「……あ、なくなっちゃった」
ぽつりと小さく零して、手元に視線を向ける。
自販機でホットココアを買って、少しずつ飲みながら一時間くらい経ったかな。
もう冷たくなった缶を両手で包み込みながら、なくなったって分かってるけどプルタブに口を付けた。
でもやっぱり甘いそれが舌に伝わることはなくて、名残惜しさを感じつつも缶をすぐ傍に置く。
スタジアムのある通りを出た先は思っていた通り公園で、思ってた通りベンチもあったから僕はここで木嶋くんを待つ事にした。
『じゃあ戻ってるから。話し終わったら教えて』
そう言って夢菜がショッピングモールへ戻ったのが、四十分くらい前。
さすがに寒い中女の子と一緒に待ってる訳にもいかないし、木嶋くんが用があるのは僕だから。
「捨てるところ、どこだろ」
飲み切った缶を持ちながら、ちらりと辺りを見回す。
自販機の近くにゴミ箱ってあったっけ、ちゃんと見てなかったな。
まだ木嶋くんから連絡が来る気配は無いから、ゴミ箱を探しがてら少しでも身体を温めようかな。
ベンチから立ち上がるのとほとんど同時に、ポケットに入れているスマホが振動した。
「っ」
反射的にスマホを見ると二件通知があって、一つはパズルゲームの通知でもう一つは木嶋くんだった。
『今終わった。まだ近くにいる?』
続けて黒猫が手を合わせて、大きな瞳を潤ませているスタンプが送られてくる。
「……いるよ」
ふふ、と意識しなくても自然と口元が緩んで、キーボードを打つ前に言葉が漏れる。
『近くの公園にいるよ、ベンチに座ってる』
そう送ると、すぐに『待ってて』と返信が来た。
この分だったら、木嶋くんが来るまであんまり時間は掛からないだろうな。
「へ、変な顔してない、よね……?」
普段はそんなに気にしてないのに、今になって薄く付けたファンデが取れてないかとか、そばかすが浮いてきてないかとか、余計なことばかりが頭に浮かぶ。
でも突っ込んでくれるはずの夢菜は隣りにいないから、僕の声が虚しく響くだけだ。
カメラアプリを起動させて、何度も顔の角度を変えたりスマホを持つ手を変えたりする。
……よかった、まだ綺麗だ。
そのままスマホで短い動画を見ながら心を落ち着かせていると、あっという間だった。
「糸瀬ー!」
「っ」
声がした方に顔を向けると、木嶋くんが手を振りながらこっちに走ってくるのが見えた。
「ごめんな、待たせて」
木嶋くんの声がいつもより弾んでいる。
「ううん、大丈夫」
にこ、と淡く口角を上げる。
目の前に立たれてるのに、威圧感とか怖さはまったく無い。
木嶋くんはいつもにこにこ笑ってるから、いつの間にか僕も笑顔を見せるのが当たり前になってる気がする。
それに最初みたいな愛想笑いとかじゃなくて、ちゃんと笑えてると思う。
「……それならいいけど」
僕に向けられた顔はいつもと変わらない笑顔を浮かべていて、でも昨日よりマシとはいえ冬だから十分寒い。
なのに木嶋くんのおでこや首筋には玉のような汗が浮かんでいて、さっき会った時は腰に巻いていた、黒い上着を手に持っていた。
「ってか顔赤いじゃん。もしかしてずっと外で待ってた?」
中で待っててくれてもよかったのに、と木嶋くんが続ける。
「えっ、と……あの中に入れたの?」
僕はちらりとスタジアムのある方向を見る。
夢菜が言うにはチケットが無いと入れないはずで、なのに木嶋くんの口振りだと誰でも入れるような口調だ。
僕の言葉に木嶋くんは目を瞬かせて、でもすぐに顔を背けて片手で顔をおおった。
「や、これ俺の説明不足だったわ。……けどごめん、先に言っとけばよかったな。スタジアム入ってすぐのとこに、大きめの休憩スペースあったから」
ごめんな、と木嶋くんがまた謝罪する。
なんだかいつもより謝られてる気がする、普段の彼ならそんなこと絶対に言わないのに。
けど僕も夢菜も知らなかったから、木嶋くんが謝る必要はない。
「……木嶋くん」
「俺さ」
『謝らなくていい』って言おうとする僕の声に重なるように、木嶋くんの声が被った。
……あれ、これって。
「……ふ、っ」
どちらからともなく小さく吹き出して、でも先に口を開いたのはやっぱり木嶋くんだった。
「前もあったな、これ。俺ら考えてること同じかって」
あはは、と木嶋くんが目尻に涙を浮かべて笑う。
そろそろ野外ライブが始まるのか、僕が待ってた時に比べて公園に人通りはほとんどない。
だからか、木嶋くんの気持ちいいくらいの笑い声が冬の空に響いてる気がした。
「糸瀬から言って」
やがて木嶋くんが僕の隣りに座って、優しい声で言ってくる。
「前は俺から言ったろ? だから今度は糸瀬から言って」
至近距離で見つめてくる瞳が優しくて、やや茶色がかった瞳には困惑している僕の顔が映っていた。
木嶋くんはいつも、僕が話しやすいように気遣ってくれる。
「あ、っ……」
でも今回ばかりはすぐには言葉が出なくて、堪らず顔を俯けた。
加えてどちらかが少しでも動けば肩が触れ合いそうな近さで、意識しなくても次第に心臓が高鳴っていく。
その拍子にまた、今度ははっきりと木嶋くんから爽やかな香りがした。
……なんなんだろう、この匂いは。
でも嫌とかそういうのじゃなくて、むしろ落ち着く匂いだった。
「ぼ、僕は大したことじゃないから! 木嶋くんからどうぞ」
顔の前で両手を振って、今しがた考えたことを誤魔化すように笑う。
そう、きっと木嶋くん『からすれば』大したことじゃない。
まさか『木嶋くんから不思議な匂いがする』なんて言えなくて、加えて『木嶋くんのことが好き』なんてもっと言えない。
……そう思うのに、口を開けば今度こそ『好き』が溢れ出してしまいそうで。
「……分かった」
僕の気持ちを汲んでくれたのか、低く静かな声が耳に入る。
「俺、糸瀬にずっと言えなかったことがあってさ。……長くなるけど、聞いてくれる?」
改めて僕の顔を覗き込むように、木嶋くんが緩く首を傾げて問い掛けてくる。
言えなかったこと、ってなんだろう。
そう考えるよりも先に、僕は小さく頷いていた。
「ありがと」
そこで一度言葉を切ると、木嶋くんは顔を俯けると膝の上で手を組み合わせる。
「もう茜が言ってるのか知らねぇけど、今やってるバイトって着ぐるみなんだ」
「……へ?」
突然何を言い出すんだろう、この人は。
でも着ぐるみのバイトって大変そうなイメージがある、特に夏場は。
「笑うだろ、こんなデカい男が可愛い系のバイトしてるって。……ま、そこら辺は正直、どうでもよくて」
心の中で突っ込んでいると、ややあって木嶋くんがまた僕の方を見た。
その表情はさっきとは違って何かを堪えているような、ともすれば苦しそうな顔で、段々と僕まで心臓が痛んでくる。
「俺……バイトしてる時、糸瀬に会ってるんだ。風船あげたよな、あの中の奴が俺」
「ふう、せん……? え、あ……茶太?」
それは先日、夢菜とショッピングモールへ行った時の事だ。
冬から始まったアニメのイベントがあって、僕は夢菜に頼まれて場所取りをしていた。
でも人が多くて途中で気持ち悪くなって、転けそうになったところを助けてくれたのが──。
「ご明察」
僕の言葉に、木嶋くんは軽く口角を上げてピースする。
「ま、まだ時間じゃないし勝手に風船あげたしで、裏で注意されたけど」
ははは、と木嶋くんが小さく笑う。
「けど、糸瀬だって気付いたのは後になってから。ああいう格好するんだ、って新鮮だったなぁ」
その時の事を思い出すように、木嶋くんが軽く目を眇める。
前と同じ服装じゃないけど、白のニットと黒いスキニーに同色のコートを羽織っている。
いつものマフラーも巻いてたけど、夢菜に貸したからここには無い。
「どう、して……言って、くれなかったの」
僕は木嶋くんの視線から逃げるように、そっと目を伏せた。
思い返せば、転けそうになったのを見られていて、でもすんでのところで助けてくれたわけで。
もう忘れてたはずなのに、今になって恥ずかしくなってくる。
でもやっと一つずつ、パズルのピースが嵌っていく気がした。
同時に木嶋くんから香ってくる匂いは、制汗剤なんだと思う。……こればっかりは、直接聞かないと分からないけど。
「ごめん、言うタイミングなくて。俺が余計なこと言ったの分かってたし、もっと気まずくなる気がして怖かったんだ。糸瀬のペースで仲良くなりたかったから」
まぁ強引だったかもしれんけど、と苦笑して頭を搔く。
確かにその前、僕が一方的に逃げてしまって……でも結構グイグイ来られた気がする。
「なんか……僕だけ知らなかったみたいで、恥ずかしい」
「や、すぐに言わなかった俺が悪いんだし」
ほとんど口の中で呟いた小さな、本当に小さな言葉に木嶋くんが慌てたように返す。
ただ、着ぐるみの中の人が木嶋くんだって知ってたら、彼の言う通り気まずくて避けていた気がする。
クラスいちの陽キャにカッコ悪いところを見られて、それをみんなにバラされて、笑われたりしたら……って、自己嫌悪してたかもしれない。
でも木嶋くんはそんなことしないって、今なら分かる。
だってこんなに優しくて、今も僕が傷付かないように言葉を選んで、気遣ってくれる人だから。
「糸瀬は悪くないから……そんな顔すんな」
「っ」
不意に横から大きな手が伸びてくる気配があって、でも僕の頬に触れる手前で止まった。
「……糸瀬は」
「どうして、そんなに優しいの」
「は、っ……?」
また声が重なって、でも今度はお互い笑わなかった。
木嶋くんは切れ長な瞳を大きく見開いて、じっと僕を見つめている。
僕も木嶋くんをじっと見つめる。
今、どんな顔をして彼を見てるのか分からないけど、困惑させてしまってるのは間にながれる空気感で理解した。
同時に期末テストが始まる前、無意識にメッセージアプリで聞いて、でもすぐに取り消した言葉と同じだって言った後に気付く。
今度はアプリみたいにすぐに取り消すこともできないし、でも恥ずかしくて逃げるなんて絶対にしたくない。
「あー……そう、くるかぁ」
先に目を逸らしたのは木嶋くんで、僕から顔を背けると目を閉じてぐしゃぐしゃと頭を搔く。
あれ、僕もしかして木嶋くんを困らせるようなこと言っちゃった……!?
「あ、えっ……ちが、くて……! 木嶋くん、最初からずっと態度変わらないか……ら、っ」
「確かにそうだ、ちゃんと言わないと分かんねぇわ」
慌てて口を開くけど、最後まで言い終わる前に木嶋くんが遮ってくる。
でもそれは僕じゃなくて、自分に言い聞かせてるように聞こえた。
「最初は、本当に最初は……単に仲良くなりたい、って思ってただけなんだ」
しばらくして、静かな落ち着いた声がぽつぽつと響く。
もう止んだと思った冷たい風がまた吹き始めて、でも緊張からかあんまり寒さは感じなかった。
「でも……なんでかな。他の奴と話してる時よりも、糸瀬と話してる時の方が楽しいし、俺は糸瀬の前だけ本当の自分でいられるって気付いた」
木嶋くんが声を出す度に、白い息がゆっくりと冬の空気に溶けていく。
あれ、これって……。
じわりと目を瞠るのと同時に、木嶋くんがじっと僕を見つめてくる。
まっすぐに射抜かれた視線が優しくて、なのにそれまで見たことがない甘さがあって、じわじわと頬が熱を持っていくのがいやでも分かった。
「顔見てたら分かりやすいし、俺の言葉ですぐ照れたり黙るとこも可愛い。……今みたいに」
「っ」
ふっと木嶋くんが淡く笑って、改めて指摘されると恥ずかしかった。
なのに、今から言われる言葉が容易に予想出来てしまったから、羞恥とは違う意味で目の前がぼやける。
「……でも怖いんだ、自分よりいい人がいるんじゃないか、告ったら嫌われて、もう話せなくなるんじゃないかって」
木嶋くんが何を言ったのか小さくて聞き取れなかったけど、やがてベンチから立つと僕の前に膝をついた。
「──やっと分かったよ」
そこで言葉を切ると、木嶋くんがまっすぐに僕を見上げてくる。
「男同士だからとか、そういうのは関係ないくらい……俺は糸瀬が──薫のことが好きだ」
じっと見つめてくる瞳は真剣で、嘘なんて言ってないんだって瞬時に理解した。
「俺と付き合ってください」
まっすぐに紡がれた言葉は、一生懸命堪えていた最後の砦を崩すには十分だった。
同時に木嶋くんの顔がはっきり見えなくなって、頬に熱いものが流れていくのを感じる。
「ぼ、く……なんか、で……いい、の」
自分でも面白いくらい声が震えて、途切れ途切れしか言葉が出ない。
気持ちに応えたいのに、『僕も木嶋くんのことが好き』って言いたいのに、彼みたいにまっすぐ目を見て言えなくて。
でもそれ以上に木嶋くんも同じ気持ちだって知って嬉しくて、口を開いても嗚咽しか出なかった。
「っ、う……っ」
こんな自分が情けなくて、ぼろぼろと涙が後から溢れて止まらない。
すると膝の上で痕がつくくらい握り締めていた手に、大きなそれが触れる。
「薫がいい」
熱いほどの手の平の温もりに顔を上げると、木嶋くんがにっこりと眩しい笑顔を浮かべていた。
「……っ」
ぎゅうと痛いほど握られた手が、これは夢じゃなくて現実なんだって教えてくれる。
「……俺のこと、嫌い?」
木嶋くんが確認するように、ゆっくりと尋ねてくる。
ふるふると首を振って否定すれば、ふっと小さな笑い声が漏れ聞こえた。
「……好き?」
今度は確認、というよりももう僕の気持ちを確信してる声で、余裕があって少し悔しい。
……ああ、本当に好きだ。
こんな時でさえはっきり気持ちを伝えられないのに、僕に寄り添ってくれるこの人が。
涙に濡れてぐちゃぐちゃの顔を見せたくなくて、僕は俯きがちに小さく、でもしっかりと頷いた。
「……よかった」
「っ」
ほとんど吐息に近い安堵の声が聞こえたかと思えば、そのままぐいと強く手を引かれて、身体が前に傾く。
けれどすぐ傍には木嶋くんが居るから怪我する事はなくて、むしろ力強い腕に身体を包み込まれた。
ふわりと爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔を擽り、その中に少しの汗が混じったそれはひどく安心する。
まだ口を開くと嗚咽が止まらなくて、何かしら言葉が出てくることはない。
でも木嶋くんが言ってくれた分は好意を返したくて、広く大きな背中を遠慮がちに抱き締めた。
すると一瞬だけ木嶋くんの肩が震えて、けれどすぐに力いっぱい抱き締め返される。
「っ、ふ……」
自然と胸に顔を押し付ける形になって、少し苦しい。
そう思うのにむしろもっとくっつきたくて、ぎゅうと背中に手を回す。
どくん、どくんと心臓が痛いほど跳ねている。
どっちのものなのか分からないけど、きっと同じくらいお互い緊張してたんだと思う。
時々吹く風が冷たいはずなのに、ほとんどないとはいえ公園を通る人はいるのに、抱き締められているから何も気にならない。
「あ、っ……」
やがてどちらからともなく顔を上げて、至近距離で視線が交わる。
木嶋くんの瞳の中には涙に濡れた僕が映っていて、こういうのを逆もまた然り、っていうんだろうな。
そんなことを考えているうちに木嶋くんの顔が段々と近付いてきて、僕は反射的に目を閉じた。
同時に抱き締める腕の力が緩んで、まるで人形を扱うみたいに頬を包まれる。
「ん……」
あったかい、って思っていたら、柔らかくて少し濡れた感触を唇に感じた。
初めてのキスは優しくて温かくて、ほんの少しだけ涙の味がした。
ぽつりと小さく零して、手元に視線を向ける。
自販機でホットココアを買って、少しずつ飲みながら一時間くらい経ったかな。
もう冷たくなった缶を両手で包み込みながら、なくなったって分かってるけどプルタブに口を付けた。
でもやっぱり甘いそれが舌に伝わることはなくて、名残惜しさを感じつつも缶をすぐ傍に置く。
スタジアムのある通りを出た先は思っていた通り公園で、思ってた通りベンチもあったから僕はここで木嶋くんを待つ事にした。
『じゃあ戻ってるから。話し終わったら教えて』
そう言って夢菜がショッピングモールへ戻ったのが、四十分くらい前。
さすがに寒い中女の子と一緒に待ってる訳にもいかないし、木嶋くんが用があるのは僕だから。
「捨てるところ、どこだろ」
飲み切った缶を持ちながら、ちらりと辺りを見回す。
自販機の近くにゴミ箱ってあったっけ、ちゃんと見てなかったな。
まだ木嶋くんから連絡が来る気配は無いから、ゴミ箱を探しがてら少しでも身体を温めようかな。
ベンチから立ち上がるのとほとんど同時に、ポケットに入れているスマホが振動した。
「っ」
反射的にスマホを見ると二件通知があって、一つはパズルゲームの通知でもう一つは木嶋くんだった。
『今終わった。まだ近くにいる?』
続けて黒猫が手を合わせて、大きな瞳を潤ませているスタンプが送られてくる。
「……いるよ」
ふふ、と意識しなくても自然と口元が緩んで、キーボードを打つ前に言葉が漏れる。
『近くの公園にいるよ、ベンチに座ってる』
そう送ると、すぐに『待ってて』と返信が来た。
この分だったら、木嶋くんが来るまであんまり時間は掛からないだろうな。
「へ、変な顔してない、よね……?」
普段はそんなに気にしてないのに、今になって薄く付けたファンデが取れてないかとか、そばかすが浮いてきてないかとか、余計なことばかりが頭に浮かぶ。
でも突っ込んでくれるはずの夢菜は隣りにいないから、僕の声が虚しく響くだけだ。
カメラアプリを起動させて、何度も顔の角度を変えたりスマホを持つ手を変えたりする。
……よかった、まだ綺麗だ。
そのままスマホで短い動画を見ながら心を落ち着かせていると、あっという間だった。
「糸瀬ー!」
「っ」
声がした方に顔を向けると、木嶋くんが手を振りながらこっちに走ってくるのが見えた。
「ごめんな、待たせて」
木嶋くんの声がいつもより弾んでいる。
「ううん、大丈夫」
にこ、と淡く口角を上げる。
目の前に立たれてるのに、威圧感とか怖さはまったく無い。
木嶋くんはいつもにこにこ笑ってるから、いつの間にか僕も笑顔を見せるのが当たり前になってる気がする。
それに最初みたいな愛想笑いとかじゃなくて、ちゃんと笑えてると思う。
「……それならいいけど」
僕に向けられた顔はいつもと変わらない笑顔を浮かべていて、でも昨日よりマシとはいえ冬だから十分寒い。
なのに木嶋くんのおでこや首筋には玉のような汗が浮かんでいて、さっき会った時は腰に巻いていた、黒い上着を手に持っていた。
「ってか顔赤いじゃん。もしかしてずっと外で待ってた?」
中で待っててくれてもよかったのに、と木嶋くんが続ける。
「えっ、と……あの中に入れたの?」
僕はちらりとスタジアムのある方向を見る。
夢菜が言うにはチケットが無いと入れないはずで、なのに木嶋くんの口振りだと誰でも入れるような口調だ。
僕の言葉に木嶋くんは目を瞬かせて、でもすぐに顔を背けて片手で顔をおおった。
「や、これ俺の説明不足だったわ。……けどごめん、先に言っとけばよかったな。スタジアム入ってすぐのとこに、大きめの休憩スペースあったから」
ごめんな、と木嶋くんがまた謝罪する。
なんだかいつもより謝られてる気がする、普段の彼ならそんなこと絶対に言わないのに。
けど僕も夢菜も知らなかったから、木嶋くんが謝る必要はない。
「……木嶋くん」
「俺さ」
『謝らなくていい』って言おうとする僕の声に重なるように、木嶋くんの声が被った。
……あれ、これって。
「……ふ、っ」
どちらからともなく小さく吹き出して、でも先に口を開いたのはやっぱり木嶋くんだった。
「前もあったな、これ。俺ら考えてること同じかって」
あはは、と木嶋くんが目尻に涙を浮かべて笑う。
そろそろ野外ライブが始まるのか、僕が待ってた時に比べて公園に人通りはほとんどない。
だからか、木嶋くんの気持ちいいくらいの笑い声が冬の空に響いてる気がした。
「糸瀬から言って」
やがて木嶋くんが僕の隣りに座って、優しい声で言ってくる。
「前は俺から言ったろ? だから今度は糸瀬から言って」
至近距離で見つめてくる瞳が優しくて、やや茶色がかった瞳には困惑している僕の顔が映っていた。
木嶋くんはいつも、僕が話しやすいように気遣ってくれる。
「あ、っ……」
でも今回ばかりはすぐには言葉が出なくて、堪らず顔を俯けた。
加えてどちらかが少しでも動けば肩が触れ合いそうな近さで、意識しなくても次第に心臓が高鳴っていく。
その拍子にまた、今度ははっきりと木嶋くんから爽やかな香りがした。
……なんなんだろう、この匂いは。
でも嫌とかそういうのじゃなくて、むしろ落ち着く匂いだった。
「ぼ、僕は大したことじゃないから! 木嶋くんからどうぞ」
顔の前で両手を振って、今しがた考えたことを誤魔化すように笑う。
そう、きっと木嶋くん『からすれば』大したことじゃない。
まさか『木嶋くんから不思議な匂いがする』なんて言えなくて、加えて『木嶋くんのことが好き』なんてもっと言えない。
……そう思うのに、口を開けば今度こそ『好き』が溢れ出してしまいそうで。
「……分かった」
僕の気持ちを汲んでくれたのか、低く静かな声が耳に入る。
「俺、糸瀬にずっと言えなかったことがあってさ。……長くなるけど、聞いてくれる?」
改めて僕の顔を覗き込むように、木嶋くんが緩く首を傾げて問い掛けてくる。
言えなかったこと、ってなんだろう。
そう考えるよりも先に、僕は小さく頷いていた。
「ありがと」
そこで一度言葉を切ると、木嶋くんは顔を俯けると膝の上で手を組み合わせる。
「もう茜が言ってるのか知らねぇけど、今やってるバイトって着ぐるみなんだ」
「……へ?」
突然何を言い出すんだろう、この人は。
でも着ぐるみのバイトって大変そうなイメージがある、特に夏場は。
「笑うだろ、こんなデカい男が可愛い系のバイトしてるって。……ま、そこら辺は正直、どうでもよくて」
心の中で突っ込んでいると、ややあって木嶋くんがまた僕の方を見た。
その表情はさっきとは違って何かを堪えているような、ともすれば苦しそうな顔で、段々と僕まで心臓が痛んでくる。
「俺……バイトしてる時、糸瀬に会ってるんだ。風船あげたよな、あの中の奴が俺」
「ふう、せん……? え、あ……茶太?」
それは先日、夢菜とショッピングモールへ行った時の事だ。
冬から始まったアニメのイベントがあって、僕は夢菜に頼まれて場所取りをしていた。
でも人が多くて途中で気持ち悪くなって、転けそうになったところを助けてくれたのが──。
「ご明察」
僕の言葉に、木嶋くんは軽く口角を上げてピースする。
「ま、まだ時間じゃないし勝手に風船あげたしで、裏で注意されたけど」
ははは、と木嶋くんが小さく笑う。
「けど、糸瀬だって気付いたのは後になってから。ああいう格好するんだ、って新鮮だったなぁ」
その時の事を思い出すように、木嶋くんが軽く目を眇める。
前と同じ服装じゃないけど、白のニットと黒いスキニーに同色のコートを羽織っている。
いつものマフラーも巻いてたけど、夢菜に貸したからここには無い。
「どう、して……言って、くれなかったの」
僕は木嶋くんの視線から逃げるように、そっと目を伏せた。
思い返せば、転けそうになったのを見られていて、でもすんでのところで助けてくれたわけで。
もう忘れてたはずなのに、今になって恥ずかしくなってくる。
でもやっと一つずつ、パズルのピースが嵌っていく気がした。
同時に木嶋くんから香ってくる匂いは、制汗剤なんだと思う。……こればっかりは、直接聞かないと分からないけど。
「ごめん、言うタイミングなくて。俺が余計なこと言ったの分かってたし、もっと気まずくなる気がして怖かったんだ。糸瀬のペースで仲良くなりたかったから」
まぁ強引だったかもしれんけど、と苦笑して頭を搔く。
確かにその前、僕が一方的に逃げてしまって……でも結構グイグイ来られた気がする。
「なんか……僕だけ知らなかったみたいで、恥ずかしい」
「や、すぐに言わなかった俺が悪いんだし」
ほとんど口の中で呟いた小さな、本当に小さな言葉に木嶋くんが慌てたように返す。
ただ、着ぐるみの中の人が木嶋くんだって知ってたら、彼の言う通り気まずくて避けていた気がする。
クラスいちの陽キャにカッコ悪いところを見られて、それをみんなにバラされて、笑われたりしたら……って、自己嫌悪してたかもしれない。
でも木嶋くんはそんなことしないって、今なら分かる。
だってこんなに優しくて、今も僕が傷付かないように言葉を選んで、気遣ってくれる人だから。
「糸瀬は悪くないから……そんな顔すんな」
「っ」
不意に横から大きな手が伸びてくる気配があって、でも僕の頬に触れる手前で止まった。
「……糸瀬は」
「どうして、そんなに優しいの」
「は、っ……?」
また声が重なって、でも今度はお互い笑わなかった。
木嶋くんは切れ長な瞳を大きく見開いて、じっと僕を見つめている。
僕も木嶋くんをじっと見つめる。
今、どんな顔をして彼を見てるのか分からないけど、困惑させてしまってるのは間にながれる空気感で理解した。
同時に期末テストが始まる前、無意識にメッセージアプリで聞いて、でもすぐに取り消した言葉と同じだって言った後に気付く。
今度はアプリみたいにすぐに取り消すこともできないし、でも恥ずかしくて逃げるなんて絶対にしたくない。
「あー……そう、くるかぁ」
先に目を逸らしたのは木嶋くんで、僕から顔を背けると目を閉じてぐしゃぐしゃと頭を搔く。
あれ、僕もしかして木嶋くんを困らせるようなこと言っちゃった……!?
「あ、えっ……ちが、くて……! 木嶋くん、最初からずっと態度変わらないか……ら、っ」
「確かにそうだ、ちゃんと言わないと分かんねぇわ」
慌てて口を開くけど、最後まで言い終わる前に木嶋くんが遮ってくる。
でもそれは僕じゃなくて、自分に言い聞かせてるように聞こえた。
「最初は、本当に最初は……単に仲良くなりたい、って思ってただけなんだ」
しばらくして、静かな落ち着いた声がぽつぽつと響く。
もう止んだと思った冷たい風がまた吹き始めて、でも緊張からかあんまり寒さは感じなかった。
「でも……なんでかな。他の奴と話してる時よりも、糸瀬と話してる時の方が楽しいし、俺は糸瀬の前だけ本当の自分でいられるって気付いた」
木嶋くんが声を出す度に、白い息がゆっくりと冬の空気に溶けていく。
あれ、これって……。
じわりと目を瞠るのと同時に、木嶋くんがじっと僕を見つめてくる。
まっすぐに射抜かれた視線が優しくて、なのにそれまで見たことがない甘さがあって、じわじわと頬が熱を持っていくのがいやでも分かった。
「顔見てたら分かりやすいし、俺の言葉ですぐ照れたり黙るとこも可愛い。……今みたいに」
「っ」
ふっと木嶋くんが淡く笑って、改めて指摘されると恥ずかしかった。
なのに、今から言われる言葉が容易に予想出来てしまったから、羞恥とは違う意味で目の前がぼやける。
「……でも怖いんだ、自分よりいい人がいるんじゃないか、告ったら嫌われて、もう話せなくなるんじゃないかって」
木嶋くんが何を言ったのか小さくて聞き取れなかったけど、やがてベンチから立つと僕の前に膝をついた。
「──やっと分かったよ」
そこで言葉を切ると、木嶋くんがまっすぐに僕を見上げてくる。
「男同士だからとか、そういうのは関係ないくらい……俺は糸瀬が──薫のことが好きだ」
じっと見つめてくる瞳は真剣で、嘘なんて言ってないんだって瞬時に理解した。
「俺と付き合ってください」
まっすぐに紡がれた言葉は、一生懸命堪えていた最後の砦を崩すには十分だった。
同時に木嶋くんの顔がはっきり見えなくなって、頬に熱いものが流れていくのを感じる。
「ぼ、く……なんか、で……いい、の」
自分でも面白いくらい声が震えて、途切れ途切れしか言葉が出ない。
気持ちに応えたいのに、『僕も木嶋くんのことが好き』って言いたいのに、彼みたいにまっすぐ目を見て言えなくて。
でもそれ以上に木嶋くんも同じ気持ちだって知って嬉しくて、口を開いても嗚咽しか出なかった。
「っ、う……っ」
こんな自分が情けなくて、ぼろぼろと涙が後から溢れて止まらない。
すると膝の上で痕がつくくらい握り締めていた手に、大きなそれが触れる。
「薫がいい」
熱いほどの手の平の温もりに顔を上げると、木嶋くんがにっこりと眩しい笑顔を浮かべていた。
「……っ」
ぎゅうと痛いほど握られた手が、これは夢じゃなくて現実なんだって教えてくれる。
「……俺のこと、嫌い?」
木嶋くんが確認するように、ゆっくりと尋ねてくる。
ふるふると首を振って否定すれば、ふっと小さな笑い声が漏れ聞こえた。
「……好き?」
今度は確認、というよりももう僕の気持ちを確信してる声で、余裕があって少し悔しい。
……ああ、本当に好きだ。
こんな時でさえはっきり気持ちを伝えられないのに、僕に寄り添ってくれるこの人が。
涙に濡れてぐちゃぐちゃの顔を見せたくなくて、僕は俯きがちに小さく、でもしっかりと頷いた。
「……よかった」
「っ」
ほとんど吐息に近い安堵の声が聞こえたかと思えば、そのままぐいと強く手を引かれて、身体が前に傾く。
けれどすぐ傍には木嶋くんが居るから怪我する事はなくて、むしろ力強い腕に身体を包み込まれた。
ふわりと爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔を擽り、その中に少しの汗が混じったそれはひどく安心する。
まだ口を開くと嗚咽が止まらなくて、何かしら言葉が出てくることはない。
でも木嶋くんが言ってくれた分は好意を返したくて、広く大きな背中を遠慮がちに抱き締めた。
すると一瞬だけ木嶋くんの肩が震えて、けれどすぐに力いっぱい抱き締め返される。
「っ、ふ……」
自然と胸に顔を押し付ける形になって、少し苦しい。
そう思うのにむしろもっとくっつきたくて、ぎゅうと背中に手を回す。
どくん、どくんと心臓が痛いほど跳ねている。
どっちのものなのか分からないけど、きっと同じくらいお互い緊張してたんだと思う。
時々吹く風が冷たいはずなのに、ほとんどないとはいえ公園を通る人はいるのに、抱き締められているから何も気にならない。
「あ、っ……」
やがてどちらからともなく顔を上げて、至近距離で視線が交わる。
木嶋くんの瞳の中には涙に濡れた僕が映っていて、こういうのを逆もまた然り、っていうんだろうな。
そんなことを考えているうちに木嶋くんの顔が段々と近付いてきて、僕は反射的に目を閉じた。
同時に抱き締める腕の力が緩んで、まるで人形を扱うみたいに頬を包まれる。
「ん……」
あったかい、って思っていたら、柔らかくて少し濡れた感触を唇に感じた。
初めてのキスは優しくて温かくて、ほんの少しだけ涙の味がした。

