な閃光が炸裂し、瘴魔獣が一瞬だけ怯んで視界を奪われた。
光で獣が怯んだ一瞬の隙。
陛下は爆発的な脚力で地を駆け、呉田江の懐へと飛び込んだ。
「えっ?」
商人が間抜けな声を上げた瞬間、銀色の刃が閃く。
ひゅん、と。
腕輪のついた右腕が、宙を舞う。
「ぎゃああああああっ!?」
鮮血が噴き出し、絶叫して床に転げ回る呉田江。
陛下は宙を舞った右腕から腕輪を抜き取り、冷たい目で見下ろした。
「これは……」
陛下が何かを怪しむように目を細めたが、すぐに興味を失ったようだ。
腕輪の持ち主が陛下に移ったことで、瘴魔獣はピタリと動きを止め、彼の前に犬のように平伏した。
「さて。片付いたな」
陛下がトドメを刺そうと、刀を高く振り上げた。
「待ってください陛下!殺しては駄目です!!」
私は血相を変えて結界から飛び出した。
「……は?お前が脳髄やら肝臓やらを寄越せと言ったんだろうが」
「それは『倒すしかない場合』の話です!」
私は叫びながら、懐から巨大な採血用注射器と、採寸用の巻尺を取り出した。
「生きたまま手に入ったのなら、定期的に希少な毒を採取し放題ですし、再生能力の生体観察もできる『生きた宝物庫』じゃないですか!」
「……」
「さあ、まずは体長と牙の長さを測りましょう。一日にどれほどの毒を生成できるか、代謝の記録もつけなくては」
私は大人しくなった巨大な獣に駆け寄り、嬉々としてその体を撫で回し始めた。
素晴らしい。皮膚の弾力、筋肉の付き方、どれをとっても一級品だ。これが毎日観察できるなんて、夢のようだ。
「無用な殺生が避けられて良かったです……」
彩も胸をなでおろしている。
一方、腕を失い、絶対の切り札も奪われた呉田江は、彩に止血の手当てをされながら、完全に戦意を喪失してその場にへたり込んでいた。
己の切札だった恐ろしい魔獣を、まるで愛玩動物でも見るかのような目で慈しむ私の姿を見て、彼はただ深く項垂れた。
「……悪魔だ」
その掠れた声は、誰の耳にも届くことはなかった。
吐き出されたのは、視界を遮るほどの濃密な「漆黒の瘴気」だ。
石の床がジュワジュワと泡を立てて溶け、中庭の植栽が瞬く間に枯れ果てていく。吸えば肺が腐り落ちる、死の吐息である。
「駄目です、陛下!その息を吸ってはなりません!」
正面から突っ込もうとした陛下を制するように、聖女・彩が慌てて前に躍り出た。
彼女が高く掲げた聖杖から、眩いばかりの「浄化の光」が放たれる。
光は半球状の結界となり、我ら一行を包み込む防壁となって瘴気を弾いた。
「……チッ。いちいち前へ出るな、邪魔くさい」
陛下が忌々しげに舌打ちをする。
痛覚を持たない彼は、多少皮膚が爛れようとも構わず突撃するつもりだったのだろう。彩の献身的な防衛支援は、彼にとっては攻撃の拍子を狂わせる余計なお世話でしかないようだ。
○
光の結界に守られながら、陛下は瘴魔獣の懐に飛び込み、白刃を振るう。
しかし、獣は巨体に似合わぬ俊敏さでそれを躱し、尽きることのない殺意で襲い掛かる。皮膚が硬く、浅い傷なら瞬時に塞がる再生能力まで持っているようだ。
「陛下!言いましたよね、脳髄と肝臓は薬の触媒になるので無傷でと!」
私は安全な結界の中から身を乗り出し、両手を口元に添えて叫んだ。
「頭をカチ割ったり、胴体を真っ二つにするのは禁止です!素材の価値が下がります!」
「……ふざけるな。ならどうやって殺せと言うんだ、あのヤブ医者め!」
暴れ狂う獣を相手に、急所攻撃を禁じられた陛下が苛立ちを露わにする。
至極もっともな怒りだが、こちらも譲れない。傷物の臓器など、三文の価値もないのだから。
私は戦況を見守りつつ、ふと視線を奥へと向けた。
そこには、商人・呉田江が立っている。
無差別に毒の瘴気が撒き散らされ、獣が暴れ回っているというのに、彼は逃げる素振りすら見せず、余裕の笑みを浮かべていた。
(……おかしいですね。なぜ彼は平気なのでしょうか)
魔法による防壁は見当たらない。魔力を帯びた護符の気配もない。
私の眼が、呉田江の装身具を捉えた。
右腕にはめられた、不気味な紋様が刻まれた「腕輪」。そして獣の首に巻かれた、それと対になる意匠の「首輪」。
二つの輪が、呼吸を合わせるように微かに明滅している。
(……なるほど。獣が彼を襲わず、瘴気が彼を避けるのは、あの装飾品の加護ですか)
支配の術式。絡繰りが分かれば、対処は単純だ。
「陛下!獣の相手は後回しです!商人の右腕ごと『腕輪』を切り落とし、支配権を奪ってください!」
「支配?……、なるほどな!」
「大いなる光よ、邪悪を祓いたまえ……っ!」
私の指示に陛下が即座に反応し、同時に彩が聖杖に祈りを込める。
放たれた強烈な閃光が炸裂し、瘴魔獣が一瞬だけ怯んで視界を奪われた。
光で獣が怯んだ一瞬の隙。
陛下は爆発的な脚力で地を駆け、呉田江の懐へと飛び込んだ。
「えっ?」
商人が間抜けな声を上げた瞬間、銀色の刃が閃く。
ひゅん、と。
腕輪のついた右腕が、宙を舞う。
「ぎゃああああああっ!?」
鮮血が噴き出し、絶叫して床に転げ回る呉田江。
陛下は宙を舞った右腕から腕輪を抜き取り、冷たい目で見下ろした。
「これは……」
陛下が何かを怪しむように目を細めたが、すぐに興味を失ったようだ。
腕輪の持ち主が陛下に移ったことで、瘴魔獣はピタリと動きを止め、彼の前に犬のように平伏した。
「さて。片付いたな」
陛下がトドメを刺そうと、刀を高く振り上げた。
「待ってください陛下!殺しては駄目です!!」
私は血相を変えて結界から飛び出した。
「……は?お前が脳髄やら肝臓やらを寄越せと言ったんだろうが」
「それは『倒すしかない場合』の話です!」
私は叫びながら、懐から巨大な採血用注射器と、採寸用の巻尺を取り出した。
「生きたまま手に入ったのなら、定期的に希少な毒を採取し放題ですし、再生能力の生体観察もできる『生きた宝物庫』じゃないですか!」
「……」
「さあ、まずは体長と牙の長さを測りましょう。一日にどれほどの毒を生成できるか、代謝の記録もつけなくては」
私は大人しくなった巨大な獣に駆け寄り、嬉々としてその体を撫で回し始めた。
素晴らしい。皮膚の弾力、筋肉の付き方、どれをとっても一級品だ。これが毎日観察できるなんて、夢のようだ。
「無用な殺生が避けられて良かったです……」
彩も胸をなでおろしている。
一方、腕を失い、絶対の切り札も奪われた呉田江は、彩に止血の手当てをされながら、完全に戦意を喪失してその場にへたり込んでいた。
己の切札だった恐ろしい魔獣を、まるで愛玩動物でも見るかのような目で慈しむ私の姿を見て、彼はただ深く項垂れた。
「……悪魔だ」
その掠れた声は、誰の耳にも届くことはなかった。
