むすんで、ほどいて、君の名を呼ぶ

「ふぁあ……」

 小さく欠伸(あくび)を噛み殺しながら、まだ眠い身体を引き摺ってベッドから起きようとすると、スマホが振動した。

「ぅ、ん……?」

 まだぼんやりした頭で画面に視線を落とすと、目に入ったのは一つの通知だった。

『おはよ』

「っ……!」

 たった三文字の短いメッセージと、相手の名前が目に入った瞬間、それまで霞んでいた意識がはっきりと浮上する。

 木嶋(きじま)くんだ。

 そういえば昨日の夜、『どっか行こう』ってところで木嶋くんが寝ちゃってそのまま朝になったんだよね。

 もしかして今日遊びに行くとか……ううん、今日は土曜日だからバイトかもしれない。

 そもそも朝起きるとメッセージが来てるのが常だけど、今日じゃない気がする。

 どきどきする胸をパジャマの上から抑えながら、僕も『おはよう』って返そうとしてると、パッと通話画面に切り替わった。

「わ、わっ」

 あんまりにも唐突で、スマホを取り落としそうになったけどなんとか通話ボタンを押す。

『おはよ、(かおる)

 耳元に低い声が直接響いてる気がして、さっきよりも鼓動がうるさい。

「お、おはよう……ござい、ます」

『なんで敬語なん』

 くすくすと木嶋くんの笑い声が聞こえてきて、なんとも言えない気持ちになる。

『今起きたとこ? 寝起きの声、ちょっと高いんだな』

 可愛い、と木嶋くんがさらりと口にする。

「っな、何してるの?」

 羞恥心を誤魔化すように、僕は少し上擦った声で尋ねた。

『ジョギング。ほら、前言ったろ。いつも早めに起きて走ってるって』

「あ……そう、だったね」

『誰かと……前一緒に来てた女の子と予定とか、あったりする?』

 すると木嶋くんの遠慮がちな、ともすれば歯切れの悪い声が耳に入る。

夢菜(ゆな)? ううん、今日は友達と遊びに行くみたいだから無いけど……どうしたの?」

 確かクリスマスマーケットに行く、って言っていた。

『赤点ギリ回避したから、思いっきり食べてストレス発散してくる!』って意気込んでたっけ。

『あー……そっか』

 こんなに歯切れが悪い木嶋くんは告白された時以来で、ちょっと新鮮な気持ちになった。

『──もうちょいしたら帰るから、着替えたら迎えに行く。薫はゆっくり準備してて』

「え」

 やがて口早に捲し立てられたと思ったら、僕が何か言う前に通話が切れた。

「え、出掛ける、ってこと……?」

 ほとんど独り言に近い声が、しんと静まっている寝室に反響した。




 最寄り駅から少し歩いたカフェの近くに、黒い服装をした長身の男の人が立っているのが見えた。

「お、お待たせ……!」

 さっきまで頑張って走ってきたけど、最後の力を振り絞ってまた脚を動かす。

 スマホを見ていたその人──木嶋くんは僕の声に気付くと、柔らかく口角を上げた。

「おはよ。……そんな走らなくてもいいのに」

 くすりと木嶋くんが小さく笑って、息を整える僕の背中を撫でてくれる。

 だ、だってわざわざ近くまで来てもらって、待っててくれてるって思ったら申し訳なくて。

「はぁ……は、あっ」

 って言いたいのに、喉が痛くて呼吸するのが苦しい。

「大丈夫? ちょい休憩する?」

 ちらりと木嶋くんが後ろのカフェを指さして、心配そうに眉を寄せた。

「ううん、だいじょ……ぶ、っ」

 ごほ、と小さく咳き込んで、でも木嶋くんは何を言うでもなく背中を摩ってくれる。

「ならいいけど。しんどかったら言ってな、どっか休めるとこ探すから」

 言いながら、ぽんと頭を撫でられる

 綺麗にセットしたのにって思ったけど、まだ息ができない以前に手つきが優しいから、怒ろうにも怒れない。

 それに学校でこういうスキンシップはしない、って約束したから、実に五日ぶりに木嶋くんに触れられている。

 もっと撫でて欲しくて、しばらくされるがままになっていると、ふと木嶋くんの手が離れた。

「──そういや、名前」

「え」

「いや、名前呼ばれたこと無いなぁと思って。(あかね)は呼び捨てで呼んでるのに」

『なんかズルいな』って木嶋くんが軽く顔を顰める。

 改めて言われると確かにずっと苗字呼びで、名前でなんて一度も呼んでない。

 というか木嶋くん、茜くんに嫉妬してる……?

 もしそうだったらちょっと可愛いな、いつも格好良いから余計に。

 しばらく駅までの道を歩いてると、不意に隣りを歩いていた木嶋くんが立ち止まった。

「き、木嶋くん……?」

 僕もつられて脚を止めて、少し後ろに立つ木嶋くんを振り返る。

「やっぱ今がいいな、うん」

 なぜか腕を組んで、一人で納得してるんだけど。え、どうしたの?

 唐突な行動に僕が困惑してると、木嶋くんが気持ちいいくらい綺麗な笑顔を向けてきた。

「……ってことで。リピートアフターミー、大河(たいが)

 殊更(ことさら)ゆっくりと唇を動かして、なんなら僕に目を合わせるようにして顔を覗き込んでくる。

「え、いや」

 ひく、と無意識に頬が引き攣って、でも木嶋くんが引いてくれる気配は無い。

 これまでにも何度かキスをして、端正な顔が目の前にあることに慣れてきたはずなのに。

 いざ木嶋くんの顔がキスする時以外に近付くと駄目で、でも今回ばかりは逃がしてくれそうになくて。

「…………くん」

 たっぷり十秒くらい掛けて、やっと彼の名前を唇に乗せた。

「えー、聞こえないなぁ。ほら、もっとちゃんと言って?」

 でもわざと言ってるのか、本当に聞こえてなかったのか、楽しそうに笑うこの人が今だけ少し憎い。

 でも嫌じゃなくて、むしろ愛しいと思う。

「大河、く……ん」

 ぎゅうと胸の前で手を組んで、名前を呼ぶと同時に目を伏せた。

 ただ名前を呼んだだけなのにまともに顔を見れないなんて、成長しないな僕も。

 やがてきつく組んだ手に少し冷たい手が触れたかと思えば、笑い混じりの声が耳に入った。

「まぁ……それでもいっか、他の奴みんな呼び捨てだし。今からずっと薫だけの呼び方な」

 ふふ、と大河くんがくすぐったそうに笑う。

 僕は大きく目を見開いて、まっすぐに大河くんを見つめた。

「なに?」

 案の定緩く首を傾げて尋ねられて、僕もつられたように口元に笑みを浮かべる。

「……ううん、どこ行くんだろうと思って」

 迎えに行くって言われたけど、出掛ける所はメッセージアプリでも教えてくれなかった。

「まだ内緒。……けど、きっと薫が気に入るとこ」

 大河くんは薄く顔を(ほころ)ばせると、自然な仕草で僕の手を握ってくる。
「そっか」

 君と一緒なら、どこへ行くのだって楽しい。

 口には出さなかったけど、一つ一つ絡んだ指先から何を考えてるのか伝わったのか、繋がれた手にほんの少し力が込められる。

 大河くんと僕のバッグには、僕が作った色違いのキャラクターのあみぐるみが、楽しげに揺れている。

 ちらりと隣りを見上げると、僕の視線に気付いた大河くんが淡く笑って、僕も誘われるように唇に笑みを乗せる。

 冬の冷たい空気なんか忘れるくらい、胸の奥が暖かかった。