交際0日婚の溺愛事情



(はゆる)さんと出会う前の僕の人生の歩み方は、ろくでもない、が正しい評価だ。

人生、何が起こるかは分からないとはよく言ったもので…僕は先が分からないの極みのような生き方をしていた。


「寒いなぁ。凍え死ぬレベルではないと思うけど」


震えの止まらない身体が温もりを求め続ける。
とりあえず夜を明かしてから考えようと、僕は駅のトイレへと駆け込んだ。
駅に隣接する形で独立しているトイレは入口にドアはないし気温は低いけど、風が吹かないだけで外とは全然違う。

水を得られなければ直ぐに枯れる。根を持たないから立ち直る事も困難、そんな根無し草として僕は今も生きている。
元々なかった訳ではない。自分で根っこを切り捨てた、根無し草。

お金もないし、宿もない。それでも今の環境の方が、今までよりずっといいと実感する。僕は独りが性に合っているのかもしれないと、冷えた身体を抱き締めた。
朝まであと何時間だろうか。目を閉じて、いっそこのまま永遠の眠りを得られたならと壁に寄りかかった。








「ま、人は丈夫に出来てるよね。」

朝日は昇り、根無し草は今日も生きている。とりあえずどこかでお風呂に入りたい。
あまり眠れなかったから、とりあえず駅のベンチが設置されている場所に向かうと人は疎らに座っていて、僕が座る分も空いていた。
座って、背負っていたリュックを隣に置いて枕にして寄りかかる。こんな状態でも人は熟睡出来るんだ。限界を超えていればね。

(あー…陽の光、当たってる…温かい)

猫の気持ち、わかるかも。起きたら金策を考えて、その後はどうしよう、お風呂を探そうかな?なるべく安い…───


と、思っていたけど。
どれくらいの時間を眠っていたか分からないが、目が覚めたら尻を撫で回されていた。痴漢が出来れば男でも構わないってか。

「…あの」
「あぁ!よく寝ていたね。死んでるのかもって心配してたんだ」

まさか話しかけてくると思っていなかったのだろう。ぼやけた視界で男の人が少し慌てながら僕の尻から手を離した。
心配か。そうか、《《助ける》》タイプの人か。

「そうですか。僕には帰る場所がないので…ここで寝ていました。すみません」
「それはいけない!家出かな?家には帰った方がいい。…まぁその前に、どこか行くかな?こんな所じゃ眠れないだろう」
「……」

ほら、説教をしたがり、弱い者を助けるって形で自分を正当化しようとする。僕を搾取しようって目論んでいる時点で全てが間違えているのに。
痴漢男の顔は、やけに近い距離でにたりと笑みの形になった。その笑顔は、散々見てきた意味のある笑顔だ。


───あぁ、気持ち悪いな。


「危なかったね。俺が助けてあげるから、家においで 」
「……はい」

腕を掴まれて、引っ張られた。何を助けるのかな。
まぁそろそろ死ぬなって思っていたし、なんでもいいか。生き延びたなら、それはそれだ。

尻を撫で回していた知らない男に引っ張られ、重い足を動かす。大人は皆、助けてあげるって言いながら僕をギラギラした目で見てくる。
金になる、欲をぶつけられる、支配出来る、そんな弱い立場が確約された、都合の良さそうな根無し草。

大丈夫、僕は何も期待していない。過去も今も、未来も、全て。
期待をせず、諦めて。生きるなら生きる、死んだら終わり。それだけだ。



「────ごめん、待ったかな」



重い足をひたすら動かしていたら、不意に掴まれていない方の腕の関節部分を掴まれて、足が止まった。
…なに、そのベタな嘘。

「……ううん。全然待ってない」
「え、知り合い?君、家出は」
「ごめんねおじさん、家に帰ることにするよ。迎えが来ちゃった。」

僕が告げると男は狼狽えた。やましい事をしようとしていたから、何を反論したらいいか分からないよね。
家には帰った方がいいって言ってたし、助けるまでもなくて良かったね。

挙動不審に去って行く男を見送って、僕は腕を掴む大きな手を掴んで解いた。

「ありがとうございました。さよなら」

僕はやっぱり生きないかも。現金ももう殆ど持っていないし、運はいい方だと思ってたんだけどなぁ。
ホームレス?しないしない。僕は人に搾取されやすい見た目だって理解してるからね。それに汚い環境は苦手なんだ。食事を抜いてでもお風呂に使いたい。

宛もなく足を踏み出すと、またも僕の腕は握られ止まった。

「どうかしました?」
「家出なのか」
「……まぁ、はぁ」
「…なら、何もしないから、家に来るといい」

僕より身長が随分と高いのに、背中を丸めて迫った顔が近い。きっとどこにでも居る、普通の成人男性だ。

困ったな…雰囲気で分かるよ。この人は誠実だ。
助けると言いつつ警察にでも連れて行かれたら困る。僕は本当に帰りたくないんだ。
この人の助けるは、本当の意味での助ける、だろうから。

「……結構です!それじゃ!」

強めに手を振り解いて急いで去った。
今度は腕も掴まれず、僕は駅を出て見慣れない街を彷徨い一日を潰した。






嫌な事があったら電車に乗って、適当な駅で降りて、また放浪をする生活をしばらく送っていたけれど、如何せん金がない。
お風呂にも入りたかったけど数百円が惜しいレベルだ。結局今夜も駅のトイレで寒さを凌ごうと戻って来てしまった。

「さむ…お金が有るうちに防寒着でも増やせば良かった…」

辛うじて長袖ではあったけど、防寒性能は低い。足先も冷たくて痛い。本格的な冬が訪れるのが先か、僕が死ぬのが先か。なんとも地味なデスレースだ。

駅は人が疎らに歩いている。まだ帰宅の時間だったかと居心地の悪さを感じながら、駅が閉まるまでは暖を取らせてもらおうとホームの中に入った。終電が終われば駅の照明も落とされる。
でも、それまでは温かい場所に居られる事は知っている。

元々お腹は空いていたけれど、なんだか空腹を通り越して今は何も感じてない。
残り数百円しかないけれど、最後の晩餐とするなら何を食べるかなぁと駅の構内で閉店作業をしているコンビニを眺めながらゆっくりと歩く。
もうすぐだ。もうすぐでまた、人目を忍んでトイレに向かわないと。

また明日の朝、駅のベンチでしっかり眠るとして…またあの痴漢男に尻を撫でられていたら嫌だなぁ。でももう生き方を知らないしなぁ、なんて。
倒れて救急車なんて呼ばれる前には何処かに隠れなければいけない。今はそこまで極限状態でもないなと自己判断をする。

ここまでして、無意味に生き続ける意味はなんだろう。

歩いていたはずの足はいつの間にか止まっていた。少しフラつく視界を足を踏ん張って堪えていたら、今朝のように後ろから腕を掴まれて鳥肌が立った。

「……家に、来ませんか」
「…誠実な人の方かぁ」

声のトーンに脱力する。痴漢の男かと思ってドキドキした。脅かさないで欲しい…というか、どうして居るのかな。あぁ、仕事終わりで着いた所か。

意識をすると、耳に届いていなかった電車の音、アナウンスの音、人々の忙しない足音、話し声。全てが騒音となって、僕に襲いかかった。


(───怖いな)


後ろを振り向くと、やはり今朝の誠実そうな男が背中を丸めて僕を見下ろしていた。
諦めた世界に、現実を突き付ける男は絶望的なまでに優しい目をしていた。

「何もしない。約束する。だから、家で休みませんか」
「…何も良いことはないよ。そんな事しなくても善行は十分…」
「このままじゃ夢に見る。何も事情は聞かないから、家に来て欲しい。」

コンビニの照明が落とされた。駅も間もなく閉められる。こんな所で押し問答して迷惑になるのは嫌だ。ただでさえトイレで野宿しているから目を付けられたくない。
…でも、知らない人について行くのは怖い。

家というテリトリーに足を踏み入れた途端、豹変する事もあるから。
それでも今回僕を捕まえた人は、やはりどこまでも誠実そうだ。黙って僕の判断を待っている。

「……お人好しすぎると、損ですよ」
「今のところは損してない。」

なに言ってるんだろうって、少しだけ笑ってしまった。







───お風呂は嬉しい。一番嬉しい。
この後に何があるかは分からないけれど、それでも洗えた。この事実だけでいい。
身体に当たるお湯の温かさに鳥肌を立てて、じんわりと痺れるような心地良さを味わっていると浴室の薄いドアがトントンと叩かれた。

「──邪魔してごめん、とりあえず着替えがなかったらいけないと思って服持ってきた。下着も今から近くのコンビニで買ってくるから、ゆっくり入って待っててもらえる?」
「えっ、そんな悪いです」
「いいから。着てた服は洗濯するからそこらへんに置いといて。行ってくる」

浴室のドア越しに会話して、すぐ居なくなった。
まぁ、確かに服も洗濯できると嬉しいし助かるけれど。
誠実な男は家に入るなり一番風呂を僕に譲ってるし、パンツは買いに僕一人を置いて外出するし

「………不用心では?」

誠実だけど損しそうな人だなぁとは思いながら、僕はシャンプーを有難く使わせてもらった。







「……まだかな」

お湯はそんなに熱くないけど、長湯は苦手なんだ。
帰ってくるまで待とうと思っていたが、出たい。既に湯船から出てバスタブの縁に座っている。
もう、腰にタオル巻いて待てばいいか…?

「……はぁ。いいや、出よ」

最初は良かったけど、暑さが逆に息苦しい。
ドアを開けて、置いてあるバスタオルを握った。

(これがあの人の、家庭の匂い)

柔軟剤の匂いが強すぎない、不快感のなさに頭を拭きながら少しずつ安心感が侵食してくる。
…やはり早く出て行こう。外出している隙に、ここを出ようと元々穿いていたパンツを掴んだ所で洗面所の外に繋がるドアが開いた。

「……」
「……ごめん、遅くなった。これ穿いて」
「……ありがとうございます」

コンビニのビニール袋を受け取ると、また静かにドアが閉まって穿いていたパンツを落とした。

「……逃げそびれた?」
「逃げようとしていたのか」

ドアの向こうから返事が来る。居たのか。
バツが悪いけど腹をくくろう。コンビニの袋から買ったばかりのパンツを出して穿く。更に用意されていたトレーナーを着て、洗濯してくれるならとリュックの中に詰め込んでいた服も外に出した。ランドリー代が浮くのは有難い。

「ドア開けます。そこ立ってたらどいてください」
「ん」

やっぱりまだ居た。そっと開けるとトレーナーに着替えている僕にホッとしたような顔をしている。もう逃げないよ。服を泥棒なんてしない。

「脚、長いですね。このズボン引きずる」
「あぁ…裾を折ろうか。そのまま待って」

借りたズボンは脚の長さに差がありすぎて裾が余っていた。腰もちょっと緩くて心許ない。
僕の感想に反応してしゃがんで甲斐甲斐しく世話をする男に、下心も悪意もない誠実な男というやりにくさを実感する。
裾を折り畳んだ後は袖も長いなと片手ずつ折り畳まれ、僕はまるで子供のようだと心が冷える。

「ごめん。客を呼ばないからスリッパとか無いんだ。コンビニにもなくて…」
「すぐ居なくなる相手に新しいの買うのは勿体なくないですか?床汚すのは悪いけど」

なるべく爪先だけで歩いた方がいいかな、と踵を上げたら男と距離が少し縮まった。分かっていたけど背伸びしても届かないとは背が高い。
真面目に生きて、仕事して、普通の人生を歩んでいるのだろう。揉み上げに白髪が少し混じっている。

さて、これからどうしたらいいのやらと爪先立ちで待っていたら少しフラフラしてきた。壁に手、ついていいかなと壁を見ると、真正面の男の腕が俺の両腕ごと包み込んで密着して来て、スーツの隙間から空気が抜けていく。

(あ、下心?……でも不快じゃない匂いの人だ。良かった)

別に風呂分の恩を返すのは不満に思わない。好きにしたらいい。
香水を付けていないのか、朝つけていた香りがほぼ抜けたのか、男の匂いはとにかく不快じゃない。息を止めなくて良いのは楽だ。

などと思っていたら尻…を越えて膝の裏まで片手が伸びて身体が浮き上がった。

「──は?怖っ、怖い、なに!?」

落ちるかもという恐怖に思わず男の首にしがみつく。至近距離になった男の顔に欲は見えない。
そのままズンズン歩いて移動するのでこちらは困惑しっぱなしだ。誠実な男の行動心理が何も分からない。

ゆっくりと降ろされた先はソファで、一人暮らしっぽいのに三人掛けなんだと混乱しつつも状況を分析したがる頭に新しいタオルが掛けられた。

「ちゃんと乾かさないと」
「え、ごめんなさい。水落ちました?」
「そうじゃない。…ちゃんと湯船に浸かって温まったか?火照ってもいないようだけど」

隣にドカッと座った男にソファ全体が揺れる。頭をガシガシ拭かれてこちらはペースを掴めない。

「長湯は苦手だから…でも少し浸からせてもらいました」
「そっか。…飯は適当にデリバリー頼んでるから、少し待って」
「あ、ありがとうございます」

お金を払いたいところではあるけど、お金が無い。出来る限り安い物を頼んでますようにと祈るしかない。

「あと…絶対に何もしないから、今夜はベッド使って。俺はソファで寝るから」
「は?逆でしょう。僕がソファで寝ます」
「狭いでしょ。いいからちゃんと寝た方がいい」
「いやいやいや」

どっちがソファで寝るか、しばらく押し問答をしたけど解決はしなくて。先にデリバリーが届いたので一時休戦して二人でハンバーガーを食べた。
久しぶりに食べるポテトは塩気が強くて、今夜の栄養補給であと一週間くらい生きそうだなと口をソースまみれにしながら考えていた。僕は食べるのが下手なんだ。

その後も押し問答したけど、満腹と蓄積された疲労で眠くなった僕は眠気に負けてベッドに連行されてすぐに寝落ちた。






そうして翌日の朝になった。
知らない香りに包まれると、僕がその世界の異物なんだと実感する。

「──めちゃくちゃ寝ちゃった。」

最近まともに寝ていなかったから、こんなに柔らかい寝床に出会ったらそりゃ熟睡してしまうよ。
ベッドをパンパンと叩いてみたり、掛け布団をバサバサと空気に触れさせて僕の匂いが染み付いていないかと確認する。
まぁ、自分の匂いって分からないし…これ以上はどうしようもないけれど。

折り畳んでもらった裾は元に戻ってダルダルだ。膝のところからズボンを上に引っ張って歩く。
誠実な男はリビングには寝ていなかった。そもそも家の中に居ない。僕とは違ってきちんと起きて仕事に出たんだろう。ローテーブルにコンビニのおにぎりと、鍵が置いてある。なんて不用心な…とは昨日も思ったか。

リュックを洗面所に置きっぱなしだと思って再びズボンを握って向かえばドアの外に立て掛けてあった。服も全て洗濯してくれたらしい、ふかふかになってリュックを膨らませていた。

「ありがとう優しい人。」

手早く元の服に着替える。買ってもらったパンツは…置いて行っても仕方ないから有難く貰おう。着ていた服は畳んで洗濯機の上に置いた。
爪先立ちでリビングに戻り、おにぎりと鍵を掴む。

「………あ、どうやって返そう?」

困ったな。これ、合鍵だよね?帰ってきて入れないとかないよね?
鍵を閉めずに出るのはいけない。でも帰るまで待つ気もない。

「……」

外に出て、鍵を掛けて、近くにコンビニの看板はあるかと見渡したらすぐ近くに薄らと見覚えのある色合いが見えたので向かった。
少ない現金でギリギリ買えた封筒と糊を手に、一宿一飯の恩がある建物に戻る。玄関のドアの前で合鍵を封筒に入れて、しっかりと糊で封をした。
ドアが投函口のあるタイプで良かった。合鍵の入った封筒をねじ込み、ほんの少しだけ封筒を外に露出させて、ありがとうございましたとドアに向かって礼をする。

「──よしっ、おにぎり一個分生きよう。」

お風呂に入って、食事をして、ぐっすり眠って。
心はこれ以上なく健康だ。久しぶりに身体は軽いけれど相変わらず目的はない。
まぁ、散歩みたいなものだとこれまで数日歩いたから少しだけ面識の生まれた街を、僕は再び歩いた。







夜を明かすには、公園よりは駅の方が安全だ。

移動手段として見られるそこは、終電が終わってもトイレは電気が着いているし、手入れが行き届いていて清潔感がある。
深夜の公園は段違いに危険度が高い。日中は子供の遊び場として機能している場所なのに、不思議なものだ。

「歩きすぎた……もうちょい、座ってすごすべきだった…」

というか、普通に歩いて線路沿いを歩けば街を離れる事も可能では。
いやでも無一文で公園とか駅があるかも分からない新しい場所に向かうのはリスクが大きい。僕は人目に付く所では倒れたくないんだ。

一部が森のようになっている公園があると分かっているこの街なら、いざと言う時にはそこで寝れるんだ。隠れ場所があるかも分からない場所には行けない。
行き倒れるというのも難しいものだ。

……あと、単純にこの街が好きだなって思った。この街というか、設置されている時計が綺麗だったとか、商店街に好きな装飾があったとか、そんな理由だけど。

夕方に鳴る時報のメロディーも好きだ。なんて曲かは分からないけれど、街全体に響き渡るそれが、どうしてか落ち着く。僕の耳にも届くことで、僕もここに居ると肯定してくれてる。みたいな。

「駅、遠い……」

人は、死期を悟る事があると聞いた。それなら僕はまだ死なないのだろう。だから生きる前提で動いている。
生きるから、夜を明かせる場所に行かないと。
生きるから、誰にも捕まらない場所を見つけないと。

まぁ、誰かに捕まっても警察じゃなきゃホイホイついて行くけど。

別に悪い事は何もしていないけれど、捜索願を出されてる可能性は高いから。僕の所有者は外に向けてポーズを取るのが好きなんだ。
愛情は持ち合わせていて、真っ当に生きてもらおうと熱心になっている、そんなポーズ……

「………きもちわるい」

やめよう。とにかく夜を明かす。早く駅のトイレに行こう。
もっと生きようと思ったら、こんな状態でも働いて、お金を稼いで、住居を手に入れたり、やりようはある。知ってる。
でも、もっと生きたいと思ってなかったらどうしたらいい?別に死にたいとまでは思ってないけれど、生きたくもない。
ただ生きて、生きて、最期は野垂れ死ぬんだなって思いながら目を閉じるんだ。

汚いのは嫌いだけど、汚い大人達を見ると安心する。この世に救いはないんだなぁって、誰も彼も、醜いものを持っていても普通に生きてるんだなぁって思い知る。僕だけじゃない。僕はよくある不幸の一部だと信じられる。

だから、また声を掛けられて延命したらそれはそれで受け入れる。尻を撫で回す気持ち悪い男の善意だろうと受け入れる。
僕がこの世にまだ需要があるんだって、受け入れる。

(──あ。おにぎりまだ食べてない)

おにぎり貯金があるから、まだ生きるか。どこで食べようかな、トイレはやだな、折角だから綺麗な景色の中で食べたいな。
夜を明かして、綺麗な景色を探そう。やっぱり自然が多い所がいいかな。


───ようやく駅が見えてきて、やっと休めると思ったらドキリと心臓が冷たく跳ねた。見覚えのある背丈の男が消灯した駅の前に立っているように見えたからだ。



「………まだばれてない」


どこか、隠れる場所はと目を泳がせたら視界の端でダッシュしてくる男が見えて身体は硬直する。
まさか探されているとは思わなかった。そんな事をされる程、僕とあの男にはなんの関係性もない。
なのに。




「────捕まえた。」




息を軽く切らして、僕の目の前で立ち止まった男が怖い。誠実なのに、この男、だいぶ怖い。

今は何時かわからないけれど、照明の落ちた駅から走ってきた男に包まれて、冷えきった僕の服の冷たさが肌に伝わっていた。








拾われる事は、初めてじゃない。
同情や、善意、色々な感情が僕を保護してきた。

───少し前、僕を拾ったある男は色んな事を知りたがった。

それはそうだ。家出して、住所不定で根無し草の人間なんて、何かしらドラマを持っているだろう。

僕は別に隠したい気持ちはない。過去は過去だ。ただの過ぎ去った出来事だ。
だから聞かれたことは全て答えた。確かに現実だったあの場所からは逃げているけれど、その後の生き方を知らなかっただけで、自立を知らなかっただけで
全部が全部、麻痺していたんだと思う。だから無感動に全てを話した。


「つらかったな。」


そんな、たった一言だったと思う。
その時の僕の心は疲弊していたんだと思う。まだ世界の怖さを理解しきれていなかったのだと思う。
いかにも同情しているという男の一言で、僕は静かに涙を流した。僕の存在に同情してくれる人間もいるのだと知った。

それから数日間は、その男の家で居候として過ごした。話をいっぱい聞いてくれて、僕はこの人が心の拠り所になるんだと思っていた。

そしたらある日、大人しく待っていた僕が出迎えると男はお酒の匂いを纏って上機嫌だった。
お酒は苦手だな、と思ったけど僕は宿を提供してもらっている身だ。ただおかえりなさいと言って機嫌の良い男の傍に座った。



「──って話しててさぁ、俺が辛かったな?って声掛けてやったら、そいつツーって静かに涙流してんの。ウケるよな」



陽気に語るエピソード。辛気臭い人間に寄り添って、涙を流させた武勇伝。
酔った男は、僕が誰だか忘れてるみたい。あぁ、そもそも僕は根無し草で、誰でもなかったなと思い出した。

次の日、男の居ない隙に綺麗に掃除してから男の家を後にした。

掃除の間、立つ鳥跡を濁さずって言葉を何度も意識していたと思う。











──さて、現実逃避をしていたが、今は昨日の再演をしているようだ。

僕は再び誠実な男の家でお風呂に入っている。
少し違うのは「下着は昨日の洗ったやつがあるよな」と確認されたところだ。今夜はコンビニに行っていないらしい。

少しだけお湯に浸かって、すぐに出た。借りたトレーナーはやはり丈が余っている。朝と同じように膝のところを引っ張って、爪先立ちで歩いた。

「お風呂ありがとうございました。」
「…待って、裾折るから」

男はやはり甲斐甲斐しく僕の服を整えて、抱き上げて、ソファに降ろして髪を拭く。やはり昨日の再演のよう。

「俺も風呂に入ってくるけど、逃げないか?」
「…服を借りてるから逃げない」
「着ていたのは洗濯するから、待ってて」

頭をひと撫で。そうして僕を気にしつつも男は洗面所へ向かった。
頭を撫でられたことは、初めてかもしれない。

「……」

昨日とは違うトレーナーは、やっぱりこの部屋の匂いがする。
不快じゃないなと思ってしまって、膝を抱えて匂いを嗅ぎ続けた。





「…あー、名前すらわからん……ご飯、届いたから起きな」
「………ん」

名前…いつも適当に名乗ってるから、今回はなんて名前にしよう。頭回らない。面倒…

「ふぁ…なまえ、光希(みつき)。僕、もしかしてソファ濡らした…?」
「……みつき。」

あ。本名言ってしまった。まぁいいか
頭が触れていたところに手を添えると、布張りのソファがしっとり濡れてしまっている。

「…ごめんなさい、ドライヤー貸してもらっていいですか」
「あ、あぁ…すぐ持ってくる」

洗面所に行ってすぐに戻ってきた男からドライヤーを受け取る。コンセントを差してもらうのを待って、ソファの濡れたところに温風を当てた。

「……」
「これで中の方まで乾くのかな…あっ!」

ソファに注視していた僕に覆いかぶさって、ドライヤーを奪われる。
何事かと思えば僕の頭に温風が当てられた。

「ソファとかどうでもいいから。髪乾かして飯にしよう」
「えぇ?」

温風に目を薄めつつもテーブルに目をやるとまたもデリバリーしたらしい袋が置いてある。
その奥には僕が朝、投函口に挟んだ封筒もあった。

「…みつきって、漢字は?」
「え、…光に、希望の希だけど」
「そっか。俺は(はゆる)。映画の映って書いて、(はゆる)。」
「はぁ」

急に自己紹介されたけど、僕が名乗ったせいか。
やがて髪が乾いたらしい。ドライヤーを片付けられて、隣に座ってデリバリーの袋を開けた男に、僕は困惑しながらもソファの濡れた部分が気になって仕方なかった。








「あの、働いてるのに二日連続ソファは流石に…」
「わかった」

理解してくれたとホッとする。
先に洗濯機回したりしてくると言って離れた男を見送って、僕は食事の後を片付けようとしてこの街のゴミの分別はどうなっているのだろうと困った。
とりあえず同じ種類のものをまとめていく。ビニール袋はとりあえず畳んでみる。そうしているうちに男は戻って来て、未開封の歯ブラシを手渡してきた。

「歯磨き粉とかは洗面所にあるの使って」
「…すみません」

今後は、下心も悪意もなさそうな男にはついて行かないようにしようと誓った。善意でここまで世話されるのは申し訳なさすぎる。
歯磨き粉を少しもらって、洗面所の鏡を見ながら歯を磨いた。ぼやけていて自分の顔はよく見えない。僕は視力が弱いから目を顰めないとあまり見えないんだ。
でも、目を顰めると睨んでるって思われるからぼやけた世界を生きるようにしてる。

手の平に水を溜めて、口をゆすいだ。
水は跳ねていないかな、汚していないかなと洗面台を注視していると横からタオルが顔に当てられて肩がビクッと跳ねる。

「気を使ってタオル使わないと思った。…袖、濡れたね」
「……すみません」

貸して頂いている立場で服を濡らしてしまって。気をつけたつもりではあったのに…
着ていたトレーナーを下から引っ張られ、力に従ってバンザイしたらそのまま脱がされた。ポカンとしているうちに歯ブラシは取り上げられたし、昨日みたいに抱き上げられてあっという間に運ばれる。

昨日寝た寝室のベッドに降ろされ、新しいトレーナーを手渡された。

光希(みつき)
「…はい」
「それ着たら寝よう。…絶対に手は出さないから、おいで」

布団を捲って、ポンポンとシーツを叩かれた。
手を出さないって本当かな…でも昨日も手を出さないって言って本当に出されなかった。
戸惑ったけど、どうしたらいいか分からない僕は、新しいトレーナーを着て男の隣に寝転んだ。






寒い…


眠りにつき、寒さに目を開けたら掛け布団が全て男の方にいっていた。それはそうだ。今までそうして寝ていたんだ。
異物である僕が入ったところで無意識下では習慣が勝つ。だからお人好しすぎる男がぐっすり眠れているなら良かったなと丸まった。

寒いのはいいけど…困った。くしゃみが出そうだ。


「っ…………………くしゅっ」


出来る限り息を止めたり、ボリュームを下げようと努力はしたけど飛び出したくしゃみに内心焦る。
起こしてしまってないか、様子を見ようとしたら男の体温で温まった掛け布団がふわりと僕を包み込んで、掛け布団ごと抱き寄せられた。

「ごめん。寒かったな…」

半分寝ている男は僕を抱き締めて、冷えた僕の背中をぽんぽんと叩いてまた眠りについた。

心をさらけ出したら、都合が良いと搾取される。過去は話せば同情というエンタテインメントとして消化される。
世界はちっとも優しくなくて、でもなかなか手放してもくれない。僕も世界の一部だから。
だからどんな苦しさも、過去になれと受け止めて、終わったものと後ろに隠す。

ひと時の優しさは、僕に大きな苦しさを与えるのに。
外から与えられる怒り、憎しみ、蔑み、被虐という快楽の形よりもよっぽど苦しくなると、わかっているのに。
一瞬の優しさは何よりも僕を突き落としてくるのに。

…怖い。逃げられない。

せめて誠実な彼が涙で汚れないように、僕は自分の顔を手のひらで覆って温かさを感じていた。









「…あの、お仕事は」
「今日は休み。牛乳は飲める?」
「お腹が痛くなるので…」

当たり前のように僕を生活の一部として扱う。男の温もりで再び眠った僕を優しく起こした男は朝食に悩んでいた。
僕は今朝もソファに座っている。

「そっか。もうどっかでモーニング食べる方がいいかなぁ」
「僕はおにぎりがあるので、そろそろお暇を」
「まぁまぁ。おにぎりって昨日食べる予定で買った?」
「そうじゃなくて、えぇと…頂いたものが」

リュックを取りに行こうとズボンを握ったら「取るから座ってて」と制止された。
手渡されたリュックからおにぎりを取り出すと「……それ、俺がテーブルに置いて行ったやつじゃないよね?」と取り上げられる。

「…放置したおにぎりってこんな固くなるんだ。」
「でも食べられます」
「なら俺が食べる。光希(みつき)は別の」
「だめ!」
「やっぱりダメじゃん。ほら、着替えてモーニング行こう」
「……なんでこんなに施すんですか。家出してて可哀想ですか」

ドキドキする。あまり人に口答えなんてしたくない。
でもこの人は明らかに損をしている。やらなくてもいい事ばかりしている。
何が目的か何も分からないけれど、ただの同情でお人好しをしているのなら、無駄になる。この人と離れて間もなく僕はまた生死不明の旅に出るのに。
無意味な延命に対価も貰わないこの男は、損をしている。

必死に抵抗する僕に、ぼんやりした世界で見える男はやっぱり優しい顔をしている気がして。
ソファに座っている僕の目の前にしゃがみこんだ。

光希(みつき)、結婚しようか。」
「はぇ?」
「結婚。一緒に寝てて、それもいいなぁって思った。」

結婚って、お付き合いして、その先にあるものだと思ってた。
お見合い結婚とかあるけど、それさえも何回か顔を合わせたりするんじゃないのか。

光希(みつき)は何歳?」
「19歳です」
「………思ったより離れていたな…」

ブツブツと考え込む男に毒気が抜ける。僕も考えなしだけど、目の前の人も結構な考えなしかもしれない。

「お兄さんは何歳なんですか?」
「………27。ごめんオッサンで…キモかったよな」
「えっと、…8歳上!へぇー大人だ」

大人なのに、急に結婚しようとかこんなに向こう見ずなことしちゃうんだ。

光希(みつき)は家出してるから、身分証とか色々困るだろ。結婚して俺の籍に入ったら手っ取り早いなって…」
「自分の戸籍はもっと大事にした方がいいですよ」
「俺は光希(みつき)を大事にしたい。」
「…どうしてですか」
「一目惚れかな。あとは…今日を逃したら光希(みつき)は生きるのを諦めそうだから、死ぬくらいなら繋ぎ止めたい。」
「……」

どうしよう、困ったな。もしかしたらお兄さんの人生をぐちゃぐちゃにしてしまうかもしれない。
でも僕の生死の分岐点は、きっとここなんだと直感は叫ぶ。

「僕、ちゃんとややこしい人間ですよ」
「察した上で惚れた。」
「僕がこの先で野垂れ死んだとしてもお兄さんは何も関係の無い話です。同情で自分を犠牲に…」
「ごめん、同情はしてない。…ただ、死ぬなら俺にくれないか?」

こんなに熱烈に求められたのは生まれて初めてだ。
一昨日知り合ったばかりで、会ったのは三回目。お互いのことを何も知らないのに…なんで僕にここまで本気になるんだろう。
ただ、困ったことに目の前のお兄さんは少しも不快感を感じないんだ。
僕を搾取しようとしていない、かと言って同情もしていない、世話は焼くけど助けようと思っていない。

正義感を満たしたかったら、僕の事情を解決する方に動くから…結婚なんて方法はとらない。
だからきっと、完全な善人ではない。だから僕は迷ってる。
答えを出せない僕に、「そうだな」と少し考えるようにお兄さんは自分の顎を撫でた。

「じゃあ……鬼ごっこ、しよう。」
「へ?」
「最初は逃げて、俺が捕まえて、また逃げて…今、俺がまた捕まえてるだろ。もう一度だけ逃がしてあげるから、次捕まえたら結婚してくれ。」
「逃げるって…」
「待ってて」

お兄さんは寝室に行って、すぐ戻ってきた。

「はい。これで好きに逃げて」
「………いちまんえん」

目の前に差し出された一万円札を凝視してたら、僕の手を掴んで強引に握らされた。

「家出なら、ここは地元じゃないだろ?」
「え、はい…電車で適当に移動して降りた場所がここでした」
「よし。駅に行こう。着替えて」

思い切りが良すぎる。ついて行けてない。
とりあえず洗い終わった服を手渡されたから、僕はその場で着替えた。脱いだ服は畳む前に回収されて、お兄さんも身支度を整え始める。
そうしてあっという間に僕達は外に出て、駅に向かって歩いていた。

「まぁ、俺はカッコよくもない普通の男だけどさ…本気で結婚してほしいと思ってる」
「はぁ…」
「だから、嫌だったら逃げて。でも追い掛けて捕まえるから」
「……正気ですか?」
「ははは!」

隣で笑うお兄さんは、朝日を浴びて眉間の白髪がキラキラ光っている。白髪が多いけど、27歳。偏見はいけないな。

お兄さんは普通じゃないし、正気じゃない。普通の人だったら一万円札渡して鬼ごっこしようなんて言わない。しかも捕まったら結婚しようとか、全てが僕に有利すぎる。

駅に入り、切符売り場の前でようやく足を止めた。
途中で降りてもいい、切符通りに進んでまた切符を買って別の電車に乗ってもいい。宛がないからどこでもいいんだ。
お兄さんは僕に背中を向けて、ゆっくりと歩いて離れた。

……やっぱり、逃げるのが簡単すぎる。人混みに紛れて電車に乗るだけで完了してしまう。
人のお金を使うのは気が引けたけど、これがお兄さんを助ける最後のチャンスだと思ったから、一番遠い駅を選んで切符を買う。

「あの、おつり…」
「逃亡資金だから。んじゃ、行ってらっしゃい」

なんでもない事のように、頭を撫でられる。
お釣りを受け取らず、改札口で見送るお兄さんに背中を向けた。

家出して初めて電車に乗った時は、いつ捕まるかとドキドキして怖かったのを思い出した。
それでも自由を手に入れるんだと、支配からの解放に世界が少し明るくなって…でも、僕が自分で救わない限り、僕の世界に救いはないんだとがっかりもした。

ホームには人が沢山いる。通勤途中らしい人ばかりだ。やっぱり今日も平日だよね、お兄さんは仕事休んだのかな。
僕の為に、休んだのかな…

鼻がツンと痛くなって、たまらず後ろを向く。足が急げと焦って動く。前に前にと進み続け、ついには走り始めた。

ひとりで立つ方法を知らなかった。知ろうとしなかった。だって諦めていたから。
生き方を知らなかった。探さなかった。死んでもいいと思ったから。
死のうとは思わなかった。でも出来るだけ迷惑にならない場所だけ探した。せめて死んだ後くらい、誰かに可哀想だと思ってほしかったから。

例え同情じゃなくて笑われても、迷惑だと蔑まれても、死んだ僕には嫌な言葉はなにも届かないから。

僕は目が悪いんだ。世界は常にぼやけている。
目を顰めたら睨んでるって嫌がられるんだ。怒られるんだ。だから見えない世界を受け入れて、生きていかなきゃいけないんだ。



「────捕まえた。」



ぼんやりした世界の中、お兄さんの背丈と色は、僕にも判別が出来た。

僕を逃がした改札口にまだ立っていたお兄さんに、走って追い掛けて捕まえて欲しいと願ってしまった僕は、自分から抱きついて出会ったばかりのお兄さんの人生をもらうんだと決心した。
後で絶望したっていい、この瞬間の幸せを噛み締めて生きるんだ。
やっぱり不快感のないお兄さんの匂いに、ほっと息をついた。






僕はよっぽど逃げそうだと思われているのか、即決断して即行動の人なのか、まさかまさかで捕まったその足で本当に婚姻届を出しに役所に来ていた。

光希(みつき)、何か身分証みたいなの持ってる?成人してるから親の承認とかは要らないけど…」
「原付の免許証があります」

リュックから出して手渡したら、凝視された。顔写真あるからあまり見ないで欲しいんだけど…

「……ちょっと誕生日とかメモさせて。随分遠くから来たんだね」
「電車で適当に移動してたから」
「これだと先にやる事があるな…オンライン申請出来るか調べるか」
「?」

僕にはよく分からないので大人しく待っていると、手続きに少し時間がかかるけどちゃんとするから待ってと頭を撫でられた。
髪の流れに添って、頭の形をなぞる手は僕を途端に安心させる。

「あの、面倒だったら結婚は」
「面倒でしないとか、そういうものじゃないよ。結婚は絶対する。俺の名字になってもらう。」
「…」
「…光希(みつき)の嬉しい顔、可愛いな」

僕はどんな顔をしていたんだろうか。でも名字が変わるのは正直嬉しい。言われるまで気付いてなかったけれど、僕は本当に決別出来るのかもしれない。

「とりあえず、朝ごはん食べるか。近くに喫茶店あるから、そこでいい?」
「どこでも…」
「夫に遠慮はしないでいいからな」

そうか、夫婦になるのかと少しずつ実感が湧いてくる。
夫婦ってどんな事が当たり前になるんだろう。手を繋いだり、甘えたりするのかな
「行くぞ」と進行方向を向くお兄さんが手を差し出してきたので早速手を繋いだ。
大きくて、温かい。皮は少し硬いかもしれない。でも心地良い。

「…お兄さん」
「ん?」
「お名前はなんですか?」
「…………柊原(ひいらぎはら)(はゆる)。映画の映で(はゆる)な。名字はともかく覚えてなかったかぁ」
「柊原さん」
光希(みつき)も柊原になるから、(はゆる)の方で呼んで」
(はゆる)さん」

(はゆる)さん、(はゆる)さん、と頭の中で忘れないように復唱した。僕は柊原光希になるんだ…
右手は繋いでるけど、足りなくなって左手で腕を掴む。身体が近付いて少し歩きにくくなった。

「…持ち帰りにするか」
「これ、嫌?」
「嬉しすぎるからもっと触れたくなった。」

(はゆる)さんは結構ストレートにものを言う人なんだなと思った。でもそうか、夫婦だし触れ合いってするよね。

「あの、(はゆる)さん」
「どうした?」
「キスとか、夫婦ならしていいの?」
「………したいの?」

あれ…違ったのかな、どこまで許されるのか確認するべきだった。

「僕はその、寂しいからくっついてると嬉しいけど…(はゆる)さんが嫌なことは何もしないよ」
「それ逆。光希(みつき)がされて嫌なことはしない。…あー、手を繋ぐとか、そういう接触も嫌だった可能性は考えてなかったけど」

気まずそうに頭を搔く姿に笑ってしまう。やっぱり結構考え無しに真っ直ぐ行動する人っぽい。
それなのにお互いの距離を測るよりも結婚が先って、本当に誠実なのに極端な人だ。

「ふふ、僕はなんでも好きだよ。僕を好きになってくれるなら、なんでもするよ」
「自己犠牲はしなくていい。何もしなくても惚れたんだから、俺からはそこまで求めてない。」
「そうじゃなくて…嫌なこと言ったらごめんね。僕を求めてくれると、生きていいんだって安心できるから…接触自体は好きなんだ。それが嘘でも文句は言わないよ」

言葉にするのは難しい。相手が不快にならないようにしたいのに、僕の性質は人を不快にすることもあるから。
でも、本当に結婚するなら、僕という人間を知ってもらわないといけなくて…
それに、(はゆる)さんからの接触はどれもこれも不快じゃないから、もっとして欲しいとは思ってる。

「……キスしていいか」
「人前はよくないよ」
「急いで帰ろう。…ちゃんと、嫌なことは全部拒否して」
「難しいなぁ」
「なら観察する。」

僕はちゃんと自分の性質を理解してるから、嫌なことも嫌って言えないのは目に見えてる。
でも(はゆる)さんはそれを観察すると言っている。やっぱり誠実な人だ。

喫茶店に着いて、二人並んでメニューを眺める。

「……ウインナーコーヒー、頼んでいい?」
「遠慮するなって…好きな物をちゃんと選んで」

なるべく安く済ませようと思った僕を見透かしてた(はゆる)さんは、店に着くなり「安いもの基準は禁止」と僕に言い聞かせてきた。だから頑張って選んで決めた。
沢山並んだドリンクメニューから、コーヒーの上に乗っている生クリームの写真が気になったんだ。クリームソーダみたいな、憧れを形にしたような姿で

「俺はコーヒー、ブラックで…あ、店内で食べます」
「持ち帰らないの?」
「可愛い光希(みつき)には一番美味しいものを食べさせたくなった」

早く帰りたいって言ったり、やっぱり店で食べるって言ったり気分屋だなぁと思ったけど、受け取ったウインナーコーヒーにはテンションが上がる。マグカップにこんもり乗った生クリームはやっぱり憧れの形そのものだ。

「……!!!」
「ふは、こんな可愛いのが俺の妻か…いや、夫か?」
「…妻がいい」

なんとなく。別に女の人になりたいとか、そういう感じでもないけど
なんとなく…響きが気に入ったのかな、この人の妻になりたいって思ったから、意思表示をしてみたら「そっか」とぼんやりする視界の中で(はゆる)さんが嬉しそうに笑っているのが分かった。…ちゃんと、顔見たいな。

夫婦になるって、欲が増えるってことなのかな。目の前の夫になる人が気になって仕方ない。
僕はどうしても上唇についてしまう生クリームを舐め取って、どうしたら上手に飲めるんだろうと首を傾げた。



コーヒーとトーストを食べて、お腹が少し苦しいなと思いつつやはり僕は(はゆる)さんの腕にしがみついて歩いていた。

光希(みつき)って、視力どれくらい?」
「ええと、わかんないです」

二人で外を歩いていたら急に言われて、小学校で視力検査をした気がする…と頑張って思い出したがわからない。
(はゆる)さんは特に気にした様子もなく、同じトーンで質問を続けた。

「体調が悪いとかはないよね?」
「お腹いっぱいで元気です!」
「だよなぁ、いや、もしかしたらあまり周りが見えてないのかなって」
「あ…」

さっきから段差とかに躓いてるせいかな。ボコボコした道は苦手なんだ。
夫婦になるならば、ちゃんと自分のことを教えなければと握っている手を引っ張って足を止めた。

「あの、屈んでもらっていいですか?」
「うん?」
「もう少し……はい、これくらい、近くないと(はゆる)さんの顔がよく見えません」

背伸びをして、ハッキリと見えた(はゆる)さんはやっぱり普通の男の人だ。細目で、でも優しそうな目尻の下がったところは安心できて好きかもしれない。
僕は目がギョロギョロして周りを怖がらせてしまうから、いいなぁと思う。

ここぞとばかりに(はゆる)さんの顔を観察していたら、チュ、と軽く唇を吸われてしまった。

「っわぁ!?」
「とりあえず眼鏡屋行くかぁ。眼科はまた今度改めて行くとして」
「へ?あの、(はゆる)さん!僕にお金を使いすぎです!」
「眼鏡は生活必需品だろ。大丈夫、結婚って金かかると聞くし」
「でも僕は無一文で…!」

結婚というものを、かなり単純に考えていた僕は怒涛の勢いでお金を使わせて申し訳なくなってきた。

「ちなみに切符代のおつり抜いたら所持金はいくらだった?」
「…………36円、です…」
「昨日は何も食べてなかったんだよね?」
「はい…」

恥ずかしい。あまりにも無計画にただ放浪していたのが丸裸だ。
でも僕は本当に、長生きしたかったわけじゃなくて…でもこんなこと、言ったら嫌がられるかな

「……光希(みつき)はやっぱり可愛いな。鍵なんて、わざわざ封筒買わずに剥き身で投函するなり持ち去っても俺の自己責任なのに」
「それは…だめ。もしも鍵がなくて家に入れなくなったらいけないから」
「うん。だから結婚したいと思った。可愛い。」

頭を撫でられて、どうして可愛いと思ったのかわからなかったけど
何故だか無性に泣きたくなった。

「…僕、ちゃんと働きます」
「まぁ知らない街だし、まずは生活に慣れることからかな」

ほら行くよ、と手を引っ張られてまた歩き出す。
本当に何も気にしていない様子で、僕と一緒に生活を始めようとあれこれ呟いている(はゆる)さんの腕にしがみついた。
誠実な人は、本当にわからない。



僕は本当に自分の顔に自信なくて、似合う眼鏡なんてあるのかな、笑われないかなと緊張していたんだけれど

「すみません、これカラーは他に…」
「あーーー、これもいいな」
「明るい色も似合うか…」
「悩むな…えぇ、俺の妻は可愛くて困りますよ。ひとつに絞れない」

僕は黙って立っているだけで、(はゆる)さんが店員さんと相談しながら次々と眼鏡をかけさせてきた。

光希(みつき)、これ一番似合ってると思うけど、どうだ?」
「…ごめんなさい、鏡よく見えなくて…」
「そうだよなぁ。まぁとりあえず一本目コレで、そのうちまた気に入ったの探しに来よう」

(はゆる)さんは頭を撫でるのが癖みたいで、事ある毎に頭を撫でてくるのが心地良い。
レンズを作るのに数時間かかると言われて、適当に外で時間を潰そうと外に出た。

「……次はコートだな」
「……」

結婚じゃなくて、僕にお金がかかりすぎる。
風が吹き始めたのがまずかった。寒さで勝手に身体は震えるし、震えは止められるものじゃない。
「逃がす前に防寒具くらい貸すべきだったよな…気が利かなくてごめん」と自分のコートを脱いで手渡そうとする(はゆる)さんに、
それでは(はゆる)さんが風邪を引いてしまうと必死に拒否したけれど問答無用で掛けられて、夜中に掛けられた布団の温かさを思い出した。

「……っ」

やっぱりコートは返したい。これでは汚れてしまう。でも、声が出せない。
コートが落ちないようにと肩を抱かれて、僕は指で涙を何度も拭いながら二人で歩いた。








「もう買い物しない!やだ!」
「でも食器とか足りないし、食材も…」
「嫌!こんなに沢山、(はゆる)さんも持ちきれないでしょ!」

真新しいコートを羽織った僕は紙袋を強奪して主張していた。
何も持たない僕も悪い。でも最低限でいいと言っても必要以上にアレコレ買い与えようとする(はゆる)さんに流石に怒って外出の終了を申し出たのだ。

(はゆる)さんが持っている複数の袋も、僕が強奪した紙袋達も、全てが僕の物だと買ってもらった物。
こんなに所有物が増えると、困惑を通り越して混乱してしまう。

(はゆる)さんの家を浸食してるみたいだ…」
「妻、だろ。あそこは夫婦の家。なら半分は光希(みつき)の物で埋めてもらわないと」
「うぅぅ…」

自分から飛び込んだ居場所だけど、気になるものは気になる。
こんなに沢山買ってもらって、僕はどれだけ働いたら恩返しが出来るのか想像もつかない。

「せめてあとスリッパ…」
「……」

本当にいいのだろうか、この人と結婚して。
滝のように供給される出来事に心が追いつかない。なんでこの人は僕をこんなに愛しているかのように振る舞えるのだろう。顔を合わせて4回目で、出会って3日目の根無し草に。

「…分かった。眼鏡だけ受け取ったら帰ろう。泣いてもこれじゃ抱き締めにくい」
「……僕だって、泣きたくない」
「知ってる。光希(みつき)のそれはキャパオーバーだ。すまん、浮かれすぎた。」

色々と便利だから結婚しようとしたのかと思えば、僕との結婚を喜んで、浮かれている。
僕の方はと言えば、(はゆる)さんに惚れたのかは分からない。ただ離れたくないと思って捕まえられに行ったけど、それが愛かを判断出来るかと言えば…

(圧倒的に、僕の経験ってろくでもないから信じられないんだ…)

自覚してへこむ。家出をした最初は自由を求めていたのに、いざ自由を得たら僕が次に欲したのは愛だった。
どうしたら手に入れられるのか分からないまま、ただ彷徨って、寂しいなって思うだけなら良かった。
僕は、他人から見て搾取しやすい人間だった事が災いして、そこから消費される根無し草として生きもせず死にもしない旅が始まってしまったのだ。



───汚い。



無性に手を洗いたくなってきた。思い出すべきじゃなかった。
両手は紙袋を握っていて、何も出来ない。

「……光希(みつき)、おいで」
「?」
「コートの前、閉め忘れた。寒くてさ」

冷たい風が強くなって、確かにこれでは寒いだろうと風避けに(はゆる)さんの前に行ったら袋を持った手で抱き締められた。
ガサッとぶつかり合う袋に、大丈夫かと気にするよりも落ち着く匂いが鼻に当たって外にいるのに抱き着きたくて仕方ない。

「…帰りたい」
「ん。帰ろうな、俺達の家に」

そう、帰るんだ。
家に入るのはたったの三回でも、あそこが僕の帰る場所なんだ。






「ちょっと出かけてきたいけど…」
「…逃げないよ。僕、嘘はつかない」

出会った時には痴漢相手に嘘をついたけど、嘘は好きじゃない。
嘘は悪意だから、誰かへの攻撃になるから。

「いや…可愛い妻と離れがたいなって」
「一緒に行こうか?」
光希(みつき)はもう疲れてるだろ。それは駄目。」
「平気だよ、僕…」

可愛い妻と言われて落ち着かないけれど、別に体力的には問題ない。元々一日中歩くだけの生活をしていたんだ。

「平気じゃない。誰かとやりとりするの、疲れるだろ。眼鏡の受け取りしてすぐ帰るから、待ってな」

(はゆる)さんは本当によく僕を観察しているようだ。
頭を撫でられると力が抜ける。別に緊張していた訳じゃないけれど、ほっとするというか。

「…ありがとう、行ってらっしゃい。」
「行ってきます。…見送られるのも、幸せだな」

最後に頬をひと撫でして、名残惜しそうに出て行った。
僕が逃げないかと恐れつつも、僕を気遣って留守番させる。本当に誠実な人だ。

「…うん、疲れた。」

(はゆる)さんと一緒に居るのは、疲れないのかな。わからない。
でも色んなお店に入って、店員さんとやり取りするのは確かに、疲れたな…

「寂しい…」

出て行ったばかりなのに、もう寂しい。これが結婚というものなのだろうか。
座っていたソファに寝転んで、早く時間が過ぎないかなと目を閉じた。






光希(みつき)。ただいま」
「……おかえり、なさい」

目の前で、しゃがんで目線を合わせているのは僕の夫だという事実に、それは夢物語じゃないかとどこか冷えた心が否定しようと顔を出す。
この世界に救いはなくて、冷たくて…

「…怖い」
「ん。おいで」

おいでと言われたから手を伸ばすと、上半身を引きずられて身体は持ち上がり、子供のように抱っこされて
僕達の身体が重なったまま(はゆる)さんはソファに腰掛けた。

「眼鏡屋が本人連れて調整に来いって言ってたから、明日行こうな」
「ん」
「昼飯時をだいぶ過ぎてしまった。腹減ったよな。とりあえずカップ麺でいいか?」
「ん」
「後は光希(みつき)のスマホを買うのと、転居届…はオンラインで出来るらしいから明日やろうな」
「ん…」
「甘える妻は可愛いな。」
「ん………可愛くない」
「起きたか。おはよう」

背中をぽんぽんと叩かれて、なんだか恥ずかしい気持ちになったけど「おはよう」と返してそのまま(はゆる)さんの首に腕を回して擦り寄った。

光希(みつき)のお腹鳴ってるから用意しないと。ちょっと降りような」
「…僕がする」
「嬉しいけど、光希(みつき)は眼鏡つけて慣れるまで待機。気持ち悪くなったらいけないからな」

(はゆる)さんの上からソファの上へと移り、眼鏡を手渡された僕はまだ少ししょぼしょぼする視界に眼鏡をかけた。

「………うわぁ」

ポットに水を入れる(はゆる)さん、(はゆる)さんが一人で暮らしてきた家の中、全てが鮮明に見える。

「どうだ?俺見て幻滅するなよ」
「しない。僕は(はゆる)さんの存在が好きだし」

顔とか、名前とか、生年月日とか。個体識別番号のような情報には興味が薄い。
その人を形成する大切なものであることは理解しているけど、それを手放しに評価できるような人生は僕になかった。
僕はただ、(はゆる)さんという存在に惹かれ始めている事を自覚している。だから即答して、また周りを見た。

あまり物は多くなくて、装飾もないシンプルな家具が並んでいる。
ここが、僕の家でもあるのか。

「そんなに広くはないが、家の中を歩き回って何がどこにあるか把握して」
「家の中…」

つい癖で抱え込んでいた足をソファの下に降ろして、つま先立ちしようとしたら「ちゃんと歩かないとスリッパ買うまで全部抱っこにするぞ」と見透かされたように声がかかって足をぺたりと床に付けた。

「…家の中をって言ってるのに」
「だめ?」

鮮明な世界で、僕の夫になった人をたくさん見たくて。僕は迷わずキッチンに向かって(はゆる)さんに抱き着いていた。

「まぁLDKだし、あとは寝室くらいしか部屋もないからいいか…」

同じ室温の中に居るから極端に温かいとかは無いけれど、(はゆる)さんの体温の分だけ温かい。
せめて邪魔をしないように背中側から抱き着いて、鮮明な世界を眺めた。
眼鏡の枠の中だけ鮮明で、枠の外を見ればたちまち今まで僕が生きていた世界になる。眼鏡が境界線のように僕の世界を区切り、今までの世界に決別を告げるようで少しだけ怖い。

大きな背中に顔を付ければ、眼鏡が当たって傷がついてしまうと焦って離した。便利だけど、僕の夫とは少しだけ遠くなった。

「お湯沸いた。移動するぞ」
「はい」

切り替えて、身体を離してぺたぺたとまた床の感触を確かめ歩く。
ソファに座ればキュルキュルとお腹が鳴って少し笑われて「健康だな」と頭を撫でられた。鮮明な世界の(はゆる)さんは、ウインナーコーヒーのように僕を惹きつける甘い顔をしている。

「やっぱり似合ってるな。可愛い」
「僕は可愛い?」
「出会った時からずっと可愛いと思ってるが…嫌だったか?」

心配する顔、それでも目元には僕への甘さが残ってて、僕は首を振ってそれを否定した。
僕は自分の顔が嫌いだから、怖いと言われるから、信じられない気持ちと嬉しさが綯い交ぜになって胸の奥にじわじわと沁み広がる。
僕が内側から塗り替えられるようで少し怖くて、貴方が望むなら、貴方の理想になりたいと欲が生まれる。

「出来たぞ。食べようか」
「…いただきます。…わっ」
「ははは、期待した通りの反応見れた」

眼鏡が曇って一瞬で視界が真っ白になった事に驚いた僕を見て、(はゆる)さんは愛おしそうに笑って僕から眼鏡を外した。
カップラーメンは、とてもとても美味しく感じた。







改めて考えると、夫婦ってどんな関係だろう。
きっと僕の記憶は当てにならないから正しいを知っていそうな(はゆる)さんに合わせていこうと思っていたら、食事が終わって歯を磨き終わった僕を捕まえてソファで抱っこし始めた。
向かい合って、(はゆる)さんの上に座る僕はそれでもまだ目線が逆転せず背中を丸めた(はゆる)さんの鼻が僕の首に当てられる。

光希(みつき)はいい匂いがする」
「…あまり嗅がないで」
「俺の事は頻繁に嗅いでるのにな」

バレていた。
後ろめたさと恥ずかしさに顔を覆いたくなるけど我慢して、なんでこんなに僕を可愛がるんだろうと不思議に思う。

「…一目惚れというのを、まだ信じられないです」
「んー?ま、そうだろうな。出会って間もないし」

信じていないと言っても気にしない様子で僕の手触りを確かめるように撫でる(はゆる)さんが分からない。
同情していないと言っても、同情以外で結婚まで踏み切る理由はあるだろうか、僕を何度も捕まえる理由になるだろうか。

僕という人間の内面を理解せずに、背負う覚悟がこの人にあるのだろうか。
…人に背負わせるものでもないけれど

「…あのね、僕が生きてた家は、崩壊してる家庭だったんだ」
「そうか」
「僕は見た目が、あまりよくなくて、目がギョロギョロしてるとか、睨んでるとか、醜い部分を見つけては笑われてて」
「こんなに可愛いのにな。目は大きいし、鼻筋は細長いし、唇もこんなにうまそうだ。」
「…」

じっくりと顔を観察されるのは慣れないなと目線を横に向けると眼鏡を外された。
ぼやけた世界で、間近くにいる(はゆる)さんの顔だけが鮮明に見える。

「えっと…父、親は暴力で従わせる人で、母親は、親じゃなくて女を選んで…」
「…」
「ずっと、わからなかったけど、僕はただ、人生を決められた通りに進んで思い通りに生きる…人形みたいって気付いて」
「そうか」
「でも、あの人達は、外では良い家庭を演じるのが上手で、僕が何度死にそうになっても、誰かのせいにして暴れる人達で……誰かのせいになるのが苦しくて、怖くて、逃げて」

(はゆる)さんの顔までぼやけてしまう。見ていたいのに、僕の夫だけが映る世界を感じたいのに。

「誰のせいにもせずに、死にたかったんだな。」
「……っ」

そうなのかもしれない。
僕のせいで苦しむ人が増えるのは嫌で、それでもどうしたらいいか分からなくて、戦い方を知らなくて。
ぶるぶると震える身体に、少し興奮したように笑う顔が怖かった。
睨むなと言われると、力を見せつけて睨むその目と同じ目をしているのかもしれないと感じて嫌だった。
僕の望みはこうだと決め付けられて、全ての道を決められるのに疑いもしなかった自分に気が付いて、嫌だと思った。
あの人達のコピーになるような気がして、この世に居ては誰かを傷付けると思って、

「……こんな僕と、結婚するんですか」
「…するよ」
「死にかけた僕の寿命を伸ばして、どうしたいんですか」
「まずはデロデロに甘やかしたいかな。」

キッパリと言い切った(はゆる)さんの唇が、僕の唇に吸い付いた。

「…苦労したなとは思うが、俺は医者じゃない。光希(みつき)を救えるとは言えない。…ただ、この世界から失うには勿体ないと思った。これからは俺の妻として生きてくれ」

唇が雨になる。柔らかな感触が、僕の心を撫でつける。

「…たまに、こうして苦しかった事を話しますよ」
「構わん。その度に甘やかす」
「僕のこと、そんなに好きになったんですか?」
「一目惚れだって、何度も言ったろ」

一瞬の恋情で、結婚を決めて、僕の重さを受け止めると言い切る男に信用は出来ないと決め付けるのは簡単だ。
でも僕は、どうにも惹かれてしまっている。人生で(はゆる)さんとの思い出だけを切り取って、僕を再構成したいと思うくらいには。

この人との期間を考えるなら単純すぎて、軽すぎる。
それでも滲み出る誠実さとか、本心から僕をプラスに評価していると感じさせるその雰囲気が、僕に依存心を植え付ける。

(どうせ生きているかもわからない、死んでいたかもしれない命なら、この人を運命だと思って傷付いても、後悔はしないのかもしれない)

だってそれは、誰かに決められた人生でなくて、僕が決めた人生の形なのだから。

光希(みつき)のあれこれ考え込んでいる姿も、可愛いな」
「?…どんな姿ですか?」
「大きな目が少し伏せられて、寂しい寂しいって自分を抱き締めたり、俺の服を握り締めたりしてる」
「………それは、自覚していませんでした」

寂しいって見てわかるような姿をしていたのか。曲がりなりにも成人男性でそれはちょっと、恥ずかしい。

「俺で寂しさが埋まるといいな」

また僕の首へと吸い寄せられるように(はゆる)さんの頭が落ちて、「今はこれが幸せだ」と断言された。


僕は今、貴方の世界に溺れたい。


頬を擦り寄せた頭は髪がちくちく刺してきて、少しくすぐったいなと頬が緩んだ。