「はあ、旦那様について、ですか……。申し訳ありませんが、私どもは旦那様とお顔を合わせないよう言いつけられておりまして」
紫弦と結婚してからはや数日、彼は必要最低限しか紗那と顔を合わせようとせず、端的に言うと避けられていた。
それで、直接の対話がだめならまず最初にお屋敷の人々に紫弦のことを聞いてみようと思い行動したのだが、これはあまり上手くいかなかった。
「まあ、そうだったのですか」
「ええ。旦那様の職務の為だそうで。ですので、奥様のお役に立てるようなことはあまりお伝えできないのです」
「いえ、良いのです。お仕事の邪魔をしてしまってごめんなさいね」
申し訳なさそうに頭を下げる女中に、慌てて礼を言う。
紫弦は誰にも心を開いていないようだった。
両親の死が彼の精神面に大きく影響を与えているのは間違いないが、屋敷の使用人とも関わりを持たないようにしている徹底ぶりは予想外だった。
『ですが、奥様にならば心を開いてくださるかもしれないわね……』
(え?)
女中の心の声だ。紫弦の屋敷に来てからというもの、制御を失い四六時中他人の声が聞こえるようになっていた。
『旦那様は奥様のことをとても気にかけていらっしゃるし、きっと何か心境の変化があったのかもしれないわ』
彼女は優しそうに紗那を見ている。
このところ使用人たちから聞こえてくる心の声によると、紫弦は紗那を最優先にして大切に扱うようにと使用人全員に命じているのだと。
それに、紗那との結婚も唐突に決まったことであって、使用人たちは皆驚かされたのだとか。
他者と関わろうしない紫弦が突然結婚を決めただけでなく、妻を大切にしている様子からして、紫弦に何らかの心境の変化があったのだと皆は思ったようだ。
(やっぱり紫弦にいさまは、私を嫌っているのではなくて理由があって遠ざけているのだわ……)
彼女の声を聞いて、紗那は確信した。
だったら、紗那のやることは一つだ。
それから紗那は積極的に、紫弦と関わるように努力した。
変わらず紫弦は紗那のことなど知らないと白を切っているが、心の中までは取り繕えない。
紗那に冷淡な顔しか見せないものの、心の中ではいつも感情が揺れ動きっぱなしだった。
「おかえりなさいませ、旦那様」
夜遅くに帰宅した紫弦を待ち構えていれば、彼は思いのほか動揺をみせてくれた。
「……まだ起きていたのか。待たなくていいと何度も言っただろう」
『こんなに夜更かしして、風邪をひいてしまうだろう。待っていると知っていれば、もっと急いで帰ったものを……』
表の声と同時に、心の声が重なって聞こえてくる。
渋い顔をしているが、紗那を嫌がっているのではなく心配してくれているのだと分かる。
多少の夜更かしで風邪をひくなんて、そんな心配を紗那にする人はいなかった。
「それと、その旦那様と呼ぶのもやめろと言ったはずだ」
『旦那様なんて、他人行儀なのはやめてくれ……僕はもっと君と……』
顔と声がまるで一致しない。
どんなに怖い顔をしていても心の中は弱気でしょぼくれているなんて。
なんだか紫弦が可愛らしく思えてきて、紗那はちょっと調子に乗ってみたくなる。
「では、どのようにお呼びいたしましょう。紫弦様、それとも、紫弦にいさまと?」
「っ、紫弦でいい。要件がないのなら、必要以上に僕に関わるな」
ちょっと距離を詰めてみれば、紫弦は一瞬顔を赤らめてから離れて出ていってしまう。
だが、紫弦は相変わらず襖の前で留まっているようで、まだ心の声は聞こえていた。
『くそ! どうして僕はこんな言い方しかできないんだ……!』
(あらあらまあまあ。心の中は口数が多いのね)
『そもそも! あんな暴力的な姿を見せてしまったから嫌われたとばかり思っていたのに、どうしていちいち僕に関わろうとするんだ!?』
もしかして、一枚向こう側では紫弦が表情をくるくる変えながら悶えでもしているのだろうか。
おかしいかもしれないが、なんだかいじらしく思えてしまうと、紗那はくすりと笑う。
昔も素直になれないところがある人だったが、成長してますます拍車がかかっているらしい。
どうやら紫弦は、嫁入り行列の際の襲撃で激しい戦いぶりを見せつけたことを後悔しているようだった。
きっと紗那が怯えて怖がっているだろうと、何度も何度も後悔している声を聞いた。
紗那としては、颯爽と現れた鬼神のような彼は見惚れるほど格好良かったと思っているのだが。
(もし今ここで私が襖を開けちゃったら、紫弦にいさまは驚くかしら?)
なんて思ったところで。
『はぁ……これではあの異母兄の正体を暴くどころではないな』
紗那はぴたりと足を止めた。
『この結婚は任務の遂行に必要不可欠なものであって、私情を挟むべきではない。冷静になれ、僕に感情はいらないはずだ』
この時ばかりは、『読心』の力を恨んでしまいそうだった。
(そう……やっぱり、私と紫弦にいさまの結婚には裏があったのね。そうよね、そうに決まっているって分かりきっていたじゃない)
祓師たちを監視する執行官の『処刑人』なのだから、紗那がしてきた悪行を知らないはずがない。
それを知った上で心から紗那を愛するはずなどないと、最初から分かっていた。
異母兄の喜瀬の正体を暴く……それはつまり、今回の彼の監視対象は他でもない喜瀬であり、紗那との結婚は任務のためだったのだ。
道理で子どもを作らなくていいと言うわけだ。
屋敷の使用人でさえ避けているというのに、任務が終われば離縁する相手と子どもを作る利点なんて、彼にはひとつもないだろう。
(最初から、私たちは夫婦なんかじゃなかったということ……)
だが、それならばどうして彼の心は紗那で乱されているのだろう。
どうして、紗那のことを大切にしてくれるのだろう。
どうして、これほどまでに切実な声で紗那の名前を呼ぶのだろう。
『紗那……僕は、君のことを……』
それ以上聞きたくなくて、紗那は必死に耳を塞いだ。
『読心』は鼓膜を通しているわけではないのだから、意味のない抵抗だった。
それでも紗那は、固く目を閉じ耳を塞いで、必死に聞こえないふりをしていた。
***
あれから数日経ち、これまでの親密ぶりはどこへやら、紗那は紫弦を避けていた。
避けていたと言っても、これまで紗那が無理に話しかけたりしていたのをやめてしまえば驚く程に顔を合わせなくなった。
早朝に屋敷を出て、夜更け頃に帰宅するか、数日屋敷を空けているか。
このところいつにも増して紫弦は忙しいようで、少し避ければ簡単に距離は遠ざかっていった。
「だって、どんな顔をして会えば良いのか分からないじゃない……」
窓辺で月明かりを頼りに本を読む。
今夜、紫弦は任務があり帰ってこない。
広い屋敷で一人きり、物音すらしない静かな家の中はかえって息が詰まるかのようだった。
こういう時は、離れに隔離されていた頃のように、読書をして、時々ひとりごとを呟く生活に逆戻りする。
けれど、あの頃とは違い本の内容は頭に入らず代わりに紫弦のことばかり考えていた。
「紫弦にいさまは、私をどうするのかしら……」
任務が終われば、紗那は用済みとしてまた捨てられるのだろうか。
兄が一体どんな罪を犯したのかが思い当たらず、まさか一族全員処刑なんて結末はありえないだろう、と思考がどんどん迷走していく。
「また私は、何も出来ないまま全て失うのね……」
「それはさすがに考えすぎであろうよ」
「……っ!?」
ひとりごとに返事が返ってきて、紗那は飛び上がる。
ばさりと音を立てて本が足元に落ちた。
この屋敷には紗那以外誰もいないはずだ。それなのに、知らない女性の声が聞こえてきた。
「そ、空耳? 幻聴?」
「ここだ、嫁御よ。やっと式神が見えるまで回復したようじゃな」
ハッと見上げれば、真上から長い髪の女性がこちらを見下ろしていた。
「ひゃっ……!?」
平安の世で見るかのような目の覚めるような鮮やかな十二単衣に、薙刀を片手に携えている。
平安から蘇った美姫の幽霊……などではなく、彼女は人型の式神だ。
紗那もかつては動物型の式神をいくつか使役していたこともあり、祓師が使役する式神の見分けは簡単に付く。
「もしや、紫弦様の式神ですか!?」
「ご名答。わらわはあの坊主の式神じゃ。ずっとそなたを見守っていたが、よほど霊力を失っていたらしい。坊主の世話の甲斐あってようやく回復したようでなにより」
「ず、ずっと……!?」
美姫はくすくす優美に微笑んでいる。
彼女の言う通り、紗那は喜瀬に敗れ霊力をほとんど失ったせいで、式神の姿は見えなくなっていた。
「そうじゃよ。あれほど話しかけてつついてやったというのに、そなた窓辺でめそめそするばかりでちっとも見向きもせん。退屈すぎて腰が曲がってしまうかと思ったわ」
「紫弦様の式神が、どうして私のそばに」
「もちろん坊主の命令よ。そなたを守れと怖い顔をしてわらわに命じてきたわ」
「紫弦様が、私を……」
一瞬、喜んでからすぐに思い直す。
任務に必要だから途中で野垂れ死んでは困るということなのだろうか。
そこに特別な意味を見出してはいけないはずだ。
だが、表情が沈んだ紗那に対して美姫は発破をかけるかのように大声を出す。
「待て待て! そうこじらせるでない」
こほん、と咳払いをしてから改めて彼女は話す。
「坊主はそなたを本心から好いておる。そなたが思うような理由で手元に置いたわけではなかろうに」
「な、なんのことです」
「そなた、いらぬ勘違いをしておるのだろう。まったく、『読心』というのも厄介じゃな。言葉足らず同士ではかえって悪化させるだけではないか」
「ええと、姫君様、それはどういう……」
困惑する紗那に、美姫はやれやれと肩を竦めた。
『読心』の異能力を見透かされている。
強い式神には、隠し事などたやすく暴かれてしまうのだろう。
「坊主は口下手なだけで、血の通わぬ冷血漢などではない。そうであれば、どうして最強の護りの式神であるわらわを嫁御に明け渡すというのだ」
「さ、最強の護りの式神、ですって!?」
「うむ。坊主はわらわを合わせて十二の式神を使役しておるが、護りに関してはわらわの右に出るものはおらぬ。自らを犠牲にしてでも守りたいと思う相手を、どうして容易く捨てようと思うものか」
驚いた。
紫弦は強い祓師だと分かっていたが、式神を十二も束ねるとは。
単身でもあれだけ強かったというのに、まだまだ紫弦には武器があるだなんて。
「そなたも、坊主がどうしてあんな捻れた性格になったのか知っておろう」
「はい。紫弦様のご両親が亡くなられた痛ましい事件のことは、私も存じております」
紗那は神妙な面持ちで頷く。
竜堂夫妻が亡くなったのは、特務機関を追放された元祓師の復讐に利用されたからだ。
犯人は屋敷に押し入り夫婦を殺害しただけでなく、その死体を死霊術で操り使役した。
穢れを祓う祓師にとって、死後に穢れをまとった死体として操られるなど最大級の侮辱である。
肉体も名誉も傷付けられたばかりか、祓師たちの手により、最終的に穢れに堕ちた遺体は灰も遺さず消滅させられた。
紫弦にとっては両親を喪っただけでなく、遺体を損壊され、その上犯人は既に祓師によって仕留められた後だ。
復讐する相手も見つからず、心の拠り所も失い、穢れに堕ちた祓師の子どもとして世間からも見放された。
その後、紫弦がどのような苦難の道を歩んだかは分からないが、竜堂家を再興し今に至るというわけだ。
「坊主の心は未だ闇に囚われておる。そなたを疎んでいるのではなく、そなたが眩しく美しい光であるが故に、恐れてしまうだけだ」
「私が、光?」
「ああ。気高い花に触れて手折るぐらいならば、最初から花瓶にしまい込んでしまうつもりなのじゃろう」
紗那には美姫がどういう意味でそんな話をしているのか、上手く飲み込めなかった。
(それではまるで、紫弦様が、私を崇めているような言い方だわ……)
その時だ。
ふいに玄関の扉が開く音が聞こえ、次いで足音が近づいてくる。
「まさか、紫弦様がお帰りに!?」
「おお、ちょうど良い時に帰ってきたようじゃな。ほれ、少しは嫁御も坊主と正面から向き合うべきじゃよ。安心せい、『読心』のことは黙っておいてやろう」
慌てる紗那とは対照的に、美姫はふわぁっと口を開けて笑い、単衣をはためかせながら宙に消えていく。
そうしているうちに足音は近づいてきた。
『クソッ、こんなところでしくじるとは。油断して一服盛られるなど、無様なことを……』
紫弦の心の声が聞こえてくる。
(盛られたって、まさか……!)
嫌な予感に、紗那はたまらず駆け出した。



