翌日、目を覚ました紗那の元に届いたのは神ノ倉家からの便りだった。
「お父様が、死んだ?」
昨晩の騒動のせいですっかり寝不足だった紗那の目を覚ますには、十分すぎるほどの知らせだ。
あの野心家の父が、呆気なく死んだだと――――――紗那には到底信じられない話だった。
つい最近まで健康そのもので、持病もなかったはずだ。
「し、死因は」
「医者が言うには突然死だそうです。発覚していなかっただけで、心の臓が悪かったのではないかと言う話でして」
迎えに来た神ノ倉の使用人が困惑したように話す。
神ノ倉家では相当な混乱が起こっていることだろう。
「とにかく、一度お嬢様にもお戻りいただかなければ。なにせ、遺言状もないものですから……」
「遺言……そうね……。少し待っていてください、すぐに支度をします」
紗那は慌てて自室に戻り支度を整えようとする。
「いえ、もう分家の方々も集まっておられますので、時間が……」
「そうですしたか。では、今すぐ参りましょう」
だが、使用人は相当に急いでいるのか紗那を急かした。
女中に紫弦への言伝を頼んでおいたが、慌ただしいままに神ノ倉の自動車に乗せられて屋敷へ向かわされる。
こんな日に限って紫弦はとうに屋敷を出ており、仕方なしに女中に言伝を頼むしかできなかった。
「嫁御よ、少し待たれよ。どうも怪しいではないか」
「ふ、芙蓉さん……!」
突然隣の座席に芙蓉が現れ、紗那は運転手に怪しまれないよう小声で返事をする。
待てと言われてももう引き返すことはできない。
「追い出した私をわざわざ呼び戻すなんて、遺産分割以外の理由はないでしょう。とにかく、一度屋敷に向かわなければどうにもならないわ」
「しかし……ううむ、わらわはすぐ側で護っておるからな。気をつけるのじゃ」
芙蓉は渋っている様子だが、本当に死んでいたのなら顔を出さないわけにはいかない。
だが紗那の頑なな様子に、芙蓉は渋々紗那に憑依してくれた。
紗那とてあの父が死ぬとは到底信じられなかったが、人間いつかは死ぬものだ。
(追い出した私を嘘で呼び寄せる理由もないのだから、本当にお父様は……)
神ノ倉家に到着したが、想像よりも屋敷の中は静かだった。
分家も集まっていると言われたが、誰の姿も見えない。
おかしなぐらい、物音や足音さえ聞こえない。
まさか、全員が屋敷の中で父の死を哀しみ黙祷でも捧げているとでも言うのか。
だが、玄関から上がっても誰もやっては来ず、人の声も聞こえない。
それどころ、使用人たちの姿も――――――。
「うっ……」
鼻を突く異臭に、紗那は顔を顰めた。
ツンとした鉄臭い匂いだ。
嗅ぎなれないものだが、一度紗那は至近距離でこれを浴びたことがある。
そう、人間の血の匂いだ。
(何か、おかしいわ……)
心臓が早鐘を打つ。
芙蓉を呼ぼうと思ったその時だ。
「きゃぁぁっ!」
廊下に倒れているのは、分家筋の祓師の青年だった。
胸部から血を流し、着物は赤黒く染められ、口からは泡を吹いている。
どう見ても手遅れだった。
紗那は弾かれたように駆け出す。
「里枝、里枝さん! いないの!? 誰か、っ、お願い返事を!」
行く先々で現れるのは、倒れ込む使用人や、壁に刀と共に括り付けられた遺体、切り落とされた誰かの手足だった。
里枝の姿は見えない。
恐怖のあまり震えが止まらなかった。
「里枝さん、お願い……死んじゃ嫌よ……」
過呼吸気味になりながら、必死に里枝の姿を探す。
かつて自分が暮らしていた離れに向かっていたはずが、気が付けば、紗那は大広間に向かっていた。
襖に手をかけた瞬間、紗那は目を疑った。
「紫弦様……!」
「紗那!? なぜここに!」
血濡れのまま、紫弦が立ち尽くしている。
片手に携えた刀は、刀身から血が滴り落ちていた。
再会したあの夜とまるで違わない姿だった。
「――――ああ、良いところに来てくれましたね」
むせ返るような血の匂いと、おぞましいまでの穢れ。
惨劇に似つかわしくないほど機嫌の良さそうな声が、紗那を迎える。
「お兄様、これは、どういう……」
穢れの中心で、にこりと穏やかに微笑んでいるのは異母兄の喜瀬だった。
紗那は恐怖を必死に押さえ込みながら、一歩ずつ進む。
「紗那、早く逃げろ! ここに来てはいけない!」
「もう手遅れですよ。紗那は自分が誰の元にいるべきなのか、よく分かっているようですね」
これほど鬼気迫る表情の紫弦なんて、初めて見た。
紗那は混乱するが、その足は勝手に喜瀬の元へ向かってしまう。
「私の紗那。おいで。さあ」
にこりと微笑み、喜瀬はまるで紗那を引き寄せるかのように手を差し伸べた。
嫌だ。
そう思っても、紗那の足は糸で操られたかのように動いてしまう。
「どういうこと……何が起きているの。答えて! お兄様!」
「見ての通りですよ。『処刑人』が神ノ倉を処刑しに来たんです。さすが、死神という通り名がつくだけありますね」
「紫弦様が……!?」
紗那には喜瀬の話が到底信じられなかった。
確かに紫弦は喜瀬を監視対象にしていたはずだが、神ノ倉の使用人たちを殺す理由が分からない。
祓師ではなく、ただの庭師や女中がどうして脅威になるというのだ。
「紫弦様は死神なんかじゃないわ!」
「では、この惨状はどう説明すると?」
紫弦は自らの職務に対して苦悩を抱えていた。
たとえ理由があっても、紫弦が自ら望んでこんな手段を取るとは思えない。
「お父様はどこなの。お父様が亡くなったと聞いて私はここへ来たわ」
「ああ。それなら、とっくにこの処刑人が殺しましたよ」
「……え」
紗那の視線に、紫弦は反射的に顔を背けた。
父の姿がどこにも無いので逃げおおせたのだとばかり思っていたが、とうに死んだだと。
「竜堂さんのご両親が殺害された事件、裏で手を引いていたのは神ノ倉の当主です。計画が失敗に終わり、証拠を揉み消し長いこと隠していたようですが、竜堂さんからは逃げきれなかったようですね」
喜瀬はくつくつと喉を鳴らして楽しそうに笑う。
自分を後継者に指名した父の死に、一切の哀しみを見せず愉快そうに笑うなど信じられなかった。
(監視対象はお兄様だけではなく、お父様もだったの……)
紫弦の心を歪めてしまったあの凄惨な事件に、父が関わっていたとは。
道理で紫弦も簡単に紗那に心を開けないわけだ。
野心家で利己的、他人を利用することしか頭にない父が悪事を働いているとは疑うまでもなく分かっていた。
だがそれがまさかよりにもよって紫弦の両親の事件に関係していたなんて、目の前が真っ暗になるようだった。
「では竜堂夫妻が亡くなったのは、お父様のせいなの……?」
紫弦は紗那の問いかけに答えない。
答えられないのだろう。つまり、そういうことだ。
(紫弦様にとって私は、家族を殺した人の娘だった。私だけがそれを知らずに、紫弦様に想いを寄せるなど……)
自分がどれだけ浅はかなことをしていたのかを突きつけられるようだった。
仇敵の娘を娶っただけでなく、その身を案じるなど、紫弦が一体どんな思いでいたのか想像しただけで震えてしまう。
「黙れ、それ以上紗那に余計なことを言うな……!」
紫弦は喜瀬を睨みつけ吐き捨てるように怒鳴る。
そして、刀の切っ先を喜瀬に向ける。
「貴様には、多数の書類偽造に加え、三十六件の殺害並びに神ノ倉家当主殺害の罪状が言い渡す。今すぐここで己の罪を認め投降しろ。さもなくば今ここで殺す」
感情を無理やり押し殺したように、冷淡な顔で喜瀬を見下す。
だが、喜瀬はそれをものともせずにこりと微笑んだ。
「おや、『あれ』からの指示以外の殺人も把握していたのですか。あなたは以前から私の術にかからない数少ない例外でしたから、いずれ発覚するだろうと思っていましたが」
「周囲の人間を洗脳し操るなど、祓師の風上にも置けない蛮行だ。貴様は命を弄びすぎた。祓師、民間人……理由もなく人を殺め、その上遺体を遊び半分で損壊させるなど決して許される所業ではない」
紗那には、喜瀬が得体の知れない化け物のようにしか見えなかった。
その口ぶりからして父が彼に殺人を命じていたのは明白だが、それ以外にも、まるで享楽のように人を殺すなど正気の沙汰ではない。
「そんなの、人間のすることじゃない! どうかしているわ……!」
「はははっ! 何を言うのです!」
紗那の批難に、喜瀬は声を上げて笑った。
まるで紗那がおかしなことでも口走ったかのような扱いだ。
「法に則りしかるべき処罰を受けるべきだが、貴様は法では裁けない。だから、僕がこの手で殺すしかない」
「あぁ、やっぱりあなたは気づいたんですね。さすがの慧眼と言うべきでしょうか」
法では裁けないとは、どういう事なのか。
困惑する紗を、喜瀬は能面のような笑みのまま見下ろした。
「私は元々人間などではありません。あなたの父親が孕ませたのは妖魔の女です。私は人間と妖魔の間に生まれた異物なんですよ」
「な……」
異母兄は人外だっただと?
それも、祓師が祓うべき対象である妖魔と父の間に生まれたなんて。
「母親は擬態が上手かったので、長いこと人間として生きていたんです。名門祓師の長が聞いて呆れまよすね。妖魔に騙され孕ませてしまったなんて」
「な、なにを言って……」
「別に、最初は自分の出自なんてどうでもよかったんですよ。ですが、人間の感情を模倣し生きる中で、私はあることに気がついたんです。あなたを見ると、特別な感情が生まれるということに」
困惑し、恐怖に怯える紗那の顔を見て、喜瀬は表情をますます歪めて嬉しそうに笑う。
「あなたが任務中に、戦場で華のように美しく舞い戦う姿を見て、初めて私は感動というものを知りました。あれほど美しい存在がこの世にいるのものなのかと」
喜瀬が向けてくる視線は、もはや兄が妹を見るものとはとても思えないほどの激しい熱がこもっていた。
「半分は私と同じ成分で出来ているはずなのに、まるで違う生き物なのが不思議で仕方ありませんでした。ですから、あなたのことをもっと理解したかったんです。あなたに近づくため、私は父親の前に姿を表し、跡継ぎとして神ノ倉家に潜り込むことにしました。そしてあなたの心に術をかけ、秘められた本性を暴き、私に全てをさらけ出すよう命じたんです」
「それで、私にあんなことをさせたというの……!?」
「ええそうです、あなたの絶望した顔が見たかったので。あなたをこの手で踏みにじり、穢し、魂を喰らい尽くしてしまえば、あなたという存在がどういうものなのか、私は心から理解できるはずなんです。高貴な花は、美しいままに摘み取りこの手で愛でるべきでしょう?」
喜瀬は感情のままにまくし立てる。
その不快な声を遮ったのは、紫弦だった。
「戯言を。口を閉じろ、外道が」
その瞬間、激しい閃光が喜瀬の頭上から降り注ぐ。
矢のような勢いのそれは火花を放つも、喜瀬の前髪を掠めただけだった。
「おお怖い。挑発で雷を落とすとは、『死神』らしい乱暴な技ですね」
「貴様は今ここで殺す。これ以上生かす価値などどこにも無い!」
「威勢だけは良いですね。でも、今のあなたは大切な式神が欠けているでしょう?」
喜瀬は余裕たっぷりの笑みのまま、紫弦に向かって小さく何か唱える。
次の瞬間、紫弦は膝から崩れ落ちた。
「……っ!」
「紫弦様!」
かろうじて刀を支えに立ち上がろうとするも、様子がおかしい。
「紗那の心を壊すにはどうすればいいか、考えたんです。どれだけ傷つけても涙すら流さないあなたの心を踏み躙るには、何が必要なのか。それで、思いついたんです。あなたが最愛の人に裏切られたら、どんな顔を見せてくれるのだろうかと」
「……え」
紗那は、喜瀬が何をしようとしているのか理解してしまった。
自分にしたように体の自由を奪い、望んでもいない罪を犯させるつもりなのだ。
「あなた、自分の一番の守り神を紗那にあげちゃったんでしょう。この前薬を盛ってみたら簡単に効いたので、すぐ分かりましたよ」
「あれは……っ、貴様の仕業か!」
紫弦は荒い息をしながらも、必死に喜瀬の術に抗おうとしている。
「紗那のことが憎いでしょう。自分の両親を殺した男の娘が、のうのうと目の前で生きているなんて、許し難いでしょう」
「そうだ……っ、違う! やめろ、僕は……!」
「紗那を殺したくて仕方がないはずです。あなたの思う正義を、今ここで執行すべきでしょう」
喜瀬の声が、甘く絡みつくように響く。
霊力をほとんど持たない紗那に、喜瀬の術を解くことはできない。
(私に、芙蓉さんを預けてくださったかわりに紫弦様は……!)
自分で自分の身を守ることすらできず、紫弦の身を傷つけてしまった。
もし式神がいなくとも自身の身を守れる力があれば、今頃こんなことにはならなかったはずだ。
「あなたは特務機関の処刑人であり、正義の執行官だ。あなたの行動に、何一つ間違いはないはずです」
「僕は……悪を、殺さなければ……」
紫弦が立ち上がり、再び刀を構える。
胡乱げな目をしていて、視線が合わない。
『嫁御よ。落ち着くのだ。そなたの武器はここにあるだろう』
聞こえてきた声は、芙蓉のものだ。
芙蓉の冷静な語りかけが、紗那の焦りを引き止める。
(私の武器……そうだ、『読心』が……)
『わらわの力を貸そう。そなたの異能力で、坊主の心をこじ開けるのだ』
全身に芙蓉の霊力が流れていく。
視界が明るくなり、漂っていた穢れがたちどころに消えていく。
紫弦は紗那の方へ一歩ずつ歩み寄る。
俯いた目元は、前髪で隠されて見えない。けれど、刀を握るその手は震えていた。
「生々流転の徒よ、憂世の濁りを祓たまえ――――――」
紗那の指先が印を結ぶ。浄化の術だ。
「っ……僕の、使命は……」
紫弦の足元が揺らぐ。
『紗那を憎むなど、あるものか。僕は、紗那を愛している。どうしようもないぐらい君のことが眩しくて、この身を捧げてしまいたいほどに君が愛おしい――――――』
切実な声が、紗那に流れ込んでくる。
紗那は迷わず、紫弦の胸に飛び込んだ。
「紫弦にいさま。私も、にいさまが大好きですよ。だから、もう大丈夫です」
「……」
今すぐにでも紗那を切り捨ててしまえるのに、紫弦の手は動かなかった。
『どうか、紗那の手で死ねるのならば……』
紗那はありったけの霊力を込めて、紫弦を包み込む。
かつては自分も同じように喜瀬に惑わされ、苦しみにもがいていた。
紗那が変わったのだと誰にも信じて貰えず苦しかった。
だからこそ、たとえ愛する人に殺意を向けられたとしても、それが作られた嘘偽りであると紗那は理解している。
もう二度と、負けてたまるものか。
「感動的ですね。時間が惜しいので、もう終わらせていいですか?」
興ざめしたような喜瀬の声に、紗那は我に返る。
攻撃される。それに気づいた瞬間、紫弦の体が離れていった。
「――――終わるのは貴様だ」
刹那。鋭い刃が一振り、空間を切り裂く。
鮮やかな剣筋は、迷いなく喜瀬の首を跳ねた。
ごろりと喜瀬の頭部が畳の上に転がり、胴体からは黒いどろどろした液体が噴き出していた。
「良い刀ですね、それ。こんなに痛くない切れ味は初めてです」
転がった頭は、未だ平然と喋り続けている。
しかし、目や口からは同じく黒泥が流れ出ていた。
「そうだ。貴様のような外道を斬るためにあつらえた。僕は『処刑人』だからな」
ぐさりと、紫弦が迷いなく刀を喜瀬の脳天に突き立てる。
鋭く険しくけれど凛とした眼差しは、あの夜見た姿と違わず、恐ろしくもあり神々しささえ感じられるようだった。



