煌牙帝国の支配者が眠る寝室は、無駄に広くて豪奢だ。
高い天井から吊るされた照明は落とされているが、巨大な窓から差し込む月光だけで十分に明るい。
その蒼白い光の中で、私は優雅に椅子に腰掛け、難解な薬学書をめくっていた。
カチ、カチ、カチ
先ほどから背後で、硬質な音がリズムを刻んでいる。
指先で日本刀の鍔を叩く音だ。それも、かなりイラついたテンポで。
振り返らなくてもわかる。私の背後には今、この国で最も美しく、そして最も危険な男――皇帝・紫堂焔が立っている。抜き身の刃を構え、今にも爆発しそうな殺気を垂れ流しながら。
「……陛下。殺気、漏れすぎです。集中できないんですけど」
私は本から視線を外さずに、ため息交じりに言った。
背中を針で刺されるような剣幕に、これ以上無視を決め込むのは不可能だった。
「うるさい。限界なんだよ。……おい、そろそろいいか?」
低く、地を這うような声。
まるで飢えた獣の唸り声だが、その響きはどこか艶っぽく、聞く者を戦慄させると同時に陶酔させるカリスマ性を感じる。
けれど、今の私にとって重要なのは、彼の美声よりも目の前の記述だ。
「あと三行でこの章が終わるので、待ってください」
「俺の殺人衝動より本を優先するな!」
ごもっともな理屈と共に、風切り音が鳴る。
ザシュッ!!
熱い衝撃が背中を走り、視界がぐらりと揺れた。
袈裟懸けに斬られた衝撃で、私の身体は前のめりに崩れ――ることはなく、体幹だけでなんとか姿勢を保つ。けれど、読んでいたページに鮮血が散ってしまった。
「あーあ」
私はぱたりと本を閉じた。
背中から肩口にかけて、骨ごと断ち切られた感触がある。普通なら即死、良くても激痛でショック死する深手だ。
けれど、私には些末なことである。
傷口からはシュウウウ……と、肉を焼くような音が上がり、白い蒸気が立ち昇る。断裂した血管が勝手に結びつき、肉が盛り上がり、斬られた着物の布地を押しのけて皮膚が塞がっていく。
「いきなり斬らないでくださいよ。血で読めなくなったらどうするんですか」
「知るか。……あー、すっきりした」
振り返ると、陛下は湯上がりのようにさっぱりとした顔で、刀についた血糊を拭っていた。
先ほどまでのドス黒い殺気は霧散し、その絶世の美貌には清々しいまでの満足感が浮かんでいる。人を一人斬り殺した(正確には殺し損ねた)直後だというのに。
私は懐から手鏡を取り出し、自分の顔色を確認した。
案の定、紙のように白い。
(……貧血ね。あれだけ出血すれば当然か)
再生能力は便利だが、失った血液までは戻ってこない。
私は立ち上がると、ぱっくりと裂けた着物の背中など気にも留めず、陛下へと歩み寄った。
「はい、私の仕事(処刑される役)は終わりました。次は陛下が支払う番です」
「……チッ。わかってるよ」
陛下は面倒くさそうに舌打ちをしたが、拒絶はしなかった。
慣れた手付きで漆黒の寝間着の襟元を寛げ、白くなめらかな首筋をこちらに差し出す。
そこには、力強く脈打つ頸動脈が浮き上がっている。
私はそれを労働に対する「当然の権利」として受け取り、背伸びをして彼の首に噛み付いた。
ずくん、と甘美な音が脳髄に響く。
柔らかい皮膚を犬歯で貫き、溢れ出す生命の滴を啜る。
皇帝の血は、濃厚で、暴力的で、何よりも美味だった。喉を通るたびに、冷え切っていた私の身体に熱が戻り、常に頭痛で苛まれていた思考がクリアになっていく。
「……お前、今日は吸う力が強くないか?」
「んぐ……昨日の失血分を取り戻さないと……ぷはっ」
行儀悪く喉を鳴らして飲み下し、私はようやく口を離した。
口元を手の甲で拭いながら見上げると、陛下がわずかにふらついた。
痛みを感じない「無痛症」の彼だが、血液を大量に抜かれれば生理的な反応は避けられないらしい。
「よっと」
「……触るな、ヤブ医者。自分で立てる」
倒れそうになった長身を支えようとしたが、悲しいかな、身長差がありすぎて私のほうが潰れそうになる。
陛下は私の肩に体重を預けることでバランスを取り、私たちは千鳥足の酔っ払いのようにふらつきながら、天蓋付きのベッドへと辿り着いた。
「はい、本日の治療薬。一気飲みでお願いします」
床頭台には、あらかじめ用意しておいた盃がある。中身は、毒々しい紫色に濁った液体だ。
陛下はベッドに腰掛け、盃を睨みつけるように受け取った。
「……相変わらずドブのような味の、これか」
「良薬口に苦しです。これで治療開始から七日目。完治まであと五十九日ですね」
顔をしかめながらも、彼は一息に飲み干した。
空になったグラスがテーブルに戻されると、それが合図だったかのように、私たちは一つのベッドへと潜り込む。
シーツは私の着物についた血で少し汚れてしまったが、今更気にする神経は二人とも持ち合わせていない。
陛下は長い腕を伸ばすと、私を抱き枕のように強引に引き寄せた。
「……陛下、近いです。暑い」
文句を言ってみるが、拘束は緩まない。
彼は独占欲の塊であり、同時に、他人の体温を感じていないと眠れない寂しい生き物なのだろう。私の身体は、彼にとって都合の良い精神安定剤なのだ。
「俺の勝手だ。……寝ろ」
「はいはい。おやすみなさい、殺人鬼様」
「ああ。いい夢を見ろよ、ヤブ医者」
耳元で聞こえる心臓の音は、驚くほど穏やかだ。
この二人は、こうして毎晩殺し合ってから、泥のような眠りにつく。
高い天井から吊るされた照明は落とされているが、巨大な窓から差し込む月光だけで十分に明るい。
その蒼白い光の中で、私は優雅に椅子に腰掛け、難解な薬学書をめくっていた。
カチ、カチ、カチ
先ほどから背後で、硬質な音がリズムを刻んでいる。
指先で日本刀の鍔を叩く音だ。それも、かなりイラついたテンポで。
振り返らなくてもわかる。私の背後には今、この国で最も美しく、そして最も危険な男――皇帝・紫堂焔が立っている。抜き身の刃を構え、今にも爆発しそうな殺気を垂れ流しながら。
「……陛下。殺気、漏れすぎです。集中できないんですけど」
私は本から視線を外さずに、ため息交じりに言った。
背中を針で刺されるような剣幕に、これ以上無視を決め込むのは不可能だった。
「うるさい。限界なんだよ。……おい、そろそろいいか?」
低く、地を這うような声。
まるで飢えた獣の唸り声だが、その響きはどこか艶っぽく、聞く者を戦慄させると同時に陶酔させるカリスマ性を感じる。
けれど、今の私にとって重要なのは、彼の美声よりも目の前の記述だ。
「あと三行でこの章が終わるので、待ってください」
「俺の殺人衝動より本を優先するな!」
ごもっともな理屈と共に、風切り音が鳴る。
ザシュッ!!
熱い衝撃が背中を走り、視界がぐらりと揺れた。
袈裟懸けに斬られた衝撃で、私の身体は前のめりに崩れ――ることはなく、体幹だけでなんとか姿勢を保つ。けれど、読んでいたページに鮮血が散ってしまった。
「あーあ」
私はぱたりと本を閉じた。
背中から肩口にかけて、骨ごと断ち切られた感触がある。普通なら即死、良くても激痛でショック死する深手だ。
けれど、私には些末なことである。
傷口からはシュウウウ……と、肉を焼くような音が上がり、白い蒸気が立ち昇る。断裂した血管が勝手に結びつき、肉が盛り上がり、斬られた着物の布地を押しのけて皮膚が塞がっていく。
「いきなり斬らないでくださいよ。血で読めなくなったらどうするんですか」
「知るか。……あー、すっきりした」
振り返ると、陛下は湯上がりのようにさっぱりとした顔で、刀についた血糊を拭っていた。
先ほどまでのドス黒い殺気は霧散し、その絶世の美貌には清々しいまでの満足感が浮かんでいる。人を一人斬り殺した(正確には殺し損ねた)直後だというのに。
私は懐から手鏡を取り出し、自分の顔色を確認した。
案の定、紙のように白い。
(……貧血ね。あれだけ出血すれば当然か)
再生能力は便利だが、失った血液までは戻ってこない。
私は立ち上がると、ぱっくりと裂けた着物の背中など気にも留めず、陛下へと歩み寄った。
「はい、私の仕事(処刑される役)は終わりました。次は陛下が支払う番です」
「……チッ。わかってるよ」
陛下は面倒くさそうに舌打ちをしたが、拒絶はしなかった。
慣れた手付きで漆黒の寝間着の襟元を寛げ、白くなめらかな首筋をこちらに差し出す。
そこには、力強く脈打つ頸動脈が浮き上がっている。
私はそれを労働に対する「当然の権利」として受け取り、背伸びをして彼の首に噛み付いた。
ずくん、と甘美な音が脳髄に響く。
柔らかい皮膚を犬歯で貫き、溢れ出す生命の滴を啜る。
皇帝の血は、濃厚で、暴力的で、何よりも美味だった。喉を通るたびに、冷え切っていた私の身体に熱が戻り、常に頭痛で苛まれていた思考がクリアになっていく。
「……お前、今日は吸う力が強くないか?」
「んぐ……昨日の失血分を取り戻さないと……ぷはっ」
行儀悪く喉を鳴らして飲み下し、私はようやく口を離した。
口元を手の甲で拭いながら見上げると、陛下がわずかにふらついた。
痛みを感じない「無痛症」の彼だが、血液を大量に抜かれれば生理的な反応は避けられないらしい。
「よっと」
「……触るな、ヤブ医者。自分で立てる」
倒れそうになった長身を支えようとしたが、悲しいかな、身長差がありすぎて私のほうが潰れそうになる。
陛下は私の肩に体重を預けることでバランスを取り、私たちは千鳥足の酔っ払いのようにふらつきながら、天蓋付きのベッドへと辿り着いた。
「はい、本日の治療薬。一気飲みでお願いします」
床頭台には、あらかじめ用意しておいた盃がある。中身は、毒々しい紫色に濁った液体だ。
陛下はベッドに腰掛け、盃を睨みつけるように受け取った。
「……相変わらずドブのような味の、これか」
「良薬口に苦しです。これで治療開始から七日目。完治まであと五十九日ですね」
顔をしかめながらも、彼は一息に飲み干した。
空になったグラスがテーブルに戻されると、それが合図だったかのように、私たちは一つのベッドへと潜り込む。
シーツは私の着物についた血で少し汚れてしまったが、今更気にする神経は二人とも持ち合わせていない。
陛下は長い腕を伸ばすと、私を抱き枕のように強引に引き寄せた。
「……陛下、近いです。暑い」
文句を言ってみるが、拘束は緩まない。
彼は独占欲の塊であり、同時に、他人の体温を感じていないと眠れない寂しい生き物なのだろう。私の身体は、彼にとって都合の良い精神安定剤なのだ。
「俺の勝手だ。……寝ろ」
「はいはい。おやすみなさい、殺人鬼様」
「ああ。いい夢を見ろよ、ヤブ医者」
耳元で聞こえる心臓の音は、驚くほど穏やかだ。
この二人は、こうして毎晩殺し合ってから、泥のような眠りにつく。
