不死身の悪女は、殺人衝動を持つ皇帝陛下に毎晩殺されたい~66日間の溺愛契約~

バシャッ、と湿った音が、薄暗い倉庫に響いた。私の手から乱暴にひったくられた革袋が、床に投げ捨てられた音だ。口から溢れた赤黒い獣の血が、石畳に無惨な飛沫を散らす。

「……こんなドブのような臭いのする血で、渇きをごまかすつもりか」

低い、地を這うような声。陛下は、私の顎を強く掴んで上向かせると、至近距離から鋭く睨みつけた。金色の瞳が、ゆらりと揺れている。

「なぜ俺を呼ばなかった。限界が来る前に、なぜ俺の元へ来ない?俺とお前は『契約』を結んでいるはずだ」

その剣幕に、私は冷静さを取り戻した頭で思考を巡らせた。怒気が孕んだ声。眉間に刻まれた深い皺。……なるほど。彼がここまで不機嫌になるのも無理はない。

(陛下は、身の回りの一切を一級品で固めなければ気が済まない、生粋の支配者だものね)

契約を結んだ以上、彼は私を自分の所有物であり、己を生かすための重要な「剣」のようなものだと思っているのだろう。つまり手入れの行き届いた名刀に、そこら辺の安物の錆止め油を塗ろうとすれば、持ち主は当然不快感を覚えるのと同じ考え方だ。
私が獣の血という「粗悪な代用品」で安易に妥協し、渇きをごまかそうとした姿そのものが、彼の審美眼と契約相手としての矜持を傷つけたのだ。

「……失礼しました」

私は悪びれることなく、自らの非礼を認めるように淡々と告げた。

「陛下のような審美眼を持つ方の前で、こんな粗悪な代用品で済ませようなど、無作法でしたね」
「……あ?」
「契約を結んだ以上、私は常に『陛下の血』に見合う存在でなければならない。安易な妥協は、貴方の契約相手としての『格』に関わる、そういうことでしょう?」

へりくだるわけでもなく、あくまで対等な契約者として、私は背筋を伸ばして謝罪した。仕方がない。薬師として、品質管理を怠ったことは私の落ち度だ。

私の言葉を聞いた陛下は、一瞬だけ虚を突かれたように目を見開いた。唇がわずかに開き、何かを言いかけようとする。その金色の瞳が揺れ、喉元まで出かかった言葉を、無理やり飲み込むような動きを見せた。

(……おや、まだお怒りかしら?)

私が小首を傾げると、陛下は深い、呆れ果てたような溜息を一つ吐き出した。

「……屁理屈はいい」

結局陛下は何も言い返さず、自らの親指の腹を、鋭い犬歯でプチリと噛み破った。プクリと、鮮やかな鮮血の珠が浮かぶ。鉄錆のような獣の血とは違う、甘く芳醇な香りが漂い、私の喉がゴクリと鳴った。

「契約にあったはずだ。『対価として血を与える』とな。……俺の血以外で、その渇きを満たすことは許さん」

陛下は血の滲む親指を、私の唇に強引に押し当てた。そこから感じられるのは、有無を言わせぬ命令と、奇妙な焦燥感だ。私は「契約ならば仕方ない」と(そして何より勿体ないと思い)、差し出された指に舌を這わせた。

「ん……っ」

口内に広がるのは、先程の獣の血とは比べ物にならない、濃厚で甘美な鉄の味。安酒と年代物のワインほどの差がある。いや、それ以上だ。ひと舐めするだけで、身体の芯からカッと熱が広がり、こめかみを締め付けていた頭痛が一瞬で消え去っていく。

(……ああ、やっぱり。悔しいけれど、美味しい)

私は陛下の親指を吸い上げ、溢れ出る生命力を余すことなく飲み干した。ドクン、ドクンと、彼から流れ込む熱が、私の欠けた部分を埋めていく。それは食事であり、治療であり、そして何よりも濃密な癒しだった。

「…………」

十分に血を吸って満足し、私がゆっくりと唇を離すと、陛下はその親指で私の口元を荒っぽく拭った。

「……少しは顔色が戻ったな」
「はい。おかげさまで万全です。やはり陛下の血は、どんな高価な薬よりも即効性がありますね」
「……口の減らないヤブ医者め」

陛下はフンと鼻を鳴らし、わずかに口角を上げて苦笑した。その表情には、先ほどまでの刺々しい怒りはなく、どこか憑き物が落ちたような安堵が滲んでいるように見えた。もちろん、気のせいだろうけれど。

「行くぞ。栄養補給は済んだんだろう?」

陛下は私の手を引き、倉庫の出口へと促した。その手つきは乱暴だが、握る力加減は驚くほど優しい。金色の瞳が、獲物を狙う猛獣のように鋭く細められる。

「なら、例の商人のところへ『集金』に行くぞ」
「ええ、喜んで」

私は綺麗に拭われた口元に、好戦的な笑みを浮かべて頷いた。完全復活した薬師と、最強の暴君。さて、聖女を利用し、宮中を毒で満たした不届き者に、相応の「治療費」を請求しに行くとしよう。