むすんで、ほどいて、君の名を呼ぶ

「──じゃあ次の休み時間にまた来てね」

「はい、ありがとうございました」

 養護教諭の先生に向けて、僕は小さくお辞儀をした。

 頬に小さめの保冷剤をあてながら、教室までの廊下を歩く。

「……ドン臭いな」

 ぽそりと呟いた言葉は、きっと誰の耳にも届いていない。

 まして心配してくれるような人は、悲しいけどこの学校にはいないと思う。

 体育の時、二人一組での準備運動が終わるとバスケの試合をした。

 試合の邪魔にならないように、僕を含めた五人の控え枠はバスケコートの隅に座って試合の行方を見ていた。

 ただ、しばらくしてボールが僕目掛けて飛んできた時は、すぐに反応できなかった。

「でも顔にぶつからなかっただけマシ、かも」

 はは、と誰にともなく小さく笑う。

 幸い頬を(かす)った程度で、でも少し赤くなってたらしくて、念のためにその後の試合は免除してもらって一人で保健室に行った。

 今日の事を夢菜に言ったら、僕のこと笑うかな。それとも、ボールを投げた人に対して怒るかな。

 投げたのは誰か分からないけど、コントロールが狂うのは誰にでもあることだから仕方ない。

 そもそも僕がもう少し早く反応していたら、最初からこうなってなかった訳で。

「糸瀬ぇー」

「え」

 教室に入ろうとした時、ふと後ろから声を掛けられた。

 振り返ると木嶋くんが満面の笑みで、僕の方に手を振りながら歩いてくるのが見える。

 加えてちょうど授業が終わったのか、木嶋くんの後ろからぞろぞろとクラスメイトの人達が向かってきていた。

「あれ、どしたん木嶋。入らねぇの?」

 他の人と話していた男子生徒の一人が、僕の側で立ち止まってる木嶋くんに話し掛ける。

 その表情は不思議そうで、僕には何も言わないけどこの組み合わせは……まぁ、おかしいって思うよね。

「んーん、ちょっと用事。すぐ戻るわ」

 木嶋くんはひらひらと軽く手を振ってあしらうと、クラスメイトは『そっか』と言って教室に入っていく。

 というか用事? 木嶋くんが、僕に?

 どういう状況なのか分からなくて目を瞬かせていると、木嶋くんの声が頭上から降ってきた。

「話、あんだよね。ま、すぐ終わるから」

 いい? と木嶋くんが軽く首を傾げて問い掛けてくる。

 優しい笑みにつられるように、僕は理解するよりも早く頷いた。

 数歩下がって木嶋くんに着いていくと、ややあって階段の踊り場の所で立ち止まった。

 もう授業は終わってるけど誰かが昇り降りしてくる気配はなくて、ちょっとだけ安堵する。

 でも同時に二人きりの状況を実感して、先日の放課後の事を彷彿(ほうふつ)とさせた。

「……え、っと」

 傍目から見ても挙動不審なくらい、目線をあちこちに彷徨(さまよ)わせる。

 僕、何かしたかな。変事はしてないはず、だけど……。

「ごめんな、引き止めて」

 先に口を開いたのは木嶋くんで、でもどうしてかいつもより声が少し頼りなさげに聞こえた。

「う、ううん。教室戻るだけだったし」

「確かにそうだなぁ」

 くつくつと木嶋くんが喉の奥で軽く笑う。

 今の、気のせい……だよね。

 だって木嶋くんはいつも明るくて、僕みたいにすぐネガティブになったり、弱音なんて吐かない人だから。

「つか、いきなり悪いな。連絡先知っとかないとって思って」

 ぽりぽりと頬を掻きながら、木嶋くんが(おだ)やかな声で言う。

「なるほど……?」

 よかった、いつもの木嶋くんだ。

 そう思うと同時に『なんで』って疑問も湧いてきて、でもすぐにラフ画の締切があるからだって思い直す。

「あ、でもスマホ……」

 二人とも持ってないんだよね。

「……あ」

 苦し紛れに愛想笑いをする僕の言葉で、木嶋くんもやっと気付いたみたいだ。

 見上げた木嶋くんの瞳が、面白いくらい見開かれていた。

「ごめん、そういやそうだわ。教室戻ろ」

 ははは、と木嶋くんが苦笑する。

 というか、引き止めてすぐに言ってくれたらよかったのに。

 何もこんな、あんまりひと気がない場所で言わなくてもいいと思うんだけど。

 そう真正面から意見出来るはずもなくて、僕はまた小さく頷いた。

「──糸瀬、さ」

「っ、なに?」

 改めて廊下を歩いていると、前を歩く木嶋くんがぼそりと僕を呼んだ。

 って反射的に尋ねたはいいけど、いっこうに声は聞こえない。

「き、木嶋くん……?」

 もしかして聞き間違いかな。呼んだのは僕じゃなくて他の誰かとか、単なる独り言だったとか。

「悪い、なんでもない。……交換しよっか」

 すると木嶋くんが僕の方を振り返って、にこりと淡く笑う。

「う、うん。ちょっと待ってて」

 僕もつられて口角を上げるけど、じわりと頬が痛んだ。

 ……腫れてない、よね?

 我慢できないほどではないけど、痛みが引くまでしばらく笑わないようにしないと。まぁ話す相手は多分いないけど。

 早歩きで自分の席に向かって、カバンからスマホを取り出す。

 すると誰かが──木嶋くんが僕の隣りに立った気がして、一瞬だけ心臓がきゅうと音を立てた。

「へぇ、スマホのロックそんな感じなんだ」

「っ」

 低い声が耳元に聞こえたと同時に、少しの汗の匂いに混じって、ふわりと爽やかな香りが鼻腔を(くすぐ)る。

 なんだろう。この匂い、つい最近も嗅いだような……?

「風景、好きだから……っ!?」

 声がした方を見ると木嶋くんが少し身体をかがめて、僕の後ろからスマホを覗き込んでいた。

 ロック画面は夜の海と月が写ったイラストで、編み物のネタを考える延長で描いた。

 簡単なキャラクター以外だと風景画を描くことが多くて、上手く描けたらしばらくロック画面にしている。

 でも木嶋くんに僕の描いたイラストを見られた事よりも、思っていたより距離が近くて、気まずさからさっと目を逸らす。

「綺麗だな、青と黄色のコントラスト……っていうの? 俺好きだわ」

「っ……」

 木嶋くんはスマホを見てるだけなのに、どうしてか僕のことが『好き』って言われてるって思ってしまう。

 そもそも男同士だし……あったとしても友達としての感情のはずで、でもこの気持ちがなんなのか分からない。

「ね、これ糸瀬が描いたやつ?」

 すると至近距離で見つめ合ったまま、木嶋くんが尋ねてきた。

 まっすぐに見つめてくる瞳から逃げるように、僕は意を決して唇を開く。

「……そう。自分で、描いたんだ」

 喉から絞り出すように言った言葉は、バカみたいに震えていた。

「は、っ」

 わ、笑われた……! やっぱり、僕なんかがこんなの描いても……。

 それまで何を考えてたのか忘れたように、お得意のネガティブが発動していく。

 でも木嶋くんはそんな僕の肩に腕を回して、体操服越しに身体が密着した。

「すっげぇじゃん!? え、糸瀬がこんな上手いの初知りなんだけど!」

「っ、ぼく……は」

 好きな事をやってるだけで、今まで褒められた事はほとんどなかった。

 それに木嶋くんの声が思ったよりも大きくて、皆が集まってこないか心配になる。

 でも面と向かって指摘する勇気は無いから、まっすぐに彼を見つめるしかできない。

 木嶋くんは少し頬を上気させて、なんなら興奮しきっているから、僕が否定しても更に褒められる気がした。

 そしたら、絶対に注目される。嬉しいけど、ただの趣味を木嶋くんだけじゃなくてクラスメイトの人達に見られるのは、めちゃくちゃ恥ずかしい。

「すげぇ、本当にすげぇよ糸瀬。教えて欲しいくらいだわ」

 至近距離で見つめてくる瞳がきらきらと輝いて、ともすれば眩しかった。

「やっぱ頼んでよかった。──でも本当に、無理そうなら言ってくれていいから」

「え、っ」
 堪えきれず反射的に目を逸らそうとした時、太陽みたいなきらきらした表情からは想像できないくらい、優しい口調で木嶋くんが囁いてきた。

「──よし。んじゃ、これ読み込んで」

 でも僕が何か言うよりも早く、何事もなかったようにメッセージアプリのQRコード画面を見せてくる。

 それがなぜか誤魔化されたように見えた。

 そういえば、ライブ用のラフ画を頼んできた時も似たようなことを言ってたな。

 もしかして木嶋くん、僕の負担になってると思ってる?

 そう思ったけど唇は少しも動かなくて、仮に予想が合ってたらまったくの見当違いだ。

 楽しみながら考えてるのに、そう思われてたら木嶋くんのことがいよいよ分からなくなりそうで。

 ……まぁ教室には他の人も居るから、中々思ったことが出てこないっていうのもあるけど。

 夢菜ならすぐに言えるのにな、ってここにはいない親友に助けを求めそうになる。

「……出来たよ」

 少し震えながらカメラを起動して、QRコードを読み込む。

 すぐに画面が切り替わって、木嶋くんのアイコンが表示された。

 メッセージアプリ特有の初期アイコンに、木嶋くんの名前──大河という二文字が視界に入る。

『よろしく』

 至って普通で、簡潔な文章。

 両親と夢菜以外は交換していないメッセージアプリに、木嶋くんが居るのはひどく新鮮だった。

「……うん」

 頬の痛みも忘れて、淡く口角が上がるのが分かった。
 僕は溢れそうになる感情のまま、キーボードに指を滑らせる。

『よろしくね、木嶋くん』

 



 着替えを済ませて次の授業の準備を終えると、まるで見計らったみたいにスマホが振動する。

 画面を見ると木嶋くんからで、『頬、大丈夫?』と表示されていた。

 至って簡潔なそれは僕を気遣うもので、まさか心配されるとは思わなくてじわりと目を見開く。

 ……なんか、改めて心配されるとすごく恥ずかしい。

 ちらりと木嶋くんの席がある廊下側を見ると、彼は机に頬杖をついたまま僕の方をじっと見ていた。

 ──かお、あかい。

 木嶋くんの形のいい唇が一文字ずつゆっくりと動いて、自分の頬を指さす。

「な」

 なんで、っ……!

 顔が赤いって指摘されたら段々と自覚してきて、僕は慌てて保冷剤をおでこや首筋にあてた。